止めるための音
胸の内側で、また硬い音がした。
俺は覆いに耳を近づけたまま、坑道から救い出した人形の指を見た。布の上で握られ、開く。その動きと音は合っていない。
ただ、こちらが顔を上げると止まった。
「俺を呼んでたのか」
動力核が一度、明滅した。
「胸を、開けていいか」
一度。
俺は留め具へ指を掛けた。人形の手が少し浮いたので、そこで待つ。指先は工具へ向かわず、俺の手首のそばへ下りた。
触れる手前で止まっていた。
「途中で嫌になったら、合図をくれ。開けたままでも手は止められる」
指が布へ戻った。
覆いを外すと、動力核を囲む枠の脇に、小さな打ち子があった。先端が胸の裏側を叩いている。声を作る機構とは別の、簡単な仕掛けだった。
細い引き棒が、脇腹の操作板へ続いている。
板には、石粉に埋もれた指の跡があった。
「坑道で使う呼び鈴か」
一度。
暗い穴の中では顔が見えない。石を砕く音に声も消される。近くの作業者へ知らせるには、胸全体に響く音が要ったのだろう。
だが今は、打ち子が傾いていた。引き棒を戻す薄いばねも、途中で止まっている。
「押してから、戻るまでが遅いんだな」
一度。
「直したいのは、ここか」
今度は、指が俺の袖に触れた。
引かずに、触れたままになった。
俺は道具を置いた。
「待つか」
一度。
椅子に座り直す。胸は開いているが、動力核の枠には触れていない。風が直接当たらないよう衝立を寄せると、戸口にいたチコが工具箱を抱えて近づいた。
「師匠、小さい方の平やすりを持ってきました」
「ああ。まだ置いといてくれ」
チコは工具を布の上へ置き、俺の横に立った。
人形の手を見る。それから、開いた胸を見る。
「待ってるところですか」
「そうだ」
チコも黙った。
番小屋の外では、荷車の車輪を乾いた土へ転がす音がした。誰かが水桶を置く。いつもの音がする間、細い指は俺の袖から離れなかった。
やがて手が戻り、脇腹の板を押した。
かつん。
「続けていいか」
一度。
打ち子の軸を抜いて石粉と固まった油を除き、曲がった引き棒を当て木の上で戻した。
軸へ薄く油を引き、戻りばねの掛かりを調整する。覆いを仮留めして、押した分だけ打ち、指を離せば戻ることを確かめた。
窓の光は、工具箱の向こうまで移っていた。
「押してみてくれ」
かつん。
次の音は来なかった。
指がもう一度動く。
かつん。
「これで、鳴らしたいときに鳴らせる」
人形は脇腹を見下ろしていた。もう一度押しかけ、それから俺の顔へ目を戻した。
「何度試してもいい」
今度は少し強く鳴った。
チコが自分の胸に手を当てた。似た場所に仕掛けがあるか探したらしい。首を傾げ、すぐにその手を下ろす。
「ぼくには、ありません」
「声が届かない場所で働くためのものだ。全員にはついてない」
俺は記録帳に、呼び鈴の位置と状態を書いた。
その先で、ペンを止める。
この音が何を伝えるのか。俺が勝手に決めていい欄ではなかった。
「整備中に鳴ったら、俺たちは手を止める。それでいいか」
一度。
「呼びたいときにも使っていい。止めてから、何の用か聞く」
また一度。
チコが帳面を覗いた。
「呼ぶ音と、止める音が同じでもいいんですか」
「止めて聞けば、間違えずに済む」
人形の指が操作板の縁をなぞった。
使うたびに誰かを困らせる道具ではないと、確かめているようだった。
俺は最後の留め具を締める前に、彼女へ顔を向けた。
「覆いを閉じる。嫌なら鳴らしてくれ」
うなずきは小さかった。
ねじを一つ締め、次へ移る。
かつん。
俺は工具を離した。
チコも、渡しかけていた布を手元へ戻した。
人形は動かなかった。俺と、チコと、止まった工具を順番に見た。
「痛かったか」
二度。
「姿勢がつらいか」
二度。
聞き方を変えようとして、やめた。
指はもう操作板から離れていた。それでもこちらは止まったままだ。
「試したかったか」
一度。
俺はうなずいた。
「止まったぞ」
布の上の手が開いた。
台の縁をつかんでいない。俺の袖もつかんでいない。
チコは手元の布を畳み直していた。少し曲がった角を揃えてから、人形へ見せる。
「ぼくも、この音で止めます。師匠がいないときも」
人形の視線が、小さな樫の手へ移った。
