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手の届かない場所

 王城の試験場には、低い木柵が二重に巡らされていた。


 内側が人形の通る道。外側が、俺たちの歩ける場所だ。


 俺は係官の後について、イリスと砂利道を歩いた。盾は荷車に置いてきている。彼女の靴底が砂を押す音を、説明の合間に聞いた。


「石畳、砂地、傾斜路を通り、荷を運んで戻ります。使用する道も荷の重さも、両陣営で同じです」


「停止を申し出た後は」


「歩ける個体は脇道へ。動けない場合は、試験官の指示で搬送します」


 係官が示した脇道の先には、天幕があった。


 入口は狭い。中に長椅子と担架が並び、厚い布が柵に沿って垂れている。観覧席からは、屋根しか見えなかった。


「ここへ入ったら、俺からは見えないな」


「試験終了までは、接触を避けていただきます」


「接触できないのは聞いた。姿を見せるのも駄目なのか」


 係官が規定の綴りを開いた。


 俺は返答を待ちながら、長椅子を見た。座面が高い。膝の曲がらない個体なら、腰を下ろすだけで手助けが要る。


 イリスは天幕に入らず、入口に立っていた。


「主殿。あちらへ行っていただけますか」


 白磁の指が、観覧席を指す。


「何を確かめる」


「声です」


 俺は係官に断り、外柵に沿って歩いた。


 貴賓席より低い位置に、両陣営のための席がある。工具を持ち込めないことを示す札が掛かっていた。


 そこから天幕を振り返る。


 イリスの顔は、布の端に半分隠れていた。


「主殿」


 風で布がはためいた。


 口が動いたことは分かった。声は、布と足場を組む槌の音に紛れた。


 俺は片手を耳に添えた。


 イリスが一歩出ようとして、足元を見た。そこにも細い縄が張ってある。停止した個体の待機範囲だ。


 彼女は縄を越えず、手を上げた。


 俺も上げた。


 白い手が、ゆっくり下りた。


 戻ると、イリスは入口から離れていた。


「聞こえましたか」


「呼んだのは分かった。言葉は聞き取れなかった」


「そうですか」


 その返事の後、彼女は係官へ向き直った。


「私は、止まった後も主殿から見える場所で待ちたいです」


 係官は綴りから顔を上げた。


「合図で整備の指示を受けることは認められません」


「整備はしません。ここにいると、伝えたいです」


 イリスは、さっき俺へ向けた手を見た。


「声が届かなくても」


 係官が布をめくった。支柱と椅子の位置を確かめ、綴りに指を挟む。


「側面の布を開けることはできます。両陣営の待機所とも同じ扱いにします。試験中のやり取りについては、試験官が立ち会います」


「頼む」


 俺が言うと、背後で砂利が鳴った。


「始まる前から、脱落後の相談か」


 ヘルマンだった。


 白手袋をした手に、試験条件の紙を丸めている。俺ではなく、イリスの膝を見ていた。


「動けぬ備品を並べれば、陛下のお目を汚すだけだ」


 イリスは膝を隠さなかった。


 俺も、その前へ立たなかった。


「最後まで動くかは、やってみなきゃ分からない。だから見に来た」


「私の新型に、そのような心配はない」


 係官が、綴りを閉じた。


「白獅子騎士団にも、停止時の搬送経路を確認していただきます」


 ヘルマンの紙を握る指が強くなった。


 試験場の入口には、ギルドの告示も貼られていた。公開比較後の確認が済むまで、白獅子騎士団への新規護衛依頼の割り当ては見合わせる。今週の割り当ては零件。


 その前を通ってきたはずの男は、告示に一度も顔を向けなかった。


「試験を見れば、ギルドも考えを改める」


 係官は相槌を打たず、搬送路へ手を向けた。


 ヘルマンは俺たちの横を抜けた。白手袋は、天幕にも担架にも触れなかった。


 俺はイリスと脇道へ戻った。


 傾斜路から天幕まで、途中に段差がある。搬送する者がつまずかないよう、係官が印をつけた。俺はその位置を帳面に写した。


 イリスが、俺の肘の近くに手を上げた。


「主殿。膝の内側が、重くなりました」


 筆を止めた。


「今か」


「坂を下りた辺りからです。痛みはありません」


「座れるところまで戻ろう」


「……はい」


 彼女は試験の道を見た。まだ、荷を載せる場所を確かめていない。


「続きを見てこようか。お前は椅子で待っていていい」


「そうしてください。私は、ここで休みます」


