返事のない場所
審問院の石段を上がる前に、ロッテが右手を開いてみせた。
「今朝は、引っかかりませんわ」
「折り返しは」
ゆっくり曲げて、戻す。昨夜聞こえた擦れはない。俺は手首に触れていいか確かめ、熱も見た。
「帰ってから、もう一度見る」
「ええ。私の番に」
ロッテは手を下ろした。今日は背負い籠がない。生成りのエプロンの隠しに、薄い板で挟んだ引き取り証だけを入れている。
イリスとカサンドラが続いて石段を上がった。俺の鞄には三体分の油と留め具が入っている。重さはいつもと変わらなかったが、審問院へ来るたび、取っ手を握る指に力が入った。
廊下で王城の若い係官が待っていた。
「皆さんのお席を用意しています。発言を途中でやめても構いません」
ロッテは扉の向こうを確かめた。
「黙ったら、承知したことになりますか」
「なりません」
「それも、先に皆さんへ伝えてくださいな」
係官は頷き、俺たちより先に部屋へ入った。
長机の向こうには審問官と書記。その右手に、朱色の肩章をつけた宰相府の役人がいた。番小屋へ箱