足跡を数える子
回る音の正体は、車輪の山の陰にうずくまっていた。
小柄な人形だった。深緑のフード付きの短い外套に、栗色のはねた髪。頭の上で、真鍮でできた狐の耳の形のセンサーが、きりきりと俺のほうへ向きを変える。膝から下は木目の浮いた樫材で、裸足だった。
「……人っすか」
声がかすれていた。
「騎士団の人っすか。ノノ、まだ動くっす。ちゃんと歩けるっす。だから札は」
首から「欠陥品」の木札が下がっている。騎士団の旧識別で「斥候の二番」。俺の記録帳では、足跡を読ませたら右に出る者のいない人形だった。
「元、騎士団だ。昨日やめさせられた」
耳がぴたりと止まった。
「……整備庫の、オルトさんっすか」
「そうだ」
「オルトさんっす!」
飛びつこうとして、彼女は膝から崩れた。足の裏が地面をとらえていない。
しゃがんで見ると、理由はすぐに分かった。樫の足の裏に貼ってあった真鍮の板が、紙のように薄くすり減り、端から剥がれている。むき出しの木が、歩くたびに割れていた。
「足を見ていいか」
「い、いいっす! どうぞっす!」
後ろで、イリスが盾を立てたまま言った。
「オルト殿は、開ける前に必ず聞きます。昔から」
「知ってるっす。ノノも昔から聞かれてたっす」
鍋の蓋が一枚、横から差し出された。ロッテだった。
「あらあら。真鍮なら、これを使ってくださいな。もう穴が空いて、煮炊きには使えないの」
蓋の縁の厚い部分を切り出し、足の裏の型に合わせてやすりで削る。割れた樫の繊維を膠で寝かせてから、新しい板を四本の鋲で留める。左右とも同じ厚みになるまで、三度削り直した。
ノノは立ち上がり、一歩踏んで、跳ねた。
「……痛くないっす」
もう一歩。今度は走った。錆びた鎧の山を駆け上がり、てっぺんでくるりと回り、同じ速さで駆け下りてくる。耳が風を切って鳴った。
「オルトさん、ノノ、走れるっす!」
「見れば分かる」
顔が熱くなったのは、朝日のせいだと思う。
耳の軸も見たかったが、今日はやめた。一度に何か所も開けると、どこが効いたのか分からなくなる。直した場所は一日に一つ。それも十年のうちに覚えたことだ。
「番所で引き取り証を書いてもらう。銀貨二枚だ。ここに残りたいなら、それでもいい」
ノノは耳を二度回してから、俺の袖をつかんだ。
「行くっす。ノノ、ここの足跡はもう全部数えたっす。四十八体分、雨の日も晴れの日も数えたっす。飽きたっす」
「四十八か」
「オルトさんが最後に油を差したのも数えたっす。盾の三番が最後っす。半年と十二日前っす」
イリスが、ほんの少しだけ顎を引いた。
「……正確です」
グスタフ爺さんは二枚目の証文を書きながら、煙管の先で俺を指した。
「昨日から銀貨四枚。お前さん、このぶんだと山ごと買うことになるぞ」
「本人が来たいと言えばな」
問題は金だった。白蝋油は昨日で使い切った。真鍮板も鋲も、ただではない。
昼前、イリスとノノを連れて城下のギルドへ行った。受付のマルガは、俺の顔を見るなり眉を上げた。
「騎士団の整備士さんが、自分で依頼を受けに?」
「元、だ。護衛の依頼はあるか。安くていい」
「ちょうど一件。薬種商の荷馬車を北の林道の向こうの村まで。報酬は金貨三枚。本当は騎士団さんが林道の魔獣を掃討するはずだったんですけど、ね」
含みのある言い方だった。
荷主は、腰の曲がった薬種商の親父だった。荷台には薬草の麻袋が十二。林道を抜けて村へ届ければ、冬の咳止めになるらしい。
林道に入ると、ノノが先に走った。
耳が左右ばらばらに回り、足の裏で地面を叩いては止まる。真鍮の板越しに、土の下の固さを聞いているのだ。
「オルトさん、止まってほしいっす!」
ノノがしゃがみ、落ち葉を指先でどけた。
鉄の顎が、口を開けて埋まっていた。魔獣用の挟み罠だ。大人の脚なら骨ごと持っていく大きさで、柄の部分に白獅子の刻印がある。
「騎士団の罠っす。掃討の時に仕掛けて、回収しないで帰ったっす」
親父の顔が青くなった。この道を、荷馬車の車輪は毎日通る。
