↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/38

持ち去らなかったもの

「持ち去っていない。缶は整備庫に置いた」


 俺が答えても、王城の使いは腰の剣へ手を掛けなかった。


「そのお話を、記録と照らし合わせます。明朝、城の東の控え室へ」


「油缶はギルドに預けてある」


「保管先にも、記録の提出を求めています」


 使いはそれだけ告げて去った。


 蹄の音が遠ざかってから、俺は記録帳を開いた。追放された日の頁は、すぐに見つかった。


 新型の膝。砂の入り口。交換用の軸受けの残数。


 油缶を棚に戻したとは、書いていない。


 毎日戻すものだった。十年間、同じ棚へ置いていた。


「主殿」


 イリスが戸口から戻ってきた。


「私も、同行します」


「お前は整備庫にいなかった。見ていないことは話せないぞ」


「はい。見ていないことは、話しません」


 それでも、彼女は戸口を離れなかった。


「一人で聞かなくてよいように、隣にいたいです」


 俺は頁の端から指を離した。


「分かった。膝を見てからだ」


「……了解」


 当番表の順が来ると、イリスは整備台へ座った。長く曲げていた膝は、まだ伸ばしきる手前で止まる。


「開けていいか」


「お願いします」


 膝の覆いを外し、軸の片側へ寄った古い油と細かな汚れを拭った。

 白蝋油を薄く馴染ませ、脚を支えながら、引っ掛かりの出ない範囲をゆっくり確かめた。


 俺が記録帳へ目をやるたび、手元の動きが遅くなった。


「主殿。今は、こちらを」


「ああ。悪い」


 膝へ目を戻す。


 白磁の指が、台の上でほどけた。


「そこまで気にしなくていい。明日は歩ける」


「膝のことだけではありません」


 言ってから、イリスは少し顎を引いた。


 俺もそれ以上は聞かなかった。脚を支え直すと、今度は終わりまで、記録帳へ手を伸ばさずに済んだ。


 翌朝、救出した人形をロッテたちに頼み、俺はイリスと城へ向かった。


 東の控え室には、長い机があった。


 向こう側に座っていたルドルフは、俺の鞄より先に、イリスの胸元の隊章を見た。


「証人を連れてきたのですか」


「同行者だ」


「でしたら、廊下で――」


「席はあります。入れなさい」


 窓辺から声がした。


 灰色の髪と髭を整えた男が、こちらへ向き直った。濃灰の服に金の鎖。指の間で転がしていた黒い輪が、朝の光を細く返した。


 首に取り付ける前の封じ栓だった。


 机の脇の記録官が立ち上がる。


「宰相、オズヴィン・ハルト閣下です」


 俺は頭を下げた。


 オズヴィンは俺の挨拶を待たず、机に置かれた記録帳を指した。


「それが、廃棄された人形を動かしている記録ですか」


「手入れした内容を書いてある」


「十年分を一人で持っている。なるほど」


 黒い輪が、掌へ収まった。


「では、どちらの記録に誤りがあるのか、確かめましょう」


 ルドルフが紙を差し出した。


 追放された日の整備庫の記録だった。俺の退去に伴う紛失品として、油缶一本が記されている。底の備品番号も、俺の使っていたものと同じだ。


「グレンが持ち出した缶が坑道で発見された。少なくとも、騎士団が置いたとする判断には問題があります」


「持ち出したところを見た奴は」


「記録が残っています」


「誰が見た」


 丸眼鏡の奥で、ルドルフの目が細くなった。


「整備庫を使用していたのは、あなたです」


 俺は自分の記録帳を開いた。


 油缶を戻したとは書いていない。その空白を見ていると、棚の冷たさまで思い出した。白獅子の紋を手前に向け、いつものように置いた。


 だが、覚えていることと、ここで示せることは違う。


「俺の帳面に、返した記載はない」


 ルドルフの指が紙を押さえた。


「では――」


「持ち去った記載もない。それと、これは別だ」


 鞄から、ギルドでもらった坑道保守の資材表の写しを出す。


「騎士団は、この缶を坑道へ持ち出したと届けている」


「紛失した備品の番号を、以前の資材表から転記したのでしょう。事務上の誤りです」


「どちらを訂正するんだ」


 ルドルフは答えず、記録官へ顔を向けた。


「保守作業そのものには、関係のない話です」


 記録官は筆を止めた。


「関係はあります。完了届に添付された資材表ですから」


 机へ、もう一枚の紙が置かれた。


