受け取らない箱
夜が明けきる前に、番小屋の戸を叩く音がした。
三度。間を空けずに、拳の腹で叩く音だった。ノノが毛布から跳ね起きて窓の隙間に張りつき、すぐに振り返った。
「荷車っす。二台。片方に木箱が四つ、もう片方に人が三人。真ん中の人、朱色の肩章っす」
「宰相府の色ですね」
ポーラが帳面を開き、日の出前の時刻を書きつけた。カサンドラは何も言わず、昨夜留めたばかりの左肘の覆いに一度だけ指を当てた。
俺は上着を羽織って戸を開けた。朱の肩章の書記が、紙挟みを胸の前に掲げて立っていた。その後ろに、革の前掛けをした男が二人。王都工房の装着工だ。前掛けの胸に、工房の歯車の焼き印がある。
「オルト・グレンだな。宰相府の発注品を届けに来た。受領の署名を」
「中身は」
「封じ栓。四十個。それと装着の指示書だ。番小屋に預かりの古代人形がいる場合、これを装着して管理下に置く。装着は工房の者が行う。お前は場所を貸して署名をすればいい」
書記は紙挟みを開いて、受領者の欄を指で叩いた。俺の名が、もう刷ってあった。
昨夜、カサンドラが言った送り状の字と同じだ。北門外、廃棄場、番小屋。
「署名はしない」
「受け取りを拒むのか。宰相府の発注だぞ」
「俺は注文していない。俺の物じゃない箱に、俺の名は書かない」
装着工の一人が鼻で笑い、木箱の蓋に手をかけた。釘を抜く鉄の爪が、朝の冷えた空気に高い音を立てる。
「署名がなくても装着はできる。指示書にそう書いてある」
男が箱から黒い輪を一つ取り出し、小屋の中へ一歩踏み込もうとした。
その前に、白い盾が下りた。
イリスだった。音も立てずに戸口の内側に立ち、盾の下端を床板に据えている。押し返しはしない。ただ、そこに立っていた。四年前の整備庫で、命令札一枚で前に出されていた盾が、いまは誰の札もなしに、自分の足でそこにある。
「止まってください」
「どけ。備品が口をきくな」
「私は備品ではありません。登録板に、自分で主の名を刻みました」
イリスは盾を動かさないまま、男の手の黒い輪を見た。
「それを私の首に着けるなら、先に聞くことがあるはずです。主殿は、私の体を開ける前に、毎回聞きます。開けていいか、と。あなたは聞いていません」
「聞く必要がない」
「では、答えます。いいえ」
短い声だった。盾の縁は、指一本ぶんも揺れなかった。
イリスの後ろで、一人ずつ前に出た。
「ノノも、いやっす」
「わたくしの首に、そのような粗い鋳物を。当然、お断りですわ」
「あたしもいや! ぶっ放しは、しないけど!」
グレタが大砲を背負ったまま両手を握りしめ、言ったあとで俺の顔を見た。撃たないと自分で決めて言ったのだと、その目が言っていた。俺は小さく頷いた。
ミラは黙って、肩の灯のエンブレムに手を添えた。ポーラは帳面に、拒否した者の名を一人ずつ、本人の顔を見てから書いていった。チコは筆を握ったまま、俺の背中に隠れずに横に立った。
最後にカサンドラが、書記の前まで歩いた。懐から、畳んだ紙を一枚出す。王城の命令書の写しだ。裏の受領者の欄には、刷られた型式名に一本線が引かれ、その上に彼女の字がある。隣に、係官の受領印。
「体を開けていいのは、本人が許した者に限る。王城の係官が、この条件で私を受け取りました。宰相府の指示書は、王城の受領印より上ですか」
書記は写しを読み、紙挟みの指示書と見比べた。読む時間が、少し長すぎた。
「……この指示書は、装着の手順を定めたものだ。条件の扱いまでは書いていない」
「書いていないなら、手順は始まりません」
装着工が黒い輪を握り直した。俺はその手を見ていた。力の入った指は、工具を持つ手の形をしていなかった。部品を嵌め込む前に、相手の軸がどれだけ摩耗しているか、一度も確かめたことのない手だ。
「俺は止めない」と俺は言った。「あんたたちの荷も、仕事も。ただ、ここにいる誰も、装着を許していない。それを記録に残して帰ってくれ。グスタフの番所で、受け取り拒否の控えを書いてもらう」
書記は口を結び、装着工に顎で合図した。男は黒い輪を箱に投げ戻した。輪が箱の底で、乾いた音を立てた。
番所の机で、グスタフは控え帳を開いた。
「字の細けえのは読めねえ。だから、言え。わしが大きく書く」
「宰相府の荷、封じ栓四十個。番小屋は受け取りを拒否。装着は、本人全員が拒否」
グスタフは一字ずつ、太い字で書いた。拒否、の二文字だけ、筆を押しつけるように濃かった。書記は渋い顔で控えの写しに受領印を押し、木箱を荷車に積み直した。
