八百歩の射手
ランプを下ろすと、丘の上の影がやっと身じろぎした。
銀糸のような長い髪が、夜風に流れている。淡い水色の燕尾型のコートに、裾の広がったスカート。身長より長い硝子の杖を横に抱え、その周りに照準用の小さな硝子片が六枚、力なく浮いていた。
左の目が、真鍮の枠にはまった望遠レンズになっている。騎士団の旧識別で「狙撃の一番」。硝子のヴィトレア工房の中期型で、整備の工程が旧式の倍はある人形だ。
「整備庫の方ですわね。覚えておりますの。いつも油の匂いをさせていた」
「オルトだ。降りてこないか。上は冷える」
「結構ですわ。わたくしに触れないでくださる?」
レンズの奥が白く濁っていた。曇りだ。騎士団の倉庫は地下で、湿気がひどかった。
「触らない」
「……え?」
「お前がいいと言うまで、触らない。それだけだ」
彼女は黙った。ノノが俺の袖を引いて、小声で言った。
「狙撃の一番さん、半年前の演習で、三回続けて外したっす。団長さんの目の前で。その日のうちに札を下げられたっす」
外したのは、曇ったレンズと歪んだ台座のせいだ。三年前から、交換の要ありと記録帳に書いていた。予算が下りなかった。
申請書を出すたびに、団長は同じことを言った。外す人形に金は出さん、外さなくなったら出してやる。順番が逆だと三度言って、四度目は申請書ごと突き返された。
それから四日は、ギルドの細かい依頼で廃棄場を空けることが多かった。丘の上の影は、そのあいだ一度も降りてこなかった。
五日目の朝、俺は丘のふもとに整備台を据えた。
古い扉を二本の樽に渡しただけの台だ。その上に、鹿革と、削りかけの楔と、薬種商の親父にもらった白蝋油の小瓶を並べる。夜はランプを吊るす。
それから、丘の上には一度も声をかけなかった。
一日目は、ノノの耳の軸を磨いた。二日目は、イリスの盾の留め革を縫い直した。どちらも、丘の上から見える場所でやった。
二日目の夕方、上から声が降ってきた。
「そこの楔。何に使うつもりですの」
俺は手を止めずに答えた。
「狙撃杖の台座だ。右に二度ねじれてるはずだ。三年前からな」
「……なぜ、それを」
「記録帳に書いてある。三年前の春、北の演習場で台座を石にぶつけた。お前は覚えてないかもしれないが」
返事はなかった。ただ、六枚の硝子片のうち一枚が、ふらりと丘のふもとまで降りてきて、楔の上をひと回りしてから戻っていった。見に来たのだろう。
「ノノ、あの硝子の板、ちょっとかわいいっす」
「言ってやるな。上まで聞こえる」
「聞こえておりますわ!」
「オルト殿。待つのですか」
イリスが盾を磨きながら聞いた。
「待つ。怖がってる相手を開けても、ろくなことにならない」
「狙撃の一番は、怖がってなどいないと言うでしょう」
「言うだろうな」
イリスは少し考えてから、珍しく自分から付け足した。
「中期型は、開けられるたびに部品が一つずつ減っていきました。騎士団の倉庫では、そういうものでした」
開ければ直る、と思われていない。開ければ減る、と思っている。それなら、降りてこないのは当然だった。
三日目の昼、騎士団の荷車が廃棄場に鉄屑を捨てに来た。
荷台から錆びた槍の束を放り出しながら、顔見知りの従騎士が、俺を見てばつの悪そうな顔をした。
「……グレンさん。ここにいたんですか」
騎士団では、誰も俺を名前で呼ばなかった。グレン、と姓で呼ぶ。十年そうだった。
「団はどうだ」
「どうもこうも。今週の公報、稼働率79ですよ。先週91で、その前が98。団長は膝の交換が済めば戻るって言ってますけど、交換した膝がまた砂を噛んでるんです」
「洗ってないからな」
「それと、王家から通告が来ました。来期の騎士団予算、金貨三百枚削減。稼働率が落ちた部隊に、満額は出せないって」
従騎士は空になった荷車の取っ手を握ったまま、少し黙った。
「新型の保証書、読んだやつがいたんですよ。『整備不要』の下に小さい字で、『ただし指定の交換部品を定期的に購入の場合』って」
俺は何も言わなかった。言うことがなかった。
異変は、その日の夕暮れに来た。
