五つの空欄
五日目の朝、王都工房の正門は、油ではなく石灰の匂いがした。
床を白く塗り直したばかりらしい。審査の間は天井が高く、壁際には新型の腕や膝が、型式ごとに札を下げて吊るされていた。替えの部品が並ぶ棚の前を通ると、ミラがほんの一瞬だけ歩幅を縮めた。同じ型式の肘が、そこに三本下がっていた。
連れてきたのはミラとチコとポーラの三体だけだ。ミラは同じ型式の者として。チコは手順書を写した本人として。ポーラは、今日ここで出る数字を、自分の名で書き残すために。
「師匠、あれ」
チコが袖を引いた。間の奥、審査台の脇に、カサンドラが立っていた。
肩の琥珀の灯は、ほつれていなかった。五日前に係官と出ていったときと同じ姿勢で、両手を体の前で軽く組んでいる。俺たちを見ると、組んだ手の指が一本だけ動いた。それで十分だった。
審査台の向こうに三つの席がある。中央が宰相府の審査官。右がギルドの立会人。左の、いちばん大きな椅子に、王都工房長マティアス・ゲルバーが腰を下ろしていた。太い指に、真新しい黒い輪を一つ引っかけている。
「始めよう」
審査官が書類をめくった。
「旧型式C-01、本人名カサンドラ。王城預かりの新型人形が登録を行った件について、宰相府の審査に付す。王都工房長、所見を」
「わしの所見は単純だ」
マティアスは輪を指で回した。
「封じ栓の外れた個体は、命令を受けつけん。それは登録ではなく誤作動だ。受け口も外したときに傷んでおるはず。中を開けて確かめ、新しい栓を嵌め直す。壊れたら替えればよい。それで済む話だ」
工房の職人が二人、工具箱を提げて審査台に近づいた。
カサンドラは動かなかった。代わりに、懐から一枚の紙を出した。五日前の命令書だ。裏を返し、受領者の欄を審査官の方へ向けて台に置いた。刷られた型式名に一本の線。その上に彼女の字。隣に、係官の受領印。
「体を開けていいのは、本人が許した者に限る。そう書いて、受け取りました。受領印もあります」
職人の足が止まった。審査官が眼鏡を押し上げて欄を読み、ギルドの立会人にも回した。立会人は印の擦れまで確かめてから、短く頷いた。
「受領印は王城の係官のものだ。有効と認める」
「では、開けてもよいかと本人に聞けばよかろう」
マティアスが鼻を鳴らす。カサンドラは彼の方へ顔を向けた。号令を区切るときの、あの間で。
「聞かれていません。五日のあいだ、一度も」
審査の間が静かになった。チコが、俺の袖を握る手に力を入れた。
「それに、開ける必要もありません。受け口が傷んでいるかどうかは、外から見えます」
カサンドラは自分で襟の留め具を一つ外し、首の付け根の受け口を見せた。それから俺を見た。
「オルト。見てください。開けなくていい。見るだけ」
「近づいていいか」
「はい」
審査官の許しを取ってから、俺はランプを借りずに窓の光だけで受け口の縁を見た。縁の金属に粉の噛み跡はない。溝の底に残った油は薄い琥珀色で、黒ずみも焦げた匂いもない。指を触れずに、首を少し傾けてもらい、駆動音を聞く。継ぎ目の擦れる音は一つもなかった。
「傷んでいない。油の量も合っている。毎晩、一滴ずつ差して縁を拭いた跡だ」
「一滴ずつ、です」
カサンドラが言った。
「チコの写した手順書の通りに、五晩。工房の方は誰も手が空いていませんでしたから、自分で」
チコが息を呑む音がした。審査台の脇の職人の一人が、ばつの悪そうな顔で目を逸らした。審査官がその職人に問う。
「この五日、工房の者が当該個体を整備した記録は」
「……ありません。新型の返品の交換で、手が回らず」
ポーラが小さな帳面に、その答えをそのまま書き取った。筆を止めずに、こちらへ一度だけ目配せをする。数字を合わせたくなったら話す、と約束した目だ。今日は合わせる必要がない、という意味だと受け取った。
審査官は書類の束から一枚を抜き出した。
「関連資料を読み上げる。当該個体が指揮していたミレス型小隊、現在十体。この五日で巡回中の停止が四体。騎士団は東街道の巡回任務二件を返上し、違約金として金貨二十四枚を計上。指揮個体の欄は依然空欄」
