受領者の欄
廃棄場に戻ると、番小屋の前に全員が揃っていた。
誰かが呼び集めたわけではない。俺が城下へ出たのを見て、帰りを待っていたのだろう。日はまだ高く、錆びた鉄骨の山から乾いた鉄の匂いが立っていた。
俺は掲示板の写しを整備台に広げた。ギルドで書き写してきた二行と、担当者の名。紙の端が風でめくれかけたので、注油缶を重しに置いた。読み終えるまで、誰も口を開かなかった。聞こえるのは、遠くで鴉が屑鉄をつつく音と、誰かの関節が小さく軋む音だけだった。
「ぶっ放していい?」
最初に言ったのはグレタだった。砲身はもう膝の上に起こしてある。
「駄目だ」
「だよね。言ってみただけ」
口ではそう言ったが、グレタは砲身を下ろすまでに少し時間をかけた。下ろしたあとも、指は砲尾の留め金から離れなかった。
ノノが写しを指でなぞった。
「五日後って、ちょうど当番表が一回りする日っすね。王都工房って、封じ栓を着けてるとこっすよね。そこで登録板を見るって……」
そこで言葉が止まった。誰も続けなかった。続ければ、言いたくないことを言うことになる。全員がそれを分かっていた。
カサンドラは、整備台の端に立ったまま写しを見ていた。肩には、昨日ロッテが縫い終えた琥珀の灯がある。風に揺れて、布の縁がかすかに光った。
「オルト」
「なんだ」
「審査の前に、首を開けてください。封じ栓を外した跡を、今のまま記録に残してほしい。外した日に傷めたと言われないように」
筋の通った頼みだった。後から何を言われても、今日の状態が紙に残っていれば比べられる。言い争いになったとき、強いのは声の大きい方ではない。先に正しく書いておいた方だ。
「開けていいか」
「はい」
彼女は襟の留め具を自分で外し、首筋を俺の方へ向けた。迷いのない手つきだったが、留め具の二つ目で一度だけ指が滑った。黒い輪のあった場所に、受け口の座だけが残っている。
縁に溜まった古い粉を布で拭い、油を一滴だけ落として、受け口の爪が欠けていないかを灯にかざして見る。爪は六本とも揃っていた。外した跡に、こじった傷はない。座の金属はまだわずかに温かく、油は濁らずに溝へ吸われていった。悪くない色だった。
——受け口の爪、六本とも健全。こじり傷なし。除去は工具を正しく当てて行われた。
そう書くと、横からポーラがのぞき込んだ。
「登録板の刻みの深さも測っておきます。わたしの右のレンズは、深さで髪の毛一本分の半分ほど誤差が出ます。それも一緒に書いてください。誤差を書かない数字は、あとで誰にでも都合よく読めてしまうので」
「分かった」
自分の目の狂いを、自分から差し出す。言うのは簡単だが、やれる奴は少ない。
カサンドラが鎖骨の下の登録板を出し、ポーラが顔を寄せて測る。レンズの絞りが細かく鳴り、一画ごとに止まっては進んだ。読み上げられた数字と、誤差と、測った者の名を、俺はそのまま並べて書いた。
チコが、刻んだ日に使った鏨を布に包んで持ってきた。両手で胸の前に抱えて、落とさないように小股で歩いてくる。
「こ、これも記録に入れてください。刃の形と刻みの溝が合うはずです。見せてください、って言われたら、ぼくが見せます」
「頼む」
チコは布を開いて、鏨の刃先を整備台の上に置いた。自分の小さな手で研いだ跡が、刃に細く残っていた。
彼女の頁が、少しずつ厚くなっていった。爪の数、刻みの深さ、誤差、鏨の形。どれも一人では書けなかった行だった。カサンドラは襟を留め直しながら、その頁を黙って見ていた。何か言いかけて、やめたようだった。
昼過ぎ、城下へ使いに出ていたノノが、息を切らして戻ってきた。荷車の轍を飛び越え、番小屋の柱に手をついてから、ようやく顔を上げた。
「マルガさんから伝言っす。今朝、白獅子のミレス型十体が、王城の差配で、指揮個体なしで初めて東の街道を巡回したそうっす。帰ってきたのは六体。残りの四体は、橋の手前で隊列の順番が分からなくなって、命令札を待ったまま止まってたって」
「それで」
「王都工房が荷馬車で回収して、隊列の再調整をしたっす。費用は金貨二十二枚。王家は払わないって決めたんで、騎士団持ちっす。それと、その街道の商隊の護衛依頼が三件、まとめて取り下げられたって。依頼主が、止まる護衛はいらないって」
ノノは一息に言い終えてから、水筒の水を喉に流し込んだ。
記録帳の騎士団の頁に、その数字を書き足した。十体中、帰還六体。回収四体。再調整費、金貨二十二枚。取り下げ、三件。
十二体の先頭に一体を据え、その一体だけに号令を任せ、残りには命令札しか持たせなかった。先頭が抜ければ列が崩れるのは、組んだ時点で決まっていたことだ。橋の手前で止まった四体の脚は、今ごろ冷えた油で重くなっているだろう。そこまで考えて、筆を置いた。直すのは向こうの仕事だった。
カサンドラは黙って聞いていた。橋の名が出たとき、彼女の指がわずかに動いた。号令の拍子を取るときの、あの指の形だった。
「戻りたいか」
俺が聞くと、彼女は首を横に振った。
