引き返す足跡
折れた杭には、まだ土が湿って残っていた。
俺は鉄の覆いを横から見た。四角い凹みの底に赤錆がある。何か重いものが当たったのは確かだ。だが、これだけで振るった相手まで決めることはできない。
「見つけた者に怪我は?」
「ありません。坑口へ近づかず、道に落ちていたこれだけを運んだそうです」
マルガは帳面を閉じた。
「比較の往復路と重なります。明朝、ギルドで道を確認します。それまでは坑口へ行かないでください」
「分かった。こっちも下見に同行する。中へは入らない」
ポーラが地図板を開きかけたので、俺は手で制した。
「今日は円盤を休ませろ。地図なら明日、明るくなってから見られる」
「了解しました。現在、確認できている範囲だけ記載します」
坑道の入口に、小さな四角が書かれた。その先は空白のままだった。
測量台の箱は封を切らず、番小屋の軒下へ置いた。マルガが保管の札を結び直して帰ると、ノノが折れた杭の周りを一周した。
真鍮の耳が、左右別々に動いている。
「オルトさん。明日の下見、ノノも行くっす」
「足はどうだ」
「歩けるっす!」
返事のあとで、右の踵がほんの少し浮いた。
俺がそこを見ると、ノノは浮かせた足を地面へ戻した。
「……小石を踏んだときだけ、ちょっと引っかかるっす」
「じゃあ今夜の番で見よう」
「下見は?」
「見てから決める」
ノノはすぐには頷かなかった。折れた杭と、自分の足を交互に見ている。
俺は当番表を指した。そこには、ちゃんとノノの名前があった。
夜、ランプの下で、ノノは整備台の端へ腰を掛けた。足裏をこちらへ向けながら、両手で台の縁を握る。
「開けていいか」
「はい。お願いするっす」
足裏の真鍮板を外し、縁に噛んだ小石と固まった泥を落とす。擦れて盛り上がった端だけを薄く削り、踵の軸へ油を差して、板を元の位置へ締め直した。
床へ下ろした足は、今度は踵まで静かに着いた。
ノノは一歩進み、戻った。それから、わざと小さく首を傾げる。
「これなら、明日は先頭っすね」
「痛みや引っかかりが戻ったら言え」
「言ったら、交代っすか」
「必要ならな」
真鍮の耳が伏せられた。
俺は外した小石を受け皿へ置いた。爪ほどもない石だったが、片側だけ黒く磨かれている。
「黙って歩けば、板の裏まで削れる。そうなると帰りの方が長くかかる」
「……分かったっす」
いつもの勢いはなかった。それでもノノは、小石を捨てずに見ていた。
翌朝、北へ向かう荷車に積んだのは、イリス、ノノ、ポーラの三体分の整備道具だった。
ギルドの調査員が前を歩く。ポーラは荷台に腰掛け、必要な場所でだけ円盤を回した。坑道までの道には細かな黒い石が多く、轍の底に昨夜の雨が残っている。
分かれ道の詰所で、マルガが待っていた。
「騎士団が引き受けていた、この道の巡回依頼一件を、ギルドで取り消しました」
机の上には、同じ道を描いた二枚の報告図があった。
騎士団の図には、坑口まで一筋の線と『異常なし』の印。もう一枚には、巡回を見届けた詰所の記録がある。騎士団の一行は坂の手前で引き返していた。
「ここまでしか進んでいないのに、坑口まで確認したと報告しています。今回の比較には、その報告を安全の根拠として使わせません」
取り消しの印は、すでに乾いていた。
人形の膝が止まったなら、その場所を書くべきだった。引き返したなら、そこから先は見ていないと書けばいい。
白い紙にまっすぐ引いた線では、道は安全にならない。
「下見の結果は、相手側にも渡してくれ」
「もちろんです。中止が必要なら、勝負の都合にかかわらず止めます」
俺は頷き、詰所を出た。
坂へ入ると、ノノが走るのをやめた。
背中から測り竿を抜き、道の端へしゃがむ。狐耳の形をした真鍮が、地面すれすれまで傾いた。
「荷車、そのままっす」
イリスが車輪止めを差した。
俺たちが待つ間、ノノは右へ三歩、左へ二歩と進んだ。ときどき後ろを振り返り、自分が通った場所へ短い枝を置いていく。
坑口はまだ先だ。曲がり角の向こうに、岩壁の上端だけが見えている。
「何がある」
「轍の途中から、水がなくなってるっす」
指された先は、俺にはただの泥道に見えた。
