返事を待つ手
油缶を傾けかけて、俺は手を止めた。
注ぎ口の根元に、細い石の粒が挟まっている。拭えば取れる。だが、取ってしまえば、どこにどう付いていたかは戻せない。
「ポーラ。籠に入っていた向きから、記録してくれ」
「承知しました。持ち上げたあとの向きは、別に記します」
荷台の上で、救出された人形の指が動いた。
油缶へ伸びたのではなかった。俺の手と缶の間へ、割って入ろうとしていた。
肘は布から上がらない。指先だけが、何度も空を掻く。
「これを使ってほしくないのか」
一度。
胸の奥で、動力核が弱く明滅した。
「分かった。お前には使わない」
指が止まった。
俺は缶を荷台の端へ移した。彼女の目から見えなくならない場所に、口を上にして置く。
坑道の番人が、禁止線のそばからこちらを見ていた。手当てした肘を腹の前で支え、大槌は地面に寝かせてある。
「それを持った者が、来た」
「いつだ」
「崩れる前。白い獅子が、腕にあった」
それ以上は続かなかった。
俺は缶の底にある二本の傷を見た。
自分で付けた傷だ。だが、ここへ運んだ手まで知っているわけじゃない。
「顔は見たか」
「灯を、こちらへ向けられた。見えなかった」
「そこまででいい」
ポーラの筆が紙を擦った。
俺は番人に、缶をギルドへ預けると伝えた。彼女は頷いてから、荷台へ目を戻した。
「その手も、持っていくのか」
「揺らさず運べるようにした。向こうで続きを見る」
番人は救出された人形の指に触れた。
「ここにいる。槌は、持たない」
布の上の指が、わずかに曲がった。
返事を確かめてから、俺たちは荷車を動かした。
北門外へ着いた頃には、ランプの明かりが必要になっていた。
イリスと一緒に救出した人形を整備台へ移す。背中の下へ畳んだ布を入れると、左手が台の縁をつかんだ。
関節が鳴った。
支えていたものがなくなっても、手はまだ何かを探していた。
「左の手首を見たい。開けていいか」
二度。
俺は工具から手を離した。
「今日は開けない。置き方だけ変えてもいいか」
しばらく待って、一度。
イリスが台の横へ膝をついた。盾は壁に立て掛けたままだ。
「私の手を、ここへ置いてもよいですか」
一度。
白磁の手が、台の縁に並んだ。
救出された指は、すぐには移らなかった。縁をつかむ力が強まり、緩み、また強まる。イリスは引き剝がさずに待った。
俺はその間に、油缶を受け取りに来たギルドの係員へ、発見時の記録を渡した。
缶の形。傷の位置。追放された日に整備庫へ残したこと。
分かるのはそこまでだと、最後に付け加えた。
係員が帰っても、イリスは同じ姿勢でいた。
やがて台の縁から一本だけ指が離れ、白磁の小指に触れた。
「……了解」
いつもの返事が、いつもより小さかった。
翌朝、マルガが廃棄場へ来た。
油缶は持っていない。代わりに、ギルドの保管簿と、坑道作業の検収控えを机に並べた。
「白獅子から、この坑道の保守完了届が出ています。添付の資材表に、油缶一本の持ち出しもありました」
「俺の使っていた缶か」
「備品番号は一致しました。誰が持っていったかは調査中です」
控えには、支柱点検と作業人形への注油を済ませたとある。
受領者の欄には、名前がなかった。
作業人形による確認不要。
そう印刷された枠に、騎士団の印だけが押してあった。
「缶があっただけじゃ、注油したことにはならない」
「ええ。現場の状態とも食い違います。ギルドは白獅子騎士団への坑道保守の新規発注二件を保留しました。完了届の裏付けが取れるまで、追加の契約は結びません」
公開比較では止まった測量台を、完了したことにはできなかった。
今度は、坑道に置いてきた人形だった。
マルガは控えを閉じず、俺へ向けたままにした。
「この人形からも、状況を確認したいのですが」
整備台の方を見る。
イリスの指に触れていた手が、紙の擦れる音で強張っていた。
「一度聞く。答えられなければ、今日はそれまでだ」
「分かりました」
俺は椅子を寄せた。目の高さを合わせ、机の控えを指した。
「坑道に来た奴が、何をしたか聞いてもいいか」
一度。
「体に油を差したか」
二度。
指が動く。
自分の胸へ向かいかけ、途中で止まった。そのまま台の上を擦り、何かを押すように伸びる。
「支柱か」
二度。
違った。
俺は口を閉じた。思いついたものを並べれば、答えるたびに彼女を動かすことになる。
指先はまだ台を擦っている。
イリスが、握らせていた手を少しだけ下げた。
「主殿。動かそうとすると、ここで止まります」
手首の外側。割れた覆いの縁が、内側へ食い込んでいた。
昨夜は触らせなかった場所だ。
「手首を開けていいか。返事をするために、無理に動かさなくていい」
動力核は光らなかった。
イリスが続けた。
「嫌なら、この手に触れたままでいてください。私は動かしません」
ランプの芯が小さく鳴った。
待っているうちに、指が白磁の手から離れた。
掌が上を向く。
一度。
「分かった」
覆いを外して内へ曲がった縁を戻し、噛み込んだ石粉を刷毛で除いた。
傷んだ軸受けを避けて古い油を拭い、新しい油を馴染ませ、荷重を掛けずに曲がる範囲を確かめた。
昼を過ぎても、手首は半分ほどしか曲がらなかった。
それでも指先は、台を擦らずに持ち上がった。
彼女は自分の胸の覆いに触れた。
閉じた継ぎ目をなぞる。次に、鉱石籠のあった方角へ手を伸ばす。
「体を開けずに、缶を籠へ入れたのか」
一度。
マルガの筆が止まった。
「注油はされなかった。缶だけ置かれた。そう記録してよいですか」
一度。
完了届の紙は、朝と同じ薄さだった。
その紙で、岩の下にいる人形の手入れが済んだことにされていた。
俺は外した覆いを見た。内側の油は黒く乾き、石粉と一緒に固まっている。新しく差された痕跡は、少なくともこの手首にはなかった。
見た範囲を、見た範囲のまま記録帳へ書く。
マルガはそれを書き写してから、確認を終えた。
誰が運んだのか。なぜ缶を残したのか。
そこは空欄のままだった。
使い慣れた道具が見つかったからといって、答えまで俺の手に戻ってくるわけではない。
夕方、救出された人形は、畳んだ布の上へ自分で手を置いた。
台の縁をつかまなくても、その手は落ちなかった。
俺が覆いを留め終えると、指が一度だけ俺の袖に触れた。すぐ離れたので、俺も引き止めなかった。
「続きはまただ。今日はここまでにする」
一度。
イリスが立ち上がった。膝を伸ばす動きが、わずかに遅い。
「同じ姿勢でいすぎたな」
「支える必要がありました」
「交代はできた」
「……はい」
彼女は自分の左手を見た。
長く握られていた小指に、黒い石粉が残っている。
「離すと、また縁をつかむと思いました」
「そうか」
「ですが、次は交代を頼みます。私も、手を休めたいです」
「それでいい」
俺は当番表を見た。今夜のイリスの番までは、まだ間がある。
「先に座ってろ。膝は順番が来たら見る」
椅子を引くと、彼女はすぐには座らなかった。
「主殿も」
「俺は片付けがある」
「缶を見つけてから、ずっと立っています」
返す言葉を探している間に、隣の椅子も引かれた。
俺は腰を下ろした。
イリスも座る。肩が触れるほどではないが、工具箱を間に置くには狭かった。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
整備台では、布の上の手がゆっくり開いていた。
門の外で馬の蹄が止まったのは、そのときだった。
立ち上がりかけた俺へ、イリスが掌を向ける。先に戸口へ出て、外を確かめた。
白獅子の旗はなかった。
馬から下りた男は王城の通行章を掲げ、俺の名を確認した。
「オルト・グレン殿。油缶について、城でお話を伺います」
「ギルドの調査は始まったばかりだ」
「承知しています。ですから、その記録帳もお持ちください」
男は開いた門の脇へ立った。
「あなたを追放した日の整備庫の記録を、白獅子騎士団が提出しました。そこには、あなたが油缶を持ち去ったとあります」
(第27話へ続く)
今回オルトは、手首に油を差す前に、噛み込んだ石粉を刷毛で払っていました。細かな砂や粉が残ったまま油を足すと、粉が油に混ざって研磨剤のようになり、かえって関節を削ってしまうことがあるそうです。古い油を拭ってから新しい油を、という順番にはそんな理由があります。お読みいただきありがとうございます。




