替えの輪
黒い輪は、台の上で転がらなかった。
内側に平らな面が削ってあって、置いた形のまま止まるようにできている。誰かが置くために作った輪だった。ランプの火が揺れても、輪の影は揺れなかった。黒い漆の下に鋼の冷たさがあるのが、触らなくても分かる。縁の仕上げは丁寧で、やすりの目が一筋も残っていない。腕のいい職人の仕事だった。だから余計に、胸の奥が冷えた。
俺は手を出さなかった。
「持って帰れ」
「差し上げます」
オズヴィンは穏やかな声のまま言った。
「整備士殿なら、着け方もお分かりでしょう。首の留め具は、ミレス型の寸法に合わせてあります」
分かる。分かるから、手を出さなかった。留め具の爪の角度を見れば、一度嵌めたら内側からは開かない作りだと読める。
カサンドラが一歩前へ出た。縫いかけの肩口から、琥珀の糸が一本垂れている。ロッテが針を持ったまま手を止めた。
「オルト。それを、見てもいいですか」
「触るなら布を使え」
チコが整備台の下から油拭きの布を引き出し、両手で差し出した。小さな指が布の角をきちんと揃えていた。カサンドラは布越しに輪を持ち上げ、内側をランプの方へ傾けた。
そこには、刻印が一つあった。
「……C-01」
区切った声だった。
「私の旧型式です。これは、私の首の寸法で作られた替えの輪です」
小屋の中で、誰も動かなかった。炉の薪が一つ崩れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
昼に外したばかりの輪は、布に包まれてポーラの写しの束の上に置いてある。俺がねじを一本ずつ戻して外し、カサンドラが審問院へ出すと決めたものだ。内側には投入以来の擦れが、首の形のまま艶になって残っている。台の上には、それと同じ形の、まだ一度も首に嵌められていない輪があった。擦れのない内側は、何も知らない顔をしていた。
「外すことまで、見込んでいたのですね」
「備えは、国の務めですので」
オズヴィンは笑みを崩さなかった。
「人形が主を選ぶ。結構な話に聞こえます。ですが、選べるものは、選び直すこともできる。今日あなたを選んだものが、明日は誰を選ぶか。それを国は待っていられないのです」
「だから塞ぐのか」
「だから、整えるのです」
同じ言葉を使うな、と思った。整えるというのは、開けて、見て、本人に聞いてからやることだ。
イリスが盾を半歩前へ出した。今日は荷を持つなと言った左腕だ。膝の覆いの下の砂は、温めた油で流してある。踏み込んだ瞬間も、軸は鳴らなかった。
「イリス」
「はい」
「置いていい」
白磁の指が、盾の握りの上で止まった。
「主殿が、そう言うなら」
彼女は盾の縁を地面へ下ろし、俺の椅子の脇に立て掛けた。それから、手を離した。離した手は、盾の縁から指一本分のところに残っていた。守ることしか教えられてこなかった手が、置き場所を探しているように見えた。
俺はオズヴィンの方へ向き直った。
「着けるかどうか決めるのは、着ける本人だ。俺じゃない」
「では、本人に伺いましょうか」
オズヴィンの目が、カサンドラへ移った。
彼女は布ごと輪を持ったまま、男の前まで歩いた。号令を掛ける前と同じ、踵を揃える音がした。背筋の線は試験路に立っていたときと変わらない。ただ、首元だけが、昼までと違って何も着けていなかった。
「宰相閣下」
「何でしょう」
「私は十二体の先頭で、命令札のとおりに歩きました。投入されてからずっと、止まれと言われるまで止まらず、膝が鳴っても止まりませんでした。後ろの十一体も、私が止まらないから止まりませんでした。それが正しいと、首の輪が言っていたからです」
カサンドラは輪を差し出した。
「あの日、私は試験路で、本隊の停止を申し出て自分も止まりました。自分で止まると言えたのは、初めてでした。この輪を着ければ、もう言えなくなります」
「言う必要がなくなる、と申し上げているのです」
「私には、必要です」
琥珀の灯が、一度だけ強くなった。
彼女は輪を引かなかった。オズヴィンも受け取らなかった。差し出された手と、下ろされたままの手の間で、布の端だけが風に揺れた。戸口から入る夜気が、油と鉄の匂いを少しだけ薄めた。
先に動いたのは、グレタだった。砲身ではなく、自分の足で、カサンドラの横に並んだ。重い足音が二つ、土間に沈んだ。
「あたしも、着けない」
「ノノもっす!」
ノノがその隣へ跳ねてきた。勢い余って半歩はみ出し、慌てて列に戻る。セラフィナは硝子の杖を壁に立て掛けたまま、腕を組んで並ぶ。
「当然ですわ。わたくしの首は、わたくしが選んだ方のために空けてありますもの」
ミラが無言でカサンドラの隣に立った。同じ型式の、同じ肩に、同じ琥珀の灯。二つの灯が並ぶと、どちらが先頭だったのか分からなくなった。ポーラは一歩遅れて加わり、右のレンズに手を当ててから、帳面に何か書きつけた。ロッテは針箱を抱えたまま、チコの肩に手を置いた。
「あらあら。お客様、ここには着けたい子はいないみたいですよ」
オズヴィンは、並んだ顔を一つずつ見た。数を数えるような目だった。人を見る目ではなく、台帳の行を読む目だ。
「よろしい。今日のところは」
彼は輪を受け取らないまま、背を向けた。
「その輪は整備士殿に預けておきましょう。いずれ、使う日が参ります」
砂利を踏む音が北門へ遠ざかり、四頭立ての車輪の音がそれに続いた。音が消えてからも、しばらく誰も列を崩さなかった。
カサンドラは、差し出していた手をゆっくり下ろした。指の関節が、一つ硬い音を立てた。
「……震えています。整備の不良でしょうか」
「違う」
俺は彼女の手から布ごと輪を受け取った。布越しでも重かった。
「腕を伸ばしたまま、長く止めていただけだ。今夜、肘を見る」
「はい」
ロッテが彼女の肩を引き寄せ、縫いかけの灯の続きに針を入れた。琥珀の糸が、垂れていた一本からまた繋がっていく。
俺は輪を布で包み、記録帳の新しい頁に書いた。
——黒い輪一つ。内側刻印C-01。未装着。宰相オズヴィン・ハルトが整備台に置き、持ち帰りを拒んだ。本人の受け取りも拒否。
「師匠、それ、どうするんですか」
チコが包みを見上げた。
「ギルドに預ける。拾った物と同じだ。俺の物じゃない」
「書いておきます! 見せてください!」
チコは自分の写し帳を開き、俺の書いた行を一字ずつ写した。舌の先を少し出して、刻印の数字だけは二度なぞった。ポーラも隣で同じ行を書き、最後に自分の名を添えた。
「刻印の読み取り。ランプの光で一度、私の右レンズで一度。誤差があるかもしれません。それも書きました」
「それでいい」
分からないことを分からないと書ける帳面は、あとで誰が開いても嘘をつかない。
夜の当番表の一番は、イリスだった。
「開けていいか」
「はい」
膝の覆いを外し、温めた油で流した軸を指で回す。砂の鳴りは消えていた。噛み合わせの山を一つずつ確かめ、欠けがないのを見て、覆いを閉じる。油の色は澄んだ琥珀のままだった。
「盾を置いたとき」
イリスが言った。
「手を離すのが、少し遅れました」
「見ていた」
「次は、すぐに離せるようにします。主殿が置いていいと言ったら、それは置いていい場所だということですから」
ランプの火が、白磁の頬に薄く映っていた。彼女は膝の上で両手を重ね、指先を一度だけ組み直した。
俺は筆を取り、彼女の頁の、止まった話を書いた行の下に書いた。
——置いていいと言われて、置いた。
「それも、書くのですか」
「止まった話と同じだ」
「……了解」
彼女はそれ以上言わなかった。椅子は、昨夜より拳一つ分近かった。肩が触れるほどではない。ただ、筆を動かすたびに、彼女の静かな駆動音が耳に届く距離だった。
翌朝、包みを抱えて城下のギルドへ行った。
マルガは受付で包みを開き、輪の刻印を確かめると、黙って奥から預かり品の台帳を出してきた。俺の記録帳の写しと、チコとポーラの写しを添えて、受領印を押す。朱肉の匂いが、乾いた紙に移った。
「宰相閣下の置き物、ですか」
「置いていった。俺は受け取っていない」
「承知しました。そう書きます」
彼女は筆を置き、掲示板の方へ顎を向けた。
「ついでに、今朝届いた数字です。公開稼働試験のあと、白獅子から王都工房への新型の返品が十体から十四体に増えました。追加の交換費、金貨六十枚の請求は、王家が支払いを不承認。騎士団の自前で払えということです」
「払えるのか」
「三百枚の削減のあとで、ですからね。それと、ミレス型の小隊編成届が十一体から十体に書き換えられました。指揮個体の欄は、空欄のままです」
空欄。廃棄台帳の理由の欄と同じだ、と俺は思った。誰も書かない場所は、いつも同じ形をしている。先頭を失った十体が、命令札だけを頼りにどこまで歩けるのか。それを考えるのは、もう王城の仕事だ。
受付を離れようとしたとき、掲示板の前に人だかりができているのに気づいた。新しい紙が一枚、まだ糊の乾かないまま貼られている。宰相府の朱印が、角に押されていた。
——王城預かりの新型人形が登録を行った場合、当該登録は宰相府の審査に付す。
——対象、旧型式C-01。審査の場、王都工房。審査期日、五日後。
その下に、担当者の名が一行あった。
王都工房長、マティアス・ゲルバー。
封じ栓を着ける工房で、彼女の登録板を見るということだった。
腕の中の空になった布が、急に軽く感じられた。
(第33話へ続く)
金属は、繰り返し擦れることで表面の凹凸がならされ、そこだけ艶が出ることがあります。外した輪と替えの輪を見るときは、内側の艶の違いにも目を留めていただければと思います。同じ形でも、使われた跡があるかどうかで、道具の見え方は変わってきますね。




