止まると言える場所
横木は胸の高さだった。
手を置けば届く。けれど、その先の白い背中には届かない。磨かれた樫の横木は朝露で湿っていて、掌に冷たさだけが残った。俺は横木から手を離し、膝の上で指を組んだ。整備鞄は保管所に預けたままだ。肩が妙に軽く、その軽さが落ち着かなかった。
試験官が旗を上げる。
「両陣営、各四体。荷重は同一。石畳、砂地、傾斜路を経て、この門へ戻ること」
白獅子の側からは、ミレス型が四体並んでいた。先頭は指揮個体だ。首の黒い輪が、朝の光を鈍く返している。灰の詰襟に鋼青の肩章。四体とも同じ顔、同じ背丈で、胸の番号だけが違った。
こちらは、イリス、ノノ、セラフィナ、ミラ。
イリスは列の二番目に立ち、背の盾板を一度だけ揺すって荷の座りを確かめていた。昨夜、膝の覆いを閉じたときに残った小さな引っかかりを、俺はまだ指先で覚えていた。
旗が下りた。
石畳の区間は、どちらも揃っていた。ミレス型の足並みは乱れない。盾と長槍を背に括り、荷を担いだまま、四体が一つの機械のように進む。観覧席のあちこちから、感心したような息が漏れた。
隣の席で、ヘルマンが白手袋の指を組み替えた。
「見たか。整備など、要らんのだ」
俺は答えなかった。
聞いていたのは足音だ。石畳を叩く音の中に、一つだけ、遅れて擦れる音が混じっている。二体目の右膝。王都工房で交換したばかりの軸受けの音だった。慣らしも済ませないまま、荷を背負わされている音だ。
砂地に入ると、音は増えた。
ノノが先頭で足場を選んでいる。真鍮の足裏が砂を浅く踏み、後ろへ短く手を振る。合図ではない。歩く場所を、自分の体で示しているだけだ。セラフィナがその跡を正確に辿り、ミラが最後尾で荷の揺れを抑えた。乾いた砂が風に舞い、観覧席の端まで細かく届く。口の中がざらついた。
ミレス型の三体目が、砂に膝を取られた。
止まりはしない。指揮個体が肩を貸し、列はそのまま進む。けれど、擦れる音は二つになった。
傾斜路の手前で、イリスの歩幅がわずかに狭まった。
俺は横木を握りそうになり、手を膝へ戻した。組んだ指に力が入り、関節が白くなる。行けば、彼女の試験はそこで終わる。行かなくても、俺にできることは何もない。
イリスは立ち止まらず、脇に立つ試験官へ顔を向けた。唇が動く。観覧席には届かない。試験官が手元の板に何かを書きつけた。
——歩けていても、伝えます。
廃棄場の戸口で聞いた声が、そのまま耳に残っていた。
上りは保った。問題は下りだ。下りは膝が荷を受け止める。上りで溜めた熱が、そこで一度に出る。
ミレス型の二体目が、傾斜路の頂で崩れた。右膝が逆へ鳴り、荷ごと横へ倒れる。そのまま、斜面を滑り始めた。
下には、イリスがいた。
観覧席が息を呑んだ。俺は立ち上がっていた。横木が腿に当たる。それ以上は、行けない。
イリスは左腕の盾を下ろした。
荷を脇へ置き、盾の面を斜面へ向けて、膝を深く折る。滑ってきた装甲の肩を、盾の縁で受け止めた。金属の擦れる長い音がして、火花が一つ散り、止まった。砂利が遅れて、ぱらぱらと彼女の足元へ転がった。
イリスは盾を支えたまま、試験官を見上げた。今度は、俺にも聞こえた。
「盾の三番、イリス。停止を申し出ます。膝が、これ以上の荷重に耐えません」
声は揺れていなかった。いつもの短い言葉だった。
試験官が旗を斜めに掲げた。
「イリス、試験終了。記録は安全中断」
歩ける個体は脇道へ。係の者が担架を運び、イリスはミレス型の体が担架へ移るまで盾を離さなかった。それから自分の足で、脇道の腰掛けへ歩いていった。低い腰掛けに座り、膝の上に両手を置く。白磁の指先が、きちんと揃っていた。
俺はゆっくり座り直した。
手の届かない場所で、彼女は自分で止まった。止まると言える場所を、自分で選んだ。俺が教えたのは、膝の音の聞き方と、伝え方だけだ。選んだのは、彼女だった。
「止まるな!」
隣で、ヘルマンが立ち上がっていた。
「C-01、列を立て直せ! 倒れた備品は捨て置け、走らせろ!」
試験官が振り返った。
「観覧席からの指示は禁じられています。白獅子騎士団長、着席を」
「私の備品だ。私が命じて何が悪い」
ヘルマンの声は、斜面の下まで届いた。周りの貴族たちが、そっと身を引くのが分かった。
指揮個体が足を止めた。残る二体のミレス型も、それに倣って止まる。三体目の膝からは、もう擦れる音ではなく、乾いた空回りの音がしていた。油の切れた軸が、何も噛まずに回っている音だ。
指揮個体は首を巡らせ、観覧席を見た。それから、試験官へ向き直った。
「指揮個体C-01。個体名、カサンドラ」
感情の薄い声だった。けれど、一語ずつ区切っていた。
「本隊三体の停止を申し出ます。一体は右膝の軸受けが空転、一体は左膝に異音。私の判断です」
「カサンドラ! 命令だ!」
「命令は、届いています」
黒い輪の首が、わずかに傾いた。
「届いたうえで、従いません。止まると言える場所で、止まります」
試験場が静まり返った。風が砂を運ぶ音だけが残った。
試験官の旗が、もう一度斜めに上がった。
残るのは三体。ノノ、セラフィナ、ミラだ。