 ギルドの受領印がある。俺が追放されたあとに提出された、坑道用資材の搬出控えだった。


「城から照会したところ、ギルドの保管分が届きました。この番号の油缶について、整備庫から搬出したと記載されています」


 紙の下には、副団長の確認印があった。


 ルドルフのものだ。


「私はすべての現物を見ているわけではありません。数字は担当が整えて――」


「では、その担当者の確認が必要です」


 記録官は二枚を並べ、角を揃えた。


「グレン殿が持ち去ったという記載だけでは認定できません。本人に請求した紛失備品の補填金、金貨二枚は却下します」


 俺は顔を上げた。


 請求の話など、初めて聞いた。


 ルドルフの手元には、まだ紙があった。油缶と付属器具の損失。そこには俺の名と、金貨二枚の額が書かれていた。


 記録官がその紙を引き取り、却下の印を押す。


 乾いた音が一つした。


「缶を運んだ者と、注油を実施した者は引き続き確認します。騎士団には、記載の根拠を求めます」


 誰が置いたかまでは決まらなかった。


 それでいい。分からない部分を俺の名前で埋めることは、止まった。


 オズヴィンが手を伸ばした。


「ならば、そちらの帳面も預かりましょう。人形の状態と行動を照合する必要がある」


「必要な箇所は写してくれ。原本は今夜も使う」


「調査への協力を惜しむのですか」


「開けていいと言われた範囲と、まだ触っていない場所が書いてある。手元になければ困る」


 オズヴィンの視線がイリスへ移った。


「人形の返答を待つために、調査も止めると」


 イリスの右手が、膝の上で動いた。


「私は、昨夜も待ってもらいました」


「今はあなたの故障の話ではありません」


「その帳面の話です」


 短い声だった。


 イリスは盾を動かさなかった。俺の前へも出なかった。隣の椅子に座ったまま、机の上を見ていた。


「私の膝を、どこまで曲げてよいか。そこにあります。返してください」


 オズヴィンの指は、帳面の表紙に掛かっていた。


 記録官が、開いた頁を確かめる。


「油缶に関する箇所と、坑道から救出された個体の整備記録を写せば、本日の確認には足ります」


 しばらくして、宰相の指が離れた。


「結構。必要な箇所から始めなさい」


 黒い輪が再び指の間で回った。


「ただし、動くかどうかは、帳面だけでは決まりませんよ」


 俺は答えず、写しを取る記録官へ頁を向けた。


 確かめてもらうなら、実際に見てもらえばいい。


 そのために、見ていないことまで書き足すつもりはなかった。


 城を出た頃には、昼を過ぎていた。


 石段の途中でイリスが歩幅を狭めたので、俺も足を緩める。


「膝か」


「少し。急がなければ、平気です」


「そこの縁へ座るか」


「はい」


 今日は、返事が早かった。


 俺も隣へ腰を下ろした。鞄から記録帳を出し、表紙の角が折れていないか確かめる。


「さっきは助かった」


「私は、缶のことは知りません」


「帳面のことを言ってくれた」


 イリスは膝を見下ろした。


「主殿が、全部渡してしまうかと思いました」


「そんなに物分かりはよくない」


「……了解」


 それでも彼女の手は、帳面のそばに残った。


 俺は閉じた帳面を鞄へ戻す。留め金を掛けるまで、イリスは立ち上がらなかった。


 廃棄場へ帰ると、救出した人形は起きていた。


 布の上の手が、俺を見て持ち上がる。縁を探す動きではない。


 俺は鞄を下ろし、整備台へ近づいた。


「何か伝えたいか」


 一度。


 指先が、自分の胸の覆いを叩いた。


 続いて、俺の右手を指す。


「ここを見てほしいのか」


 一度。


 俺は椅子を引いた。まだ開けていない場所だ。道具を並べる前に、覆いの外から音を聞く。


 かつん。


 指が止まっても、音は続いた。


 かつん、かつん。


 動力核の拍動とは合っていない。


 閉じた胸の内側から、硬いものが覆いを叩いていた。


(第28話へ続く)

今回オルトが膝の軸を拭ってから油を差していたのは、片側に寄った古い油が細かな汚れを抱え込み、そこへ新しい油を足すと汚れごと擦り込んでしまうからです。現実の機械でも、油は多ければよいわけではなく、汚れを除いて薄く馴染ませるのが基本とされています。お読みいただきありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。