止まった理由まで
白い卓布に、油差しの底の丸い染みがついた。
エリカはそれを見て、自分の部品箱を少し遠ざけた。
「その道具で、新品と比べるんですね」
「比べるのは、直したあとの動きだ」
向かい合った台の間へ、マルガがくじ箱を置いた。
北第六坑道から運ばれた測量台は、どちらも車輪付きの低い架台だった。上の硝子盤で距離と傾きを読み、下の歯車が車輪の回転を拾う。人形のような動力核はない。人が押して使う道具だ。
二台とも、長く押すと測定盤が引っ掛かる。事前の検査では、軸受けの片減りと、戻り油の汚れが記録されていた。
引いた札は、俺が二番。エリカが一番。
ポーラが封印と番号を照合した。傷の残る右円盤にも朝日が通る。
「割り当てを記録。工具と材料の追加は認めません」
「往復の経路と中止条件は、昨日お渡ししたとおりです」
マルガは観客にも規則を示した。
「交換した時刻だけでは合格になりません。坑口まで往復し、測定盤が基準内で動くことを確認します。安全上の中断は、故障による停止と分けて記録します」
エリカが白手袋の指を揃えた。
「長い説明ですこと。始めましょう」
合図とともに、向こうの台で留め金が鳴った。
俺はすぐには蓋を外さなかった。車輪をゆっくり回し、測定盤の縁に指を添える。引っ掛かる位置は毎回同じだが、その少し前から抵抗が増していた。
軸受けだけの問題なら、ここまでは重くならない。
受け皿に落とした油は、表面こそ透けていた。その底に、細かい黒い粒が沈む。
隣でチコの鉛筆が止まった。
「師匠。今、何を待っていますか」
「粉が沈むのを。上だけ見たら、まだ使える油に見える」
チコは覗き込んでから、また書き始めた。
向こうでは古い台座が外され、新しい部品が収まった。エリカが測定盤を回す。滑らかな音に、前列の見物人が身を乗り出した。
「交換完了。記録してください」
「十二分です」
ポーラの声に、小さな拍手が重なる。
俺の台には、まだ外した部品が並んでいた。
「手入れ屋さんは、汚れを眺める時間も必要なのね」
「必要だ」
エリカは笑った。俺は油の受け皿を、チコにも見えるところへ置いた。
軸受けと戻り油の溝を外し、底に固まった粉を刷毛で取り除く。
片減りした受けを申告済みの当て板で補い、擦れる縁だけを削って油を通した。
組み直したあとは手で回し、油が一巡してから遊びを合わせた。
仕上がるまで、四十七分かかった。
待ちくたびれた客が屋台へ流れ、代わりに仕事前の荷車引きが前へ出てきた。俺が外した古い受けを見て、自分の車輪の話をしている。
チコは記録の最後に線を引いた。
「待ったところも、全部書けました」
「なら、次にやる奴が困らない」
隣の新品は、俺の台よりよほど綺麗だった。
その見た目も、かかった時間も、ポーラは省かなかった。
広場を出るとき、チコは荷車の脇を歩きながら、記録帳を両手で押さえていた。今日同行するのは、チコ、ポーラ、ノノ、イリス。荷台の整備鞄も四体分だ。
騎士団の騎士が、それぞれの測量台を押した。ギルドの監視員が車輪につけた印を見て歩く。俺たちは途中で工具を触れない。
北の詰所に着くころ、空は薄く曇っていた。
観客はここまでだ。柵の向こうから、左の岩棚へ続く道を背伸びして見ている。
先頭のノノが、足裏で土を確かめた。
「昨日の道、残ってるっす。白い印の内側を通ってくださいっす」
測量台の車輪が石を踏むたび、硝子盤の針が細かく震えた。
新品の一番は、最初の坂を軽く上った。俺の二番も続く。ポーラは両方の値を同じ間隔で読み、傾きと進んだ距離を書き込んでいく。
曲がり角の手前で、ノノが手を上げた。
「止まるっす。右から小石」
全員の足が止まる。
石が三つ、斜面を跳ねて道へ落ちた。イリスが黙って盾を斜面側へ向ける。しばらく待っても、次の石は来なかった。
「安全中断。両台とも停止時点では正常」
ポーラが記録した。
エリカは口を細くしたが、規則の紙を持つマルガの前で先へ進めとは言わなかった。
監視員が斜面を確認してから、ノノが頷く。
「通れるっす。今のところは」
その一言を聞いてから、俺も歩き出した。
坑口前の石敷きへ着いたとき、一番の測定盤が小さく鳴った。
き、と短い音。
押していた騎士が手を止めると音も消えた。再開すると、今度は針が遅れて追いついた。
「路面の振動でしょう」
エリカが言った。