だが手前の轍には雨水が溜まり、数歩先だけ、黒い泥が乾いたように沈んでいる。ノノが道の脇から竿を伸ばすと、先端が抵抗なく入った。
薄い泥の皮が崩れ、その下に暗い隙間が開く。
「下の土が流れてるっす。荷車を乗せたら、たぶん落ちる」
俺は思わず一歩出た。
「そこも駄目っす!」
足を止めた。
ノノは俺の爪先を見たまま、息を詰めたように口を閉じた。普段なら、何か軽口を足すところだった。
しばらくして、測り竿を横にした。
「ノノが置いた枝の内側を通って、戻ってほしいっす」
「ああ」
俺は来た足跡へ踵を戻した。
イリスは盾を道の外側へ向け、調査員が縄を張る間、誰も崩れた縁へ寄らないよう立った。ポーラの円盤が短く回り、隙間の幅を地図へ写す。
「この道幅では、測量台二台を安全に通せません」
「迂回はできるか」
「左の岩棚なら、人が歩いた跡はあるっす。でも、荷車が通れるかはまだ分からないっす」
ノノの耳が坑道の方へ向いた。
少し進めば、角の先が見える。杭の飛んできた場所も、確かめられるかもしれない。
ノノは竿を握り直した。
それから、こちらへ戻ってきた。
「今日は、ここで引き返したいっす」
声は小さかった。
「足か?」
「足は平気っす。でも、先の地面を一人で確かめながら、みんなの帰り道まで見るのは無理っす」
測り竿の先から、泥が一滴落ちた。
「入口まで行けてないっすけど」
「分かった。戻ろう」
ノノが顔を上げた。
「いいんすか」
「通れない場所が分かった。ここで荷車を止められた。それを持って帰る」
調査員も頷き、地図へ通行止めの線を入れた。
荷車を返す間、ノノは自分の置いた枝を拾わなかった。後から来る者にも見えるよう、白い布を結び足していった。
帰りはノノが最後尾を歩いた。
全員が、無事に坂を下りるまで。
昼過ぎ、調査を続けたギルドから使いが来た。
左の岩棚に沿う古い運搬路は地盤が残っており、荷車も通れる。坑口前の石敷きまでを調査員が確認したという。坑内の立入禁止は継続。観客は詰所から先へ入れず、往復試験は監視員を置いて行う。
変更した経路と中止の条件は、エリカにも同じものが渡された。
明日の比較は行われる。
折れた杭を誰が飛ばしたのかは、まだ分からない。その欄には、ポーラが『未確認』と書いた。
夕方、ノノは荷車から道具を下ろしながら、俺の袖を引いた。
「オルトさん。ノノ、明日も道を見る役をやりたいっす」
「頼む」
「また戻ろうって言うかもしれないっすよ」
「聞く」
袖をつまむ指に、少しだけ力が入った。
「じゃあ、変だと思ったらすぐ言うっす。平気なふりをする前に」
「ああ。その方が助かる」
ノノは袖を離した。荷台へ上がると、明日使う白い布を、取り出しやすい場所へ結びつけた。
俺は工具の申告を済ませた。
毛刷毛、油差し、細やすり、当て板。使い込んだ道具を一本ずつ並べ、ギルドの係員に数えてもらう。予備の材料も量を記し、箱に封を受けた。
チコが横で、布巻きの空いた場所を見ている。
「師匠。大きい交換台座は、入れないんですね」
「持っていない」
「……そうでした」
チコは真面目な顔で頷き、小さな毛刷毛の柄を揃えた。
「ぼくは明日、師匠が手を止めたところも書きます。待つ工程を、書き落とさないように」
「頼んだ」
封じた工具箱を持ち上げると、いつも通りの重さだった。
翌朝の王都広場には、二つの作業台が向かい合っていた。
エリカの背後には新品の部品箱が積まれ、白獅子の紋を付けた騎士が人垣を整理している。こちらの台を見て、誰かが油の臭いがすると言った。
俺は箱の封を立会人へ見せた。
許可を受けて蓋を開き、白い卓布の上へ道具巻きを広げる。
刷毛の柄にも、やすりの握りにも、十年分の黒ずみがあった。
俺はそれを、広場のいちばん前まで見える位置へ押し出した。
(第24話へ続く)
ノノが見ていたのは、轍に溜まった雨水が途中でふっと消えている場所でした。作中では、水が溜まらないのは下の土が流れて隙間ができ、そこから水が抜けているから、という見立てです。雨上がりに地面の濡れ方が一か所だけ違うときは、足元を疑ってみてください。お読みいただきありがとうございます。