ノノは杭で罠の顎を閉じさせ、道の脇へ放った。それから十歩も行かないうちに、また止まった。
「二つ目っす」
今度は木の根の間。その先の小川の手前で、三つ目。ノノは三つとも、足跡と土の沈み方から見つけた。
「なんで分かる」
親父が、荷台から身を乗り出して聞いた。
「罠の上だけ、鹿が跨いでるっす。鹿は鉄の匂いを嫌うっす。だから足跡が、そこだけ大股になるっす」
「騎士団の連中は、そんなこと一度も言わなかったがな」
「言う前に、ノノが捨てられたっす」
ノノは笑って言った。親父は何か言いかけて、帽子を深くかぶり直した。
イリスは荷馬車の横を離れなかった。途中で藪から痩せた魔狼が一匹顔を出したが、大盾が地面を叩く音一つで逃げていった。
村に着いた荷台は、麻袋の一つにも傷がなかった。親父は俺の手を両手で握り、報酬とは別に、白蝋油の小瓶を一つ持たせてくれた。薬種商は油も扱うのだそうだ。
「あの罠がなけりゃ、ここ二年で馬を三頭なくさずに済んだよ」
夕方、ギルドへ報告に戻ると、マルガが掲示板の一枚をはがしているところだった。
「騎士団さん、北の遠征を一件返上してきたんです。新型の膝が固まって、三体が動けなくなったって」
「昨日、荷車で運ばれていくのを見た」
「それでね、王都工房から職人さんを呼んで膝を交換させたら、出張費込みで金貨四十枚。整備費の予算にない額だから、団長さんの決裁で追加ですって」
四十枚。俺の年俸の半分近くだ。膝を一度洗えば済んだ話だった。
マルガが、声を落とした。
「こんなこと、前はなかったんですよ。騎士団さんの依頼が途中で返ってくるなんて」
俺は報酬の金貨三枚を受け取って、礼だけ言った。
その夜、番小屋の作業台にランプを吊るして、ノノの足の裏をもう一度見た。鋲の座りは悪くない。
ノノは足をぶらぶらさせながら、ずっと喋っていた。林道の土のこと、罠の錆び方のこと、魔狼の足跡が一匹分しかなかったこと。それが急に止まった。
「オルトさん」
「なんだ」
「また、捨てられないっすか」
笑ったままの顔で言った。耳だけが、下を向いていた。
約束をするのは簡単だった。けれど俺は、自分に守れるかどうか分からない約束はしない。騎士団で十年、守れない約束をする人間を何人も見てきた。
代わりに、棚から記録帳を下ろして開いた。
「斥候の二番」の頁。七年分の書き込みが、細かい字でびっしり並んでいる。毎月一度、足の裏の真鍮の厚みを測った数字。耳の軸に差した油の量。雨の多い月は、樫の反りを見た印。
最後の書き込みは、半年前だった。
獣脂油への切り替えに反対。聞き入れられず。
「……これ、全部ノノのっすか」
「そうだ」
「ノノが寝てる間も、書いてたんすか」
「足の裏は、寝てても減る」
ノノはしばらく黙って頁をめくっていた。指先で、数字を一つずつなぞっていた。
「約束はしない。代わりに、明日の分をここに書く。明後日の分も書く。書けなくなったら、その時は理由を書く。捨てたとは書かない」
「……捨てたって、書かないっすか」
「書いたことがない。一度もだ」
ノノは帳面を胸に抱えて、顔を上げた。
「オルトさん。ノノ、刻んでもいいっすか」
刻むかどうかは、彼女が決めることだ。
「お前が決めていい」
「決めたっす!」
ノノはフードの襟を指で下げ、鎖骨の下の真鍮の板に、人差し指の先の刻み針を当てた。一画ずつ、ゆっくりと。オ、ル、ト。最後の画で針が少し滑って、ノノは「あっ」と言ってから、そのまま笑った。
「ちょっと曲がったっす。でも、ノノが刻んだっす」
壁際で、イリスが何も言わずにそれを見ていた。
「……了解」
誰に向けた返事なのかは、聞かなかった。
ランプの火を落とそうとした時、ノノの耳がぴんと立った。二つとも、同じ方向を向いている。鉄屑の丘の、いちばん高いところだ。
「オルトさん、上に誰かいるっす」
ランプを掲げると、丘のてっぺんで何かが光った。硝子の反射だ。丸い、望遠のレンズの。
澄んだ、少し震えた声が降ってきた。
「その明かり、こちらへ向けないでくださる?」
(第3話へ続く)