ポーラは石敷きに置かれた基準標と、測定盤を交互に見る。
「距離表示に遅れがあります。継続して観測します」
坑内へは入らない。禁止線の手前で向きを変え、同じ道を戻る。
その折り返しで、一番の針が止まった。
車輪は回っていた。測定盤だけが動かなかった。
「押すのを止めてください」
ポーラの声が通る。
騎士が両手を離した。新品の台座の下から、黒い油が一筋垂れていた。
エリカが部品箱へ手を伸ばしかける。
「取り付けの確認だけです」
「測定を終了してからです」
マルガが遮った。
ポーラは一番の停止時刻を書き、二番の盤を読んだ。俺の台にも、坂道で生じたわずかな誤差がある。彼女はそれも書いた。
「二番は基準内。復路を続けます」
「その観測役は、あなたの隊の人形でしょう」
エリカの声が硬くなった。
「右のレンズに傷まである。その数字を信用しろと?」
ポーラのペン先が紙から離れた。
俺が口を開く前に、彼女は記録板をマルガへ差し出した。
「右円盤の誤差は、開始前の記録に添付しています。基準標の読みを、監視員の方も確認してください」
傷のある円盤が、顔の前へ下りてきた。
彼女はそれを隠さず、基準標へ向ける。
「一番が先に直ったことも、二番に誤差があることも、私は記録しました。今の停止も、同じ欄に残します」
監視員が測定盤を覗き、手元の縄尺と照合した。
頷きが返る。
ポーラはそこで初めて、ペンを紙へ戻した。
俺たちの測量台が詰所を通って王都広場まで戻ると、待っていた観客から拍手が起きた。
広場で聞いたものより、少し遅れて始まった拍手だった。最後の針を監視員が確認するまで、皆が待っていた。
不合格になった一番は、測定盤を動かさないよう固定して運び戻された。終了後の検査で、古い戻り油の溝から固まった粉が見つかった。新品の軸受けにも、もう細い筋がついていた。
交換部品が悪かったわけではない。
新しい部品へ汚れた油を送る場所が、残されていた。
マルガは二枚の検査票に印を押した。
「二番は往復完了、検収合格。一番は測定不能で不合格です」
続けて、騎士団が出していた請求票を裏返す。
「この結果を根拠に予定していた、北第六坑道の測量器材更新費、金貨三十枚の支給は認めません。ギルドから騎士団へ通知します」
エリカは検査票を受け取らなかった。
マルガが差し出したまま待つと、ようやく白手袋が紙の端をつかんだ。
「時間だけなら、こちらが上でした」
「その通りに記録されています」
ポーラが答えた。
新品に替えることまで否定する必要はない。交換が要る部品はある。ただ、どこが悪いかを見ずに済む理由にはならない。
俺は工具箱を閉じた。検収を終えた俺たちは、観客とともに詰所へ戻った。
人垣がほどけたあと、ポーラが右円盤を下ろした。長く回した縁が、わずかに熱を持っている。
「今夜、見ておく。痛むか」
「引っ掛かりはありません。熱だけです」
「そうか」
彼女は記録板を抱き直した。その角が、俺の袖に触れる。
「オルト氏。反論されている間、少し、読み直したくなりました」
「読み違えたと思ったのか」
「いいえ。相手が納得する数字を探しそうになりました」
俺は返事を急がなかった。
ポーラは自分の署名を指で押さえた。
「次にそうなったら、黙って直す前に、あなたに言いたいです。そうすると決めました」
「聞く」
袖に触れていた記録板が、ゆっくり離れた。
そのとき、詰所の柵が鳴った。
坑道側の道にいた監視員が、こちらへ走ってくる。
イリスが盾を持ち上げた。ノノが俺の前へ出る。俺も道の奥を見た。
岩棚の曲がり角から、人影が現れた。
肩も脚も黒い石粉に覆われた、背の高い人形だった。胸に古い鉱石籠の留め具があり、片手に四角い大槌を引きずっている。
槌の角には、樫の木片が噛んでいた。
もう片方の腕には、坑道から外れたらしい太い支柱を抱えている。その腕が動くたび、肘の裂け目から赤錆が落ちた。
坑道の番人は、禁止線の内側で足を止めた。
「支柱を戻して」
低い声だった。
「奥に、まだ手がある」
(第25話へ続く)
オルトが油の受け皿を前に待っていたのは、細かい粉が底へ沈むのを見るためです。使い古した油は上澄みだけなら透けて見えても、底にすり減った金属の粉が溜まっていることがあります。新しい部品に替えても、その油が巡れば同じ傷がつきます。お読みいただきありがとうございます。