そのとき、書記が紙挟みから指示書の二枚目を落とした。拾ったのはポーラだった。返す前に、彼女は一度だけ紙面を見た。観測型の目は、見たものを見なかったことにできない。
「オルトさん。二枚目に、装着とは別の項目があります」
「読め」
「『番小屋に、引き取り証のない人形数体あり。所有者不明の廃棄物として、宰相府がこれを回収する』」
書記が紙を引ったくった。だが、もう遅かった。読み上げた声は、全員の耳に届いていた。
昼前に、城下のギルドへ行った。
マルガは控えの写しを受け取り、受付の預かり台帳に綴じた。宰相府の荷、受け取り拒否。装着、本人拒否。拒否した者の名、十名、本人の確認あり。ポーラの帳面の頁を写して添えると、マルガは珍しく、口の端を少しだけ上げた。
「ついでに、今朝の数字です。白獅子が王都工房に払うはずだった交換費、金貨六十枚。支払い期限の三日で、騎士団が納めたのは十一枚でした。残り四十九枚の担保として、工房は騎士団の新型を三体、預かりに回しています」
「預かり」
「差し押さえ、とも言いますね。今週、白獅子の詰所で自分の足で歩ける新型は、帳簿の上で三体です。それと、従騎士がまた一人、離職届を出しました。理由の欄には『人形の整備をしてくれる者がいない』と」
俺は何も言わなかった。十年、あの整備庫で一人で回していた仕事の名が、いまは離職届の理由の欄に書かれている。それだけのことだ。書いたのは騎士団の誰かで、読むのも騎士団の誰かだ。
「それで、引き取り証のない人形、というのは」
マルガが声を落とした。俺は振り返った。ギルドの長椅子の端で、ロッテが膝の上で手を重ねて座っていた。いつものように、背筋をまっすぐにして。
夕方、番所に戻ると、グスタフは控え帳の古い束を、棚の奥から引っぱり出してきた。紙は黄ばみ、綴じ紐は何度も結び直されている。
「わしの前の番人の、そのまた前の分までだ。騎士団の四十八件も、ギルドの鉄材も、商会の古い人形も、全部ここに書いてある」
グスタフは頁をめくり、指でなぞり、また戻った。
「あの婆さん人形の分は、どこにもねえ。わしが番に来たとき、もうあそこにいた。前の番人も、同じことを言ってた。最初からいた、ってな。誰にも捨てられてねえから、誰も引き取ってねえ」
捨てられていない。だから、引き取り証がない。百年、廃棄場の人形に油を差してきた手が、紙の上ではどこにもいないことになっていた。
ロッテは控え帳を覗き込み、それから、俺の記録帳を指さした。
「オルトさん。私の頁、開けていただけます?」
開いた。三十日目の夜、彼女が自分で当番表に名を書いた日の記録がある。登録板に、彼女が自分で俺の名を刻んだ日の記録もある。手首の内側の読めない刻印を炭で写した紙が、挟んである。
引き取り証の欄が、空いていた。番所を通っていない者の頁は、どれもそうだ。俺はそこに、何も書いていなかった。書けるものが、なかったからだ。
「あらあら。ここ、空いていたのねえ」
ロッテは、怒ってもいないし、悲しんでもいない声で言った。空いた欄を指先で一度撫で、それから俺を見た。
「オルトさんが書いても、駄目なのでしょう?」
「俺が書けば、俺が勝手に持ち主になったことになる。宰相府は、そこを突いてくる」
「そうよねえ。坊やは……オルトさんは、そういうことはしない人だもの」
言い直した呼び方に、彼女は自分で小さく笑った。そして、エプロンの隠しから、古い布の小袋を取り出した。百年のあいだに、廃棄場で拾ったのか、誰かに貰ったのか。口紐は擦り切れて、結び目だけが新しかった。
「グスタフさん。引き取り料は、一体、銀貨二枚でしたわね」
「……ああ」
「引き取られる側が自分で払ってはいけない、と、どこかに書いてありますか」
グスタフは控え帳を見下ろし、太い指で頁の端を押さえた。しばらく黙って、それから首を振った。
「書いてねえ。わしの読める字では、どこにも」
ロッテは小袋の口を開け、銀貨を二枚、グスタフの机の上に一枚ずつ並べた。それから、俺の記録帳の空いた欄の上に、細い指をそっと置いた。
書くのは、私です。そう言うかわりに、彼女は控え帳の受取人の欄を、自分のほうへ引き寄せた。
(第36話へ続く)
グスタフの控え帳に出てきた綴じ紐は、紙の束をまとめるためのものです。ほどいて結び直せる綴じ方なら、傷んだ紐を替えながら同じ帳面を使い続けられます。何度も結び直された紐にも、代々の番人が記録を守ってきた年月を感じていただけたら嬉しいです。
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