ノノの耳が、二つ同時に北の林を向いた。
「オルトさん、魔狼っす。十五頭。まっすぐこっちに来るっす」
「なんでここに」
「匂いっす。騎士団が捨てた獣脂油の樽、あそこに二十個あるっす。腹を空かせた狼には、ごちそうの匂いっす」
廃棄場の北側は、鉄屑の丘と丘の間が細い一本道になっている。イリスが迷わずそこへ歩いていき、大盾を地面に突き立てた。
「ここで止めます。……了解を、いただけますか」
「頼む。無理だと思ったら下がれ」
「下がりません」
最初の三頭が盾に跳びかかり、弾き返された。四頭目が脇の鉄屑をよじ登ろうとして、ノノが投げた杭に鼻先を打たれて転げ落ちた。
だが、群れは退かなかった。
「頭がいるっす。群れの後ろ、林の手前の高台に一頭だけ座ってるっす。あいつが吠えるたびに、次のやつが来るっす」
「距離は」
ノノは足の裏で地面を二度叩き、耳を細かく回した。
「……八百歩っす」
杭は届かない。俺の腕では石も届かない。
イリスの盾が、ほんの少し押し込まれた。狼の爪が白磁の縁を引っかき、嫌な軋みを立てる。
その時、背後の整備台がきしんだ。
振り返ると、銀の髪の人形が、台の上に腰を下ろしていた。硝子の杖を膝に置き、背筋を伸ばし、顎を上げて。
「……早くなさい」
声が震えていた。
「わたくしが、自分で座ったのですから」
「開けていいか」
「い、いちいち聞かないでくださる? ……ええ。開けてよろしいですわ」
左目の真鍮の枠のねじを三本外し、レンズを抜く。思ったとおり、曇りは外側ではなく内側だった。溜まった結露を乾いた鹿革で拭い、枠の溝に白蝋油を一滴だけ引いて湿気を防ぐ。杖の台座は、右へ二度ねじれていた。削っておいた楔を一枚、隙間に打ち込む。
レンズを戻すとき、顔を近づけすぎた。
「ち、近いですわ」
「近くないと見えない」
「……そういうことを、平気な顔で言わないでくださる?」
硝子の頬が、ほんのり藤色に染まっていた。俺は見なかったことにして、最後のねじを締めた。
三十分。そのあいだ、イリスは一歩も下がらなかった。
セラフィナは台から降り、丘の斜面に片膝をついた。硝子の杖を構えると、浮いていた六枚の硝子片が、杖の先から高台まで一直線に並ぶ。
「整備士。一つ、申し上げておきますわ」
「なんだ」
「わたくし、半年前の演習で外したのは、三回ですの。四回目は、ありませんわ」
杖の先から、細い光の針が走った。
夕闇を裂いて、八百歩先の高台へ。
座っていた黒い影が、仰け反って倒れた。
一拍おいて、一本道の狼たちが一斉に動きを止めた。頭を探して振り返り、鼻を鳴らし、それから、ばらばらに林へ逃げ込んでいった。最後の一頭の尻尾が見えなくなるまで、イリスは盾を下ろさなかった。
「……当たったっす! 一発っす!」
ノノが跳ねた。セラフィナは杖を下ろし、顎を上げた。
「当然ですわ」
そう言った指先が、まだ細かく震えていた。
震えの理由を、彼女は自分から言った。
「開けられたら、どこか足りないと言われると思いましたの。騎士団の倉庫では、開けられた子はたいてい、何かを抜かれて戻ってきましたから」
「足りないものはなかった。曇りと、歪みだけだ」
「……本当に?」
「俺は、見たものしか言わない」
俺は整備台の上の鹿革を畳んで、彼女に渡した。
「毎晩、そこに置いておく。座りたい時に座ればいい」
セラフィナは鹿革を受け取り、しばらく眺めてから、胸の前で握った。
「……気が向いたら、座って差し上げますわ」
「それでいい」
イリスが盾の縁の引っかき傷を指でなぞって、ぽつりと言った。
「オルト殿。明日、ここを削っていただけますか」
「今夜やる」
「……了解」
その時、門のほうで松明が揺れた。
騎馬が三騎、鉄屑の丘の間を抜けてくる。先頭の馬の上で、白手袋が手綱を引いた。
団長ヘルマン・ドライツェンは、馬上から俺を見下ろし、それから俺の後ろに並んだ三体を順に眺めた。盾の人形、斥候の人形、狙撃の人形。
「グレン」
勲章が松明の火を映して光った。
「備品を返せ」
(第4話へ続く)