「いいえ。あの十体は、止まりたいと言う口を塞がれているだけです。私が戻って号令を掛けても、塞がれたままで歩くだけになる」
声は静かだったが、揺れてはいなかった。かつて自分が先頭に立っていた列のことを、彼女は誰よりもよく知っている。知っているから、戻らないと言えるのだ。
ミラが、彼女の隣に腰を下ろした。何も言わず、肩が触れるか触れないかの距離に座った。同じ顔が二つ、同じ灯を肩に並べていた。
日が傾くころ、係官が来た。
公開稼働試験の日からカサンドラに付いている、王城の若い係官だ。今日は一人ではなかった。後ろに、王都工房の徽章を付けた男が二人、空の荷車を引いている。車輪の軸に油が足りていないらしく、近づくたびに高い音で鳴いた。荷車の床には、人形を縛るための革帯が四本、巻いたまま置かれていた。
係官は気まずそうに一枚の紙を差し出した。
「宰相府からの命令です。旧型式C-01の預かり先を、本日より審査の日まで、王城から王都工房の保管庫へ移すと」
イリスが盾を取った。今日は膝を休めろと言ってあったが、手だけ動かした。セラフィナが狙撃杖に指を掛け、ロッテがグレタの肩に手を置いた。グレタの砲尾の留め金が、かちりと鳴って、それきり止まった。
俺は動かなかった。預かりの札は王城が出したものだ。それをどこへ移すかに、俺が口を挟む筋はない。邪魔をすれば、それこそ向こうの思う壺になる。手の中の布を、指で一度だけ握り直した。
「カサンドラ」
「はい」
「決めるのはお前だ」
彼女は命令書を受け取り、上から下まで一度で読んだ。読み終えると、係官を見た。
「行きます。ただし、荷車には乗りません。自分の脚で歩いて行きます。革帯も要りません」
「それは……工房の方が」
「この命令書に、運搬の方法は書かれていません。書かれていないことは、私が決めます」
号令を区切るときの声だった。廃棄場の鉄骨に跳ね返って、少し遅れて戻ってきた。工房の男たちが顔を見合わせ、係官が小さく頷いた。
「それと、もう一つ」
カサンドラは命令書を裏返し、受領の欄を指で示した。
「保管庫にいる五日のあいだ、私の体を開けていいのは、私が許した者だけです。そう書き添えます。許すかどうかは、その場で私が答えます」
「その一文に、工房が従う決まりは……」
「ありません。けれど、書いたことは残ります。断られたなら、断られたと残ります」
さっき、整備台の上で記録帳の頁が厚くなっていくのを見ていたときの顔だった。書いて残すことの重さを、彼女はもう自分のものにしていた。
チコが小走りで番小屋へ入り、紙の束を抱えて戻ってきた。何度も写して角が丸くなった、手書きの整備手順書だった。ところどころに、インクの滲みと、指でこすった跡がある。
「し、師匠の手順書です。ぼくが写したやつ。注油の工程と、毎晩の確かめ方が書いてあります。工房に誰も手が空いてなくても、これの通りにやれば、自分で見られます」
カサンドラは束を受け取り、表紙の字を見て、しばらく指を止めた。チコの字は少し右に傾いていて、一画一画に力が入りすぎている。
「ありがとう。読みます」
チコは返事の代わりに、こくこくと二度頷いた。
俺は整備鞄から、白蝋油の小瓶を一本と、新しい布を出した。瓶の栓がきつく閉まっているのを確かめてから渡す。
「毎晩、受け口の縁を拭け。油は一滴でいい。足すな。足りないと思っても、一滴だ」
「一滴」
「多いと、粉を抱いて溝に溜まる。北の坑道で見たのと同じ壊れ方をする」
「覚えました」
彼女は小瓶を胸当ての内側にしまった。布は畳んで、手順書の間に挟んだ。それから、俺の記録帳に目をやった。
「オルト。私の頁の当番の欄、五日分空けておいてください。消さずに。戻ったら、自分で埋めます」
「分かった」
俺は当番表の彼女の列に、五つの空欄を残した。罫線だけ引いて、中は何も書かない。名を消さずに空けておく欄は、捨てられた欄とは形が違う。ロッテが横から覗いて、何も言わずに微笑んだ。ノノは指を折って五日を数え、数え終えてから、その手をぎゅっと握った。
ミラが立ち上がり、カサンドラの肩の灯に指先で触れた。縫い目が解けていないかを確かめるような手つきだった。カサンドラはその指が離れるまで、身じろぎもしなかった。
「行ってきます」
カサンドラはそう言って、係官から筆を借りた。
命令書の裏、受領者の欄には、あらかじめ「旧型式C-01」と刷られていた。彼女はその文字に、一本の線を引いた。迷いのない、まっすぐな線だった。線の上に、一画ずつ、登録板に刻んだときと同じ間で書いた。
——カサンドラ。体を開けていいのは、本人が許した者に限る。
筆先が紙から離れる音が、やけに大きく聞こえた。
係官は欄をのぞき込み、しばらく黙ったあと、自分の受領印をその隣に押した。
(第34話へ続く)
今回の一滴は、少し心細く見える量かもしれません。油は多く差せばよいとは限らず、余分な油に埃や細かな粉が付くと、汚れが溜まるもとになります。作中の受け口では、先に縁を拭き、決めた量だけ差すところまでが、ひと続きの手入れです。