「だから、ぼくにも鳴らしてください」
一度。
チコは返事を見届けてから、布を台の端へ置いた。
閉じ終えるまでに、呼び鈴はもう一度鳴った。
今度は背中へ当てた布の折り目が気になったらしい。本人に位置を確かめ、引き抜かずに少しずつずらした。楽なところへ落ち着くと、彼女は操作板から手を下ろした。
それで、その日の胸の整備を終えた。
夕方、マルガが廃棄場へ来た。
番小屋から離れた門のそばで、俺はギルドの決定を聞いた。イリスも隣に立っている。城から戻ったときより、膝の動きは落ち着いていた。
「白獅子騎士団が申請していた坑道警備の追加受注、二件とも不承認になりました」
マルガは控えを開いた。
「公開比較と救出時の記録を踏まえて、安全に往復できると確認するまでは任せられない、という判断です」
「坑道の作業員には伝わったか」
「ええ。別の警備を手配中です。あなたたちへ勝手に振り替えることもしません」
それならいい。
番人の肘には、まだ交換する歯が要る。救い出した人形も、歩ける状態ではない。受注欄に空きがあるからといって、俺たちの手まで空いているわけではなかった。
マルガは控えを閉じた。
「王城では、公開稼働試験の準備が進んでいます。ギルドにも立ち会いの要請が来ました」
「条件は」
「確定したものを、双方へ同時に説明するそうです。ただ、陛下の御前で実際に動かす方針は変わりません」
イリスの指が盾の縁へ掛かった。
俺はその手を見てから、マルガへ言った。
「説明は聞く。何を動かすにも、先に道と荷重を見せてもらう」
「その希望は伝えます」
彼女が帰ったあとも、イリスは門のそばに残っていた。
「出るかどうかは、条件を聞いてからだ」
「……了解」
「膝も見る。今日、城で歩いた分がある」
イリスはすぐに返事をしなかった。
番小屋から、小さく呼び鈴が聞こえた。
窓越しに見ると、チコが手を止めている。水差しを持っていたロッテも、整備台へ顔を向けた。
イリスはそれを見ていた。
「主殿。試験に出ることになったら、私は途中でも膝の状態を伝えます」
「ああ」
「歩けていても、伝えます」
俺は彼女へ向き直った。
城の石段では、少し、と言った。その少しが、どこから始まっていたのかは聞いていなかった。
「その方が助かる。止まってからじゃ、戻る道まで支えが要る」
「はい」
盾の縁から指が離れた。
俺が鞄を持ち直すと、イリスの手が一瞬こちらへ伸びた。荷物を受け取ろうとしたのだろう。けれど途中で引っ込め、代わりに番小屋の戸を押さえた。
俺はその横を通った。
肩が戸枠に当たらないよう、彼女が少しだけ身を寄せる。白磁の指が袖をかすめたが、二人とも何も言わなかった。
整備台では、救い出した人形の枕が高くなっていた。
「ぼくに、鳴らしてくれました」
チコが小さな声で言った。
「そうか」
「はい。何をしてほしいかは、まだ何度も聞かないと分かりません」
「聞けばいい」
人形は俺を見て、それからチコを見た。
今度は鳴らさなかった。
布の上の手を、楽そうに置いていた。
翌朝、試験条件の説明に先立って、王城の係官が廃棄場を訪れた。
門を開けた俺の前で、係官は荷車と整備鞄を順に確かめた。
「当日、人形たちを待機所へ送った後、あなたはこちらの道から観覧席へ入っていただきます」
「俺は待機所へ行けないのか」
「両陣営とも同じです。稼働中、整備を行う者は人形に接触できません」
俺は鞄の肩紐を握り直した。
小屋の中には、呼べば手が止まると確かめたばかりの人形がいる。
「途中で不具合を伝えた場合は」
「停止を申し出ることはできます。その個体の試験は、そこで終了です」
俺は戸口に立ったイリスを見た。
彼女は聞いていた。盾を持たず、両手を下ろして。
鞄を荷台へ戻し、俺は係官の前へ出た。
「試験の道を見せてくれ。止まった後、あいつらがどこで待つのかも、全部だ」
(第29話へ続く)
今回出てきた呼び鈴は、板を押すと打ち子が胸の裏を叩き、指を離すと薄いばねが引き棒を戻す仕組みです。この戻りが鈍いと、一度押しただけで鳴り続けたり、二度目が鳴らなかったりします。この世界の坑道の人形にとって、指を離せば止まることは、声と同じくらい大事な部分でした。お読みいただきありがとうございます。




