自分で外す輪
夜のうちに温めた油で流しておいた膝は、朝には静かになっていた。
「開けていいか」
「はい」
イリスの返事を聞いてから、覆いの留め具を外す。軸を指で送ると、昨日の砂の音はもうしない。油の色も澄んでいた。噛み合わせを一段だけ詰め直し、覆いを閉じる。
「立ってみろ」
イリスは整備台から降り、番小屋の床を三歩歩いて、四歩目で振り返った。
「軽いです」
「今日は荷を持つな。明日もう一度見る」
「……了解」
彼女は盾を壁に立て掛けたまま、珍しく手ぶらで戸口に立った。何も持たない両手をどこへ置けばいいのか分からないらしく、一度だけ前掛けの紐を結び直していた。
俺は記録帳を開いた。昨日の最後の頁に、カサンドラの言葉がそのまま残っている。十二体のミレス型。封じ栓。宰相オズヴィン・ハルトの印。
隣の机で、ポーラが同じ頁を写していた。ペン先の真鍮が紙を擦る音が、一定の速さで続く。
「写し、二部終わりました。一字も変えていません」
「助かる」
「記録しました。オルト氏、この写しはどこへ出しますか」
俺は筆を置いた。
「俺が決めることじゃない。言ったのはあいつだ」
ポーラは少し首を傾げ、それから写しの端を揃えて、帳面の間に挟んだ。
「では、本人が来るまで預かります」
三日が過ぎた。
ギルドへ護衛の報告に行くと、受付のマルガが掲示板の前で手招きした。公報の写しが貼られている。白獅子騎士団の欄は、もう稼働率を載せていなかった。
代わりに、短い行が三つ並んでいた。
——団長職、空席。人形の運用は王城預かり。
——公開稼働試験の翌日から三日間に提出された団員の離職届、十一通。
——王城の聞き取りで、騎士団へ戻ることを望んだ人形、零体。
「零、ですって」
マルガは帳面を抱えたまま、掲示を指でなぞった。
「騎士団からの依頼返上も、昨日だけで三件。残った団員じゃ護衛の頭数が揃わないそうよ」
「そうか」
「あなた宛ての指名は四件。断る?」
「整備の順番を見てからだ」
マルガは肩をすくめ、四件の依頼票を俺の前に並べた。一番上の票には、北の林道の荷馬車護衛と書いてあった。昔、薬種商の親父の荷を守った道だ。
廃棄場へ戻ると、門の前に王城の係官が立っていた。
その後ろに、灰色の長い外套。鋼青の肩章。編み込んで結い上げた灰銀の髪。
首の黒い輪は、まだそこにあった。
「王の裁定を伝えます」
係官が書付を読み上げた。
「王城預かりの人形は、係官の立ち会いのもと、自らの行き先を述べることができる。述べた先が受け入れた場合、王城はこれを妨げない」
書付が畳まれる。係官は一歩下がった。
「C-01、カサンドラ。王城を出る前に、ここを行き先として述べました。受け入れるかどうか、あなたに確認しに来ました」
俺は答える前に、カサンドラを見た。
彼女は背筋を伸ばしたまま立っていた。試験場で見たときと同じ姿勢だった。ただ、首の輪の継ぎ目から、細い音がしている。乾いた金属が、呼吸のたびに擦れる音。
輪に入った亀裂が、三日前より長くなっていた。
「入るかどうかは、お前が決めることだ」
「承知しています」
カサンドラは一語ずつ区切った。
「グレン整備士。私は、試験場で、止まると言えました。命令が届いたうえで、従わないと言えました」
「ああ」
「その後、王城の部屋で三日、待ちました。命令は来ませんでした。誰も、次に何をしろと言いませんでした」
白手袋の男がいなくなった後の三日だ。俺は黙って続きを待った。
「本機は……私は、命令だけが、自分がここにいる証だと思っていました。命令が絶対なら、私は要る。命令が来なければ、私は要らない」
背後で、戸の軋む音がした。ミラが番小屋から出てきていた。琥珀の髪留めが、昼の光を受けて小さく光る。
同じ顔が、二つ向き合った。
「C-01」
ミラが呼んだ。それから、首を振った。
「カサンドラ。私は、あなたの列にいたとき、復唱しかできなかった」
「覚えています。M-07」
「今は、ミラ」
ミラは、うなじに残った丸い跡に指を当てた。
「これを外すと言ったのは、私。オルトは、聞いただけ。私が選んだ」
カサンドラの指が、首の輪に掛かった。試験場の脇道でもそうしていた。けれど、あのときと違って、指先は継ぎ目の留め金を探していた。