ノノは一度だけ脇道を振り返った。腰掛けのイリスが、小さく右手を上げる。ノノは前へ向き直り、下りの砂利を短い歩幅で拾い始めた。
「足元、左寄りっす! 右は浮いてるっす!」
「当然ですわ。見えておりますもの」
セラフィナが荷を左肩へ移し、ミラが二人の間に入って傾きを分け合う。三つの足音は、最後まで乾いたまま揃っていた。
三体は、並んで門へ戻ってきた。
試験官が記録板を読み上げる。
「ランプ隊。出場四体、完走三体、安全中断一体。故障停止、零」
観覧席がざわめいた。
「白獅子騎士団。出場四体、完走零。故障停止三体、指揮個体の停止申告一体。なお、試験中に団長による指示が一度あり」
ざわめきが止んだ。四体出して、門をくぐったのは零。その数字が、誰の耳にも重く落ちた。
貴賓席の王が、立ち上がっていた。
「ヘルマン・ドライツェン」
隣の白手袋が強張る。
「審問院の譴責を受け、廃棄台帳の不正を受け、なお余が定めた試験の場で、規則を破ったな」
「陛下、あれは備品の——」
「備品が、自ら止まると申し出た。そなたは、それを止めるなと叫んだ」
王の声は高くなかった。
「本日をもって、白獅子騎士団長の任を解く。騎士団の人形の運用は、追って沙汰があるまで王城預かりとする」
衛兵が二人、ヘルマンの両脇に立った。
ヘルマンは俺を見た。何か言おうとして、口を閉じた。白手袋のまま、引かれていく。磨かれた長靴の音が、観覧席の階段を遠ざかっていった。
俺は見送らなかった。脇道の腰掛けを見ていた。
保管所で整備鞄を受け取ると、肩に重みが戻った。工具の擦れる音、油壺の揺れる音。いつもの重さだった。
ようやく下りた肩紐を掛け直し、俺は脇道へ向かった。待機所の布は巻き上げられたままで、低い腰掛けにイリスが座っていた。盾は脇に立て掛けられ、縁に新しい擦り傷が一本、白く走っていた。
「開けていいか」
彼女は膝を見下ろし、それから俺を見た。
「先に、話を聞いてください」
「ああ」
俺は隣の腰掛けへ鞄を下ろし、記録帳を開いた。彼女の頁の下に残しておいた余白が、そこにあった。
「上りの三本目の杭で、重くなりました。試験官に伝えたのは、そこです」
「三本目」
「下りの頂で、もう一段。盾を構えるときに、膝が鳴りました」
俺は書いた。三本目の杭、頂、盾を構えたとき。彼女の言葉は短いが、順番が正確だった。そのまま手順書に写せるほどに。
「あの人形を受けたのは」
「受けなければ、下の荷車まで落ちていました」
イリスは盾の縁を撫でた。新しい傷の上で、指が一度止まる。
「止まったら、もう荷は運べないと分かっていました。でも、止まると言えたので、受けられました」
「そうか」
筆が少し止まった。俺はそれを、そのまま書いた。
——自分で止まった。理由、人形を一体受けるため。
「主殿」
「なんだ」
「横木の向こうで、立っていましたね」
俺は顔を上げなかった。
「座り直した」
「はい。見えました」
彼女の肩が、ほんの少し俺の側へ寄った。白磁の肩は、砂地を越えてきた熱をまだ残していて、袖越しにかすかに温かかった。白磁の指先が、記録帳の端に触れる。
「今、開けてください」
「分かった」
膝の覆いの留め具は、外す前から熱を持っていた。耳を寄せると、軸の奥で砂が一粒鳴る。油の色は少し濁っているが、焦げてはいない。今夜、温めた油で流して、明日の朝に噛み合わせを見る。それで足りる。
「……了解」
俺が何も言わないうちに、イリスはそう答えた。覆いを閉じたところで、足音がした。
ノノとセラフィナ、ミラが戻ってくる。ノノは何か言いたそうに口を開きかけ、イリスの顔を見て、黙って隣に腰を下ろした。その後ろに、もう一つ、重い足音があった。
指揮個体だった。
首の黒い輪はそのままだ。王城預かりの札が、胸当てに掛けられている。付き添いの係官が、数歩後ろで止まった。
ミラが彼女を見て、何も言わずに道を空けた。同じ型式の、同じ顔。けれど、首に輪があるのは片方だけだった。
「グレン整備士」
「ああ」
「私は、あなたの隊には入りません。少なくとも、今は」
「それでいい」
俺がそう言うと、彼女の首がほんのわずかに動いた。頷いたのか、輪の重さを確かめたのか、俺には分からなかった。
彼女は黒い輪に指を掛けた。外そうとはしなかった。
「この輪を外すかどうかも、まだ決めていません。ただ、一つだけ、記録に残してほしいことがあります」
俺は記録帳の新しい頁を開いた。
カサンドラは、区切った声で言った。
「十二体のミレス型に封じ栓を着けよと定めた命令書。署名は団長でも、王都工房長でもありませんでした。押されていたのは、宰相オズヴィン・ハルトの印です」
(第31話へ続く)
今回、オルトが工具より先に開いたのは記録帳でした。機械の不調は、異音の種類だけでなく、どんな動きで出たかも手掛かりになります。上り、下り、盾を構えたときと順に伝えるイリスの言葉も、膝の内側を確かめるための大切な記録なのです。
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