受取人はロッテ
ロッテは筆を取り、受取人の欄に自分の名を書いた。
引き取られる人形の欄にも、ロッテ。
同じ名が二つ並んだところで、グスタフの太い指が止まった。
「……これじゃ、自分を自分で引き取ることになるぞ」
「はい。そのつもりで払いました」
机の上の銀貨二枚を、ロッテは指先で揃えた。筆はまだ返さない。
「でも、捨てられた日を書く欄は、埋められませんわ。私は捨てられていませんから」
「そこは空けとく。分からねえことは書かねえ」
グスタフは余白に大きな字で、以前から当地に居住、と書き足した。
ロッテの筆先が、今度は行き先の欄へ移る。
北門外、廃棄場、番小屋。
今いる場所を書いてから、彼女はようやく筆を置いた。
「どこへも行かねえのに、引き取りか」
「ここにいると、私が決めた証が欲しいんです」
グスタフは鼻を鳴らした。控え帳と同じ内容を別の紙に書き、銀貨を机の引き出しへ落とす。
「だったら、持ってけ。なくすなよ」
ロッテは紙の両端を持った。鍋でも油差しでもないものを、俺たちに渡さず、自分の胸元へ引き寄せた。
「オルトさん。これで、足りますか」
「俺には決められん。明日、ギルドに確かめる」
「そうですね」
「ただ、金を払ったから、お前がお前のものになるわけじゃない」
彼女が顔を上げた。
「払う前から、誰についていくかはお前が決めていた。それを消されないための紙だ」
ロッテは少し考え、書いたばかりの二つの名を見比べた。
「ええ。銀貨がなくても、同じことを言いますわ」
帰り際、いつものように俺の鞄へ手を伸ばしかけて、彼女はやめた。乾ききっていない紙を、両手で水平に持ち直す。
俺は鞄を自分で持った。
番小屋までの短い道を、その速さで歩いた。
翌朝、城下へ出たのは、俺とロッテ、イリス、チコだった。
ロッテは背負い籠を置いてきた。引き取り証は、チコが用意した薄い板二枚の間に挟んである。折り目から字が読めなくならないように、と何度も確かめていた。
ギルドの受付には、昨日の朱色の肩章がいた。
その隣に、公開稼働試験の日から顔を合わせている王城の若い係官が立っていた。マルガが俺たちを見つけ、受付脇の机を示す。
「昨日お預かりした受け取り・装着拒否の控えと本人確認の記録を添えて、伺った回収指示について王城に照会しました。ご本人の話も聞いていただきます」
ロッテが板を机に置いた。
書記は差し出された紙を読むと、受取人の名を爪で叩いた。
「今さら帳面を作ったところで、過去の所有者は証明できない。人形が自分を受け取るなど、聞いたこともない」
「昨日の日付ですもの。昔の出来事にはしていませんわ」
「だから、証明にならないと言っている」
「何を証明すればいいのでしょう」
おっとりした声だった。けれど、ロッテは紙を引っ込めなかった。
「誰に捨てられたかなら、答えはありません。誰に連れていかれたいかなら、お答えできます。あなた方についていくつもりはありません」
書記が俺を見た。
「グレン。お前がこう言わせたのか」
「俺に聞いても、本人の答えは変わらん」
イリスがロッテの隣に立った。盾は背に預けたままだ。
係官は引き取り証を読み直し、書記の指示書と並べた。
「回収の根拠は、所有者不明の廃棄物であること。そうですね」
「指示書のとおりだ」
「では、この方が廃棄された記録を出してください」
「引き取り証がなかった。それ自体が——」
「捨てられた記録にもなりません。番人の申告では、以前からここに住んでいた方です。王城への照会にも、そのように記されています」
書記は指示書をめくった。二枚目の裏まで返したが、そこにロッテを捨てた者の名が増えることはなかった。
「登録板を調べれば、元の管理者が分かる」
「私の登録板には、オルト・グレンと刻んであります」
ロッテが答えた。
「私が、自分の手で刻みました。でも、ここにいる理由まで、オルトさんに答えてもらうつもりはありません」
俺は開きかけていた整備記録帳を閉じた。
登録した日の記録も、あの手首の炭写しもある。求められれば見せる。だが、今はロッテが話していた。
「百年、私はあそこで油を差してきました。動けない子がいると、離れるのが怖かったんです。戻るまでに灯が消えてしまうかもしれませんから」
机の下で、彼女の手が一度重なった。
「今は、代わってくれる手があります。今日も、お願いして出てきました」
