油臭い手入れ屋
新型の膝に耳を当てたのは、命令違反だった。
白獅子騎士団の整備庫。灰色の装甲の人形が二十体、同じ角度で壁際に並んでいる。王都工房が古代品をまねて作った新型で、首には黒い輪がはまり、胸には「整備不要」の刻印が打ってある。
その三体目の膝から、砂を噛む音がした。蓋の継ぎ目を指でなぞると、細かい砂が爪の間に詰まる。北の街道の赤い砂だ。
「グレン」
背中で声がした。振り向くより先に、白手袋の指が俺の工具箱を蹴った。
騎士団長ヘルマン・ドライツェン。金髪を後ろへ撫でつけ、胸には勲章が隙間なく並んでいる。油に触れたことのない白手袋が、今日も汚れ一つない。
「誰が新型に触れと言った」
「膝に砂が入ってる。遠征の前に一度洗わないと、七日で噛みつく」
「整備など不要だ」
団長は、一枚の紙を俺の鼻先にかざした。王都工房の保証書だ。赤い封蝋の下に「整備不要・五年保証」と大きく書いてある。
「王都工房長が保証している。お前の仕事は、もう無い。今日で終わりだ、油臭いの」
十年だ。十四で整備庫に入って、人形の関節を一つずつ覚えた。先代の団長の頃は、四十体を超える旧式を俺ひとりで回していた。
その旧式が、半年でいなくなった。新型が来た日から、団長は旧式に油を差すことを禁じた。安い獣脂油に切り替え、関節が軋めば「欠陥品」の札を下げて、北門の外の廃棄場へ運ばせた。四十八体。台帳の数字を、俺は全部覚えている。
「分かった」
俺は継ぎ目の砂を指で払い、立ち上がった。蓋は開けていない。開けていいかと聞いても、新型は答えない。答えられない相手の蓋は開けない。それだけは誰の命令でも曲げない。
「私物は持っていけ。その紙屑もだ」
団長が顎で指したのは、棚の端の分厚い帳面だった。俺の整備記録帳。十年分、一体ごとに、何をいつ直したかを書いてある。
「手順書のほうはギルドの閲覧室に写しがある。読みたければ誰でも読める」
「誰も読まん。新型には要らんのだからな」
整備鞄と、真鍮の手提げランプと、記録帳。それが十年で持ち出せたものの全部だった。
門を出る時、北の遠征へ出ていく隊列とすれ違った。新型が十体、同じ歩幅で進んでいく。三体目と七体目と九体目の膝から、さっきと同じ音がした。
俺は何も言わなかった。もう言う立場にない。
足が向いたのは、北門の外だった。
廃棄場は、城壁の影に沿って広がる鉄屑の丘だ。壊れた荷車、錆びた鎧、城門の足場に使った鉄骨。その間に、人の形をしたものが幾重にも積まれている。
番所の小屋で、番人のグスタフ爺さんが煙管をくわえていた。
「人形を引き取るなら一体銀貨二枚。証文はわしが書く」
「見てから決める」
丘を登ると、先客がいた。
焦げ茶のワンピースに生成りのエプロン。背中に大きな籠を背負った、大人の女の姿の人形だ。錆びた鎧の人形の肘に、布の切れ端で油を塗っている。
「あらあら。坊や、ここは人の来る所じゃありませんよ」
坊や、と来た。二十四だが、言い返すのはやめておいた。人形の年は見た目で分からない。
「騎士団から運ばれてきた人形を探してる」
「ああ、あの子たち。奥の窪みにまとめて寝かせてあります。雨が溜まらないところを選んだんですよ」
彼女は自分をロッテと名乗った。いつからここにいるのかと聞くと、指を折りかけて、途中でやめた。
「数えるのは、百でやめました」
窪みの底に、見覚えのある白い肩があった。
白磁の外装に、金の継ぎ目。左腕は身の丈ほどの大盾と一体になっている。頬に走るひびを、昔の職人が金で埋めた跡。騎士団の旧識別で「盾の三番」。俺が十年、いちばん多く油を差した人形だ。
首から「欠陥品」と書いた木札が下がっていた。
右腕は肘の球体関節から外れ、体の横に転がっている。獣脂油が固まって受け口にこびりつき、そこへ砂が噛んだまま無理に動かされたのだろう。
胸の動力核が、ほんのかすかに金色に灯っていた。まだ眠りきってはいない。
「盾の三番。俺だ、オルトだ」
返事はない。半分眠った古い人形は、口の代わりに動力核の明滅で答える。一度なら「はい」、二度なら「いいえ」。
「肘を開けていいか」
灯が、一度だけ強くなった。
「ありがとう」