マティアスの指の中で、輪が回るのを止めた。
四体。命令札だけで歩かされた十体のうち、四体が道の上で止まった。先頭がいなくなった列は、整える者もいないまま、ただ数を減らしていく。ミラが俯いたのが分かった。俺は何も言わなかった。それを数えて止めるのは、もう騎士団の帳簿の仕事だ。
「宰相府の審査として結論を述べる」
審査官は筆を取った。
「当該登録は、本人の意思によって刻まれたものと認める。誤作動の証拠なし。受け口の損傷なし。封じ栓の再装着の勧告は採らない。なお、王都工房が整備士グレンに請求した審査期間中の保管費、金貨八枚は、保管中に整備の実績がないため却下する」
ギルドの立会人が受領印を押した。朱肉の匂いが、石灰の匂いの上に薄く乗った。
マティアスは何も言わずに立ち上がり、黒い輪を上着のポケットに落とした。職人たちが慌ててその後を追う。工具箱は一度も開けられなかった。
廃棄場に戻ったのは、日が落ちる少し前だった。
番小屋の前で、ノノが跳ねるように手を振っていた。その後ろでグレタが砲身を抱えたまま「おかえり!」と怒鳴り、イリスが盾を壁に立てかけてから、黙って一礼した。ロッテは針箱を膝に置いて、縫い目を確かめるように灯のエンブレムを眺めていた。
「あらあら。ほつれてないわね。よかった」
「一度も、誰にも触らせませんでしたから」
カサンドラはそう言うと、整備台の上の記録帳に目をやった。
俺は当番表の頁を開いた。彼女の列には、罫線だけを引いた五つの空欄が並んでいる。消してもいない。埋めてもいない。
「筆を」
チコが、研ぎ直したばかりの細い筆を両手で差し出した。カサンドラは受け取って、一つ目の欄に書いた。
——受け口の縁、拭く。油、一滴。異音なし。カサンドラ。
二つ目にも、三つ目にも、同じ間で同じことを書いた。四つ目の欄では一度手を止め、「左肘、朝に少し重い。昼には戻る」と書き足した。五つ目の欄には今朝の分を書き、最後に、審査の時刻を小さく添えた。
「誤差も、書くのか」
「ポーラがそうしていましたから」
ポーラが自分の帳面を胸に抱えたまま、少しだけ背筋を伸ばした。
カサンドラは筆をチコに返し、俺の方へ向き直った。
「オルト。今夜の私の番、あなたが見てください。三十分」
「順番は表のとおりだ」
「では、表のとおりで」
イリスが当番表を覗き込み、自分の名の下を指で叩いた。
「主殿。私の次が、カサンドラです。……了解」
念を押してくれたのか、ただ読み上げただけなのか。イリスは説明しなかった。
夜、真鍮の手提げランプを整備台に吊るした。灯の下にカサンドラが腰を下ろす。彼女は自分で、左肘の覆いの留め金に指をかけた。
「聞いてください」
「開けていいか」
「はい」
覆いを外した。左肘の噛み合わせには、ほんのわずかな遊びがあった。五日のあいだ、自分の手だけでは届かなかった場所だ。古い油を布で抜き、歯の縁を一枚ずつ拭いて、白蝋油を差し直す。肘を三度曲げ伸ばしてもらうと、朝の重さの原因だった擦れの音は消えた。
「軽い」
「明日の朝、もう一度確かめろ。戻っていたら書け」
「書きます」
覆いを留め終えると、カサンドラは膝の上で手を組んだ。今朝、審査の間で見せたのと同じ形だった。ただ、指は一本も動かさなかった。
「工房にいるあいだ、一つ見たものがあります。審査では言いませんでした。あなたに先に話すと決めていたので」
「何だ」
「倉庫の奥に、封じ栓の木箱が積んでありました。宰相府の発注です。送り状の、受け取り先の欄に——」
彼女は一度言葉を区切り、ランプの灯を見上げた。
「北門外、廃棄場、番小屋。そう書いてありました」
(第35話へ続く)
今回、カサンドラは昼には戻った左肘の重さも記録に残しました。整備の記録では、異常があったかだけでなく、いつ、どんな状態だったかを書いておくと、後で変化を比べる手がかりになります。記録帳の短い一行にも、そんな役目があると思って読んでいただければ嬉しいです。