チコが胸の前で帽子を握り直した。
「出てこられるようになって、分かったんです。私は、あそこへ帰りたい。待っている人がいる番小屋へ。帰って、自分の番になったら、手を見てもらいたいんです」
ロッテは引き取り証を、係官の前へ押し出した。
「それを書きました。足りない欄があるなら、私に聞いてください」
係官は椅子を引いた。
「お掛けください。お話は、ご本人から伺います」
書記が口を開いたが、係官は続けた。
「この指示書に基づく、この方の回収は認められません。異議があれば、廃棄の根拠を添えて審問院へ提出してください。王城への報告は私が行います」
朱色の肩章が、机から離れた。
謝罪はなかった。書記は指示書を乱暴に紙挟みへ戻し、靴音を響かせて出ていった。
ロッテは椅子に座った。それから、俺のために隣の椅子を引こうとして、手を止めた。
俺が自分で引いて座ると、彼女は膝に置いた両手をゆっくりほどいた。
聞き取りが済むまで、俺の記録帳を開く必要はなかった。
引き取り証を板に戻していると、マルガが別の通知を持ってきた。
「白獅子の、来月の定期護衛契約二件。ギルドは更新しないと決めました。運用を保証できる整備担当者が、結局届け出られませんでしたので」
通知の契約欄には、二本の抹消線があった。
俺がいた頃、遠征の前夜には、兵装の点検だけで明け方になった。誰が何を運び、どこで休ませるかまで書いて、ようやく送り出せた。その手を不要とした詰所に、来月の仕事は届かない。
マルガは通知を閉じた。
「ロッテさんの控えは、ご本人のお名前でお預かりします。写しが必要になったら、いつでもどうぞ」
「ありがとうございます。自分で取りに来ますわ」
その返事に、チコが板を抱えかけた手を引っ込めた。ロッテは礼を言って、自分の紙を自分で持った。
夜、整備台の当番が回ってくると、ロッテは籠から布を出すより先に腰を下ろした。
「右の手首が、少し引っかかります。紙を持っていたときに気づきました」
「いつからだ」
「昨日です。言うのが遅くなりました」
「次は、気づいたときに言え」
「はい。今日は私の手を、お願いします」
ランプを寄せる。動かしてもらうと、折り返しで小さな擦れが聞こえた。
「開けていいか」
「ええ。オルトさんにお願いします」
手首の覆いを外し、溝に残った古い油と細かな粉を布で拭い取った。
擦れていた縁を少しずつ削り直し、粉を除いて注油する。噛み合わせを調整し、休みを挟んで曲げ伸ばしを確かめてもらった。
その間、ロッテは作業台の向こうの鍋を二度見た。二度目にはチコが蓋を持ち上げた。
「ぼくが見ます。ロッテさんは、手を動かさないでください」
「あらあら。叱られてしまったわ」
「頼んだんだろ。任せろ」
彼女は鍋から顔を戻した。
覆いを閉じる頃には、手首の引っかかりはなくなっていた。明朝の確認を伝えると、ロッテは頷き、まだ台から下りずに言った。
「オルトさん。これから、外へ行くときは、私にも声をかけてください」
「籠が要る仕事か」
「荷物がなくてもです」
膝の上に戻した手を、彼女はゆっくり握った。
「留守を守るのも好きです。でも、それだけに決めないでほしいんです。私も、あなたの隣で歩きたい」
「分かった。行くか残るか、その都度聞く」
「ええ。その都度、私が答えます」
俺は彼女の整備記録に、右手首、朝に再確認、と書いた。引き取り証の写しは、ロッテが自分でその隣に挟んだ。
机には、王城の係官から預かった案内がある。
審問院で、宰相府による封じ栓の配布と回収指示について、受け取りを拒んだ者の意見を聞く。出席は本人の希望による、と記されていた。
ロッテは昼、その紙を受け取ったときには何も言わなかった。今は違った。
「そこへ、行きたいです。私一人の引き取り証ができても、同じ紙を持てない子はいますもの」
「俺も行く」
イリスとカサンドラにも声をかけ、同行する意思を確かめた。出すのは三体。鞄の仕切りに、それぞれの油と予備の留め具を収める。
翌朝、ロッテは俺の横で靴紐を結んだ。
俺は鞄を提げ、審問院へ向かうために番小屋の戸を開けた。
(第37話へ続く)
今回の手首の整備では、油を差す前の拭き取りに少し目を留めていただければと思います。細かな削り粉が残っていると、動かすたびに部品の表面を傷つけることがあります。削ったあとにも粉を除くのは、滑らかに動く状態を保つためのひと手間です。