 高い長椅子には座らず、天幕の脇にあった低い腰掛けを選んだ。


 腰を下ろし、両足を地面につける。それだけの動作を終えてから、肩が少し下がった。


 俺は帳面に、坂を下りた後、と書いた。


 その横に、本人から申告、と付け足す。


 筆先が止まるまで、イリスは黙って待っていた。


 廃棄場へ帰る頃には、彼女の歩幅は戻っていた。


 それでも、今夜の点検は省かなかった。


「開けていいか」


「はい。内側をお願いします」


 膝の覆いを外し、油を拭って擦れ跡を確かめる。片側へ寄っていた当たりを調整し、白蝋油を薄く引いた。


 その後は自分で曲げてもらう。重さが消えたという返事だけで終えず、休みを挟んでもう一度、同じ範囲を動かしてもらった。


 ランプの下で、白磁の膝が静かに伸びる。


 俺は覆いを戻した。


「坂では、平地より早く重くなるかもしれない」


「分かりました」


「今日直した場所も、使えばまた変わる。変わったら教えてくれ」


「主殿が、遠くにいてもですか」


「ああ。試験官に言えば、記録に残る。俺にも後で分かる」


 イリスは膝へ手を置いた。


 指先が、覆いの継ぎ目を一度なぞる。


「止まれば、私の試験は終わります」


「そういう条件だ」


「主殿を追い出した人の前で、止まることになります」


 俺は油瓶に栓をした。


 彼女が何を気にしていたのか、そこでようやく分かった。


 ヘルマンが膝を見たときも、イリスはまっすぐ立っていた。俺はそれを、いつもの姿勢だと思っていた。


「俺は、お前が無理して歩いた記録を持ち帰りたくない」


 栓を締めた瓶を、鞄の底へ収める。


「坂で重くなったなら、そこまで歩いたことと、重くなったことを持って帰る。それで次に見る場所が分かる」


「勝てなくても」


「勝ちたい。だが、そのために膝の話を聞かなかったことにはできない」


 イリスはしばらく、足元を見ていた。


 俺は工具を数えた。一本ずつ布へ戻す音が、小屋に落ちる。


「私は、試験に出たいです」


 最後の一本を置く前に、彼女が言った。


「今の私が、どこまで盾を運べるか、見ていてほしいです」


「分かった」


「それから、途中で終わったら」


 白磁の手が、膝から離れた。


「帰ってから、止まったところの話を聞いてください」


「ああ」


 俺は帳面を開き、彼女の頁の下に余白を残した。


 イリスが身を寄せる。髪の先が俺の手首をかすめたので、筆を少し持ち上げた。


「そんなに、空けるのですか」


「聞くことがある」


「……了解」


 彼女は離れたが、椅子は近いままだった。


 翌朝、荷車には四体分の支度を積んだ。


 イリス、ノノ、セラフィナ、ミラ。


 留守を頼む者たちに見送られて、北門をくぐる。俺は歩きながら、荷車の車輪の音と四人の足音を聞いた。


 王城の入口で工具の申告を済ませると、整備鞄は指定の保管所へ預けることになった。試験が終われば、ここで受け取れる。


 肩紐を外す。


 長く掛けていた重みがなくなっても、肩はすぐには下がらなかった。


 待機所へ向かう分かれ道で、イリスが足を止めた。


「主殿」


 俺は振り返る。


 彼女は盾を左腕に収めたまま、右手を上げた。


 昨日、天幕から見えたのと同じ高さだった。


 俺も手を上げる。


 それを確かめて、イリスは仲間たちの後を追った。


 観覧席に着くと、待機所の側面の布は巻き上げられていた。低い腰掛けも運び込まれている。両陣営に、同じものが置かれていた。


 俺は空の肩に触れ、それから膝の上で手を開いた。


 向こう側では、白獅子の旗の下にミレス型が並んでいる。先頭の指揮個体の首には、黒い輪が残っていた。


 その後ろをヘルマンが歩き、観覧席へ上がってくる。


 俺の前を通るときも、声は掛けなかった。


 貴賓席の扉が開いた。


 王が着座すると、周囲の衣擦れが一斉に止んだ。


 内柵の門が引き開けられる。


 イリスの白い靴が、試験路へ踏み出した。


 俺が立つ場所と彼女の踵の間へ、横木が下ろされた。


(第30話へ続く)

今回、オルトが油を拭って確かめた擦れ跡は、部品同士がどこで触れていたかを知る手掛かりです。機械の整備では、傷や減り方の偏りも、動きの具合を教えてくれます。イリスの申告と合わせて読んでいただくと、膝の内側を調べる理由が少し見えてくると思います。

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