離しても落ちない
坑道の番人が抱えていた支柱は、根元が斜めに潰れていた。
折れた木口に、まだ湿り気がある。古い崩落の残骸じゃない。
「奥の手は、動くのか」
「叩く。ときどき」
低い声に合わせて、肘から赤錆が落ちた。
俺は近づきすぎないところで止まった。
「どこだ」
「入口から左。荷を避ける穴」
ノノが坑口の方へ耳を向けた。ポーラは円盤を持ち上げかけ、熱の残る右の一枚だけを下ろす。
イリスは盾を構えたまま、番人の足元を見ていた。大槌を握る指まで、黒い石粉に埋まっている。
「俺たちだけでは入れない。支柱を扱える者を呼ぶ」
「待つのは、もうした」
番人の腕が持ち上がった。
支柱を俺へ渡そうとしたのだろう。だが肘が途中で引っ掛かり、重い木が斜めに傾いだ。
イリスが盾の縁で受ける。
番人はすぐに引き戻した。
「取らないで」
「取らん。落ちないように受けただけだ」
俺は木口の下へ角材を置いた。彼女が腕を少し下げても、支柱はそこに乗る。
「戻すために、まず場所を見る。お前にも来てもらう」
黒い顔が、角材と俺の手を順に見た。
支柱から指が一本だけ離れた。
それが返事だった。
マルガは監視員を坑口に残し、詰所の作業員を集めた。坑道の調査に来ていた支保工が、予備の木材と楔を荷車へ載せる。
俺たちは坑内の立入禁止を勝手に越えず、その確認を待った。
連れていくのはイリス、ノノ、ポーラ。工具箱には比較で使った道具が入っている。救出された者を運べるよう、荷台を空けた。
待つ間、マルガが受付の控えに線を引いた。
「比較の検査票を受けて、ギルドは白獅子騎士団が請求していた北第六坑道の測量器材更新費、金貨三十枚の支給を認めません。この決定を騎士団へ正式に通知します」
エリカの早さを根拠にしていた白獅子の請求票に、支給不承認の印が押された。
速く直したという記録は残る。
戻ってこられなかったという記録も、同じ紙に残る。
俺は控えを確認して、荷車の縄を締めた。
坑口で支保工が調べた結果、左の退避穴までは、新たに支えを入れながら近づけることになった。その先へは進まない。落石が続けば全員を戻す。
番人は説明の間も、支柱を離さなかった。
入口の明かりが届く床には、大槌を引きずった跡が何本もあった。外へ向かい、途中で止まり、また内側へ戻っている。
禁止杭の折れた根が、その端に残っていた。
「杭を飛ばしたのは、お前か」
「呼んだ。誰も来なかった」
「向こうに人がいれば、当たる」
番人は槌を見下ろした。
「次は、置いて呼ぶ」
「ああ」
ノノがしゃがみ、床の粉へ指を近づけた。触れずに、真鍮の耳を回す。
「オルトさん。左からっす」
俺たちは黙った。
こつ。
長い間を空けて、もう一度。
岩の割れる音より、ずっと軽かった。
番人の足が前へ出た。
「待て。今、支えを入れてる」
その足が止まる。膝の内側で、硬いものが擦れた。
退避穴の口は、落ちた梁と岩で半分ほど塞がっていた。下の隙間から、灰色に汚れた手が出ている。
細い指が一本、石を叩いた。
イリスが俺の前へ盾を立てた。上から落ちる細かな破片を受けながら、退避する幅を空ける。
「主殿。ここから先は、盾の内側を」
「頼む」
俺は膝をついた。
「声は届くか。届くなら、一度叩いてくれ」
こつ。
「助けに来た。嫌なことを聞いたら二度だ。覚えられるか」
こつ。
番人が俺の肩越しに手を伸ばした。
指先が、埋まった手に届く寸前で止まる。肘の裂け目から錆がこぼれ、手首だけが小さく震えた。
「届かない」
「無理に曲げるな」
「前は、届いた」
俺は彼女の肘を見た。裂けた覆いの縁が内側へ曲がり、動く腕に食い込んでいる。油は乾き、錆色の粉に変わっていた。
「肘を見たい。開けていいか」
「今は、いや」
「分かった」
工具へ伸ばした手を戻す。
番人は少し遅れて、俺の空の手を見た。
奥でまた、指が鳴った。
支保工が新しい支柱を立て終えた。楔を打つ音が止まり、梁に付けた目印が動かないことを確かめる。
ポーラは左の円盤を低く回した。
「梁の傾き、変化なし。右円盤は使っていません。ここからの観測では、奥の岩の状態は保証できません」
「見えるところだけ頼む」
「了解しました」