固まった獣脂を木べらで掻き出し、受け口を布で三度拭う。鞄の底に残していた最後の白蝋油を、球の表面に薄く引く。腕を持ち上げ、骨と骨の角度を合わせてから押し込むと、奥で小さな歯車が噛み合う音がした。
白い指が、一本ずつ曲がった。
金色の瞳が開く。瞳孔の奥の同心円が、二度絞られて俺に焦点を合わせた。
「……オルト殿」
「久しぶりだな」
「半年と十二日です」
彼女は右手を握っては開き、肘を三度曲げてから、最後に俺の顔を見た。
「油が、違います」
「団のは獣脂だった。白磁の関節には合わない。これが本来のだ」
「……了解」
短い。昔からこうだ。
「オルト殿は、なぜここに。整備庫は」
「今朝、追い出された。新型は整備不要だそうだ」
イリスは瞬きを一つした。人形の瞬きは、関節の具合を確かめるためのものだと昔の手順書にはある。けれど今のは、たぶん違った。
「……では、私たちと同じですね」
「同じか」
「はい。要らないと言われて、ここへ来ました」
窪みの縁から、ロッテが籠を背負ったまま覗きこんでいた。
「あらあら。仲良しさんなのね。この子、ここへ来てからずっと、同じ名前を寝言みたいに灯していたんですよ。核の光で、三つずつ」
「三つ?」
「オ、ル、ト。今なら分かります」
イリスは返事をしなかった。代わりに、盾の縁を指で一度、こつんと叩いた。
その時、頭の上で鉄が鳴った。
窪みの縁に積まれていた城門の足場の鉄骨が、雨で緩んだ土ごとずり落ちてくる。俺は鞄を抱えたまま立ち上がることもできなかった。
白い影が、俺と鉄骨の間に入った。
大盾が地面に突き立ち、鉄骨が三本、盾の表面を滑って左右へ落ちた。地面が揺れ、錆の粉が雪みたいに舞う。月の紋を刻んだ盾の縁は、欠けもしていなかった。
「怪我は」
「ない。お前は」
「盾の角度を、二度誤りました。起きたばかりのため、と申し上げておきます」
後ろで、ロッテが籠を下ろして手を叩いた。
「まあまあ、頼もしいこと」
俺はイリスの左肩の留め具を確かめた。緩みはない。十年前に俺が削り直した真鍮の座金が、まだ仕事をしていた。
「一つ、先に申し上げます」
イリスは盾を引き抜いて、俺の正面に立った。長身の彼女が背を伸ばすと、俺は見上げる格好になる。
「主の登録は、保留します」
鎖骨の下の登録板は、今も空白のはずだ。騎士団は旧式を「備品」として扱い、誰の名も刻ませなかった。刻むかどうかを決めるのは、人形本人。古い人形はそういうふうに作られている。
「それでいい」
「……了解」
「ただ、ここに置いておくわけにもいかない。番所で引き取り証を書いてもらう。お前が嫌でなければだ」
「嫌ではありません。主とはまだ認めていません。それだけです」
グスタフ爺さんに銀貨を二枚払った。証文の名前の欄には、彼女が自分で「イリス」と書いた。騎士団が付けた番号ではない、工房で付けられた本来の名だそうだ。十年一緒にいて、初めて知った。
日が落ちかけた頃、北門の外の街道に隊列が戻ってきた。
朝に出た新型の遠征隊だった。
ただし、歩いているのは七体だけだった。残りの三体は荷車に積まれ、膝をまっすぐ伸ばしたまま運ばれていく。三体目と七体目と九体目。関節が砂を噛んで固まると、ああいう角度になる。
荷車の横で、若い騎士が怒鳴っていた。
「整備不要じゃなかったのかよ。街道を半日歩いただけだぞ」
誰も答えなかった。答えられる者は、今朝、門の外へ出されている。
その夜は、ロッテの勧めで番小屋に泊まった。
翌朝、グスタフ爺さんが広場から戻ってきて、刷りたての王都公報を俺の前に広げた。団長は新型の成果を誇るために、騎士団の人形稼働率を毎週ここへ載せさせている。
先週の欄は、98%。
今週の欄には、新しい数字が刷られていた。
91%。
下に小さく、「膝関節の一時的な不具合、三体。整備不要につき交換で対応」とある。
「交換、ねえ」
爺さんが煙を吐いて笑った。
「部品代はいくらだろうな」
俺は答えなかった。俺の知ったことではない。
公報を畳んで窪みへ戻ると、イリスが盾を立てて、鉄屑の丘の奥をじっと見ていた。
「オルト殿。昨夜から、あちらで音がします」
「どんな音だ」
「回る音です」
耳を澄ます。風の音と、鉄の軋む音。その底に、確かに混じっていた。
錆びた車輪の山の陰で、何か小さな真鍮の部品が、きりきりと向きを変える音が。
(第2話へ続く)