「待つ間に、分かったことがあります」
彼女は俺へ向き直った。
「命令が来なくても、私の膝は動いた。輪が軋んでも、私は考えていた。だから、次は自分で選ぶ場所が要ります」
息を一つ吸う音がした。人形に息は要らないはずなのに、そう聞こえた。
「この輪を外したい。外したうえで、ランプ隊に入りたい。私が、そう決めました」
俺は整備鞄を肩から下ろした。
「開けていいか」
「はい。開けてください」
整備台に彼女を座らせ、外套の襟を少しだけ寛げてもらう。
長身の彼女が台に掛けると、うなじが俺の目の高さにきた。結い上げた髪の下に、輪の留め金がある。顔を寄せないと継ぎ目が見えず、俺はランプを近づけた。
「近いですね」
「継ぎ目が細い。我慢しろ」
「……我慢、します」
声の終わりが、ほんのわずかに揺れた。耳の縁の継ぎ目に、熱が溜まっているのが見えた。俺はランプを半寸だけ離した。
亀裂に入り込んだ錆を、柔らかい刷毛で落とす。温めた油を留め金のねじ山に一滴ずつ含ませ、染みるのを待ってから、四分の一ずつ戻す。急げば、ねじ山ごと首の受け座を傷める。
最後のねじが抜けた。
黒い輪が、俺の掌に落ちた。思っていたより軽かった。
カサンドラは首を一度、左へ回した。それから右へ。軋みはなかった。
「……静かです」
「そうだな」
彼女の瞳から、鋼青の光が抜けていった。残ったのは、ミラと同じ、薄い灰色だった。
俺は輪を布に包んで、彼女に差し出した。
「お前のものだ。どうするかも、お前が決めろ」
カサンドラは包みを受け取り、少し考えてから、ポーラの方を見た。
「預けてある命令書の写しと一緒に、審問院へ出してください。これも、記録の一部です」
「記録しました」
ポーラが包みを受け取り、写しの束の上に置いた。
カサンドラは襟の内側へ手を入れ、鎖骨の下の登録板を出した。新型の登録板は一度も刻まれたことがなく、表面に工房の磨き跡がそのまま残っている。
チコが、刻み用の細い鏨を両手で差し出した。
「ど、どうぞ。研いでおきました」
「ありがとう」
カサンドラは鏨を受け取り、一画ずつ刻んだ。号令を区切るときと同じ間で、迷いなく。最後の一画を引き終えると、鏨をチコに返した。
「オルト」
初めて、その名で呼ばれた。
「なんだ」
「肩章を外します。鋼青は、もう着けていたくない」
彼女は自分で肩章の留め糸を切った。外れた二枚の鋼青を、膝の上に重ねる。
「あらあら。じゃあ、ここには灯を縫いましょうね」
ロッテが針箱を抱えてきた。琥珀の糸が、もう針に通してある。
ミラが自分の肩のエンブレムを指で示した。同じ型式の肩に、同じ琥珀の灯。カサンドラはそれをしばらく見て、小さく頷いた。
俺は記録帳を開き、新しい頁の一行目に書いた。
——カサンドラ。旧型式C-01。封じ栓、本人の意思で除去。登録、本人。
その下に、余白を残した。
日が傾くころ、北門の方から車輪の音がした。
荷車ではない。四頭立ての黒い馬車だった。金の鎖をあしらった扉が開き、灰色の髭を整えた男が降りてくる。供の者は門の外で止まり、男だけが廃棄場の砂利を踏んで入ってきた。
イリスが盾を取った。今日は荷を持つなと言ったはずの手で、それでも盾だけは取った。グレタが砲身を起こしかけ、ロッテがその肩にそっと手を置いて止めた。
男は穏やかに笑っていた。
片手の中で、黒い輪を転がしている。首に嵌められたことのない、新しい輪だった。
「宰相、オズヴィン・ハルトと申します。整備士殿、少しよろしいかな」
「何の用だ」
「用というほどのものでは」
男は整備台の前で足を止め、カサンドラの肩口へ目をやった。縫いかけの琥珀の灯。それから、俺を見た。
「選ばせるから、国が揺らぐのです」
そう言って、男は手の中の輪を、俺の整備台の上に置いた。
台の板が、乾いた音を一つ立てた。
(第32話へ続く)
錆びたねじは、無理に回すとねじ山を傷めることがあります。作中でオルトが油を含ませて待つのは、輪を外した後も使う首の受け座を守るためです。ねじを回していない時間も、整備の工程として読んでいただけたら嬉しいです。お読みいただきありがとうございます。