番人の持ち出した支柱は、潰れた根元のせいで、そのまま戻せなかった。支保工が別の木を当てると、彼女はそれを押しのけようとした。
「これが、ここの柱」
「そうだな。だが、今は長さが足りない」
俺は新しい柱と古い柱を並べて見せた。
潰れた分だけ、隙間が空いた。
「お前が持ってきたから、どこまで落ちたか分かった。こいつは外で預かる」
番人は木を抱えたまま、しばらく動かなかった。
やがて、地面へ置いた。
今度は指を全部離した。
作業員が穴の前の小石を除くと、横倒しになった人形の肩が見えた。岩は胴の上に直接乗ってはいない。折れた鉱石籠が潰れ、その縁で肩を引っ掛けていた。
「体を支えて、外へ引き出す。触れていいか」
指が一度鳴った。
俺は布を通した。イリスが盾を頭上に保ち、ノノが縄を床の尖りから避ける。
番人は大槌を置いた。
動く方の手で布を握り、引く方向を確かめる。支保工の合図を待つ間、その足は微動もしなかった。
肩が籠の縁を越える。
そこで床の石がずれた。
番人が腰を落とした。布を跳ねさせず、重みだけを受け止める。傷んだ肘を使わずに、人形の体を自分の膝へ滑らせた。
黒い石粉が、二人の肩から落ちた。
「手」
番人が言った。
俺は埋まっていた腕を支えた。指は全部つながっている。掌に深い擦り傷があり、叩いていた一本だけ、地金が光っていた。
その指が番人の手に触れた。
音はしなかった。
番人は触れられた場所を見たまま、動かなかった。
救出した人形は、坑口の荷台へ寝かせた。外から確認できる動力核の明かりは弱いが、呼びかけには一度ずつ返ってくる。詳しい点検は、落ち着いて許可を取れる場所で行う。
番人は荷台の横に座った。
誰かが交代しようとしても、布の端を握ったままだった。
俺はその隣に工具を広げた。
「肘は、さっきより曲がらなくなってる」
「分かる」
「今なら見られる。開けていいか」
番人は荷台へ目を向けた。
救出した手が布の上にある。何も支えていない手だった。
「ここで。あの手が見えるところで、開けて」
「ああ」
裂けた覆いを外し、内へめくれた縁を戻して、関節に詰まった錆と石粉を掻き出した。
古い油を拭き取り、軸の状態に合う油を少量ずつ馴染ませる。欠けた歯は交換が要るため、今日は荷重を掛けずに動く範囲だけを確かめた。
日が岩棚の向こうへ傾くまでかかった。
番人は何度も荷台を見た。俺はそのたびに手を止めた。急に腕を引かれて、内側を傷つけないためだ。
「全部は直ってない。大槌はまだ持つな」
彼女は肘を少し曲げた。
錆の落ちる音は、しなかった。
「手まで、届く」
「届くな」
伸びた指が、布の上の手に重なった。
握り締めはしなかった。ただ、横へ置いた。
俺は記録帳を開き、名の欄を空けて肘の状態を書いた。番人が紙を覗く。
「ここへ来れば、続きができるか」
「俺たちは北門外の廃棄場にいる。来られなければ、場所を決めて会う」
「坑道は離れない」
「なら、通う」
返事を聞くと、彼女は初めて俺の方へ体を向けた。
「次も、あなたに開けてほしい」
俺は記録帳に、次は交換用の歯を測る、と書き足した。
帰りの荷車が動き出す直前、救出された人形の指が布を擦った。
俺は荷台へ戻った。
「何かあるか」
一度。
指が、自分の鉱石籠を指した。作業員が一緒に運び出した、潰れた籠だ。
「中を見ていいか」
一度。
底に挟まった石をどけると、小さな油缶が現れた。
白獅子騎士団の紋がある。
俺は缶を横へ向けた。底の縁に、二本の傷が交差していた。棚で転がらないよう、俺がやすりで付けた傷だ。
十年間使い、追放された日に整備庫へ置いてきた油缶だった。
蓋の継ぎ目から滲んだ油は、まだ石粉を吸いきっていなかった。
(第26話へ続く)
坑道の支柱と梁のすき間に打ち込む楔は、木を岩へしっかり押し当てて、上からの重みを受け止めさせるための小さな部品です。作中で支保工が楔を打ち終えたあと、梁の目印が動かないかを確かめていたのは、支えが本当に効いているかを見るためでした。お読みいただきありがとうございます。
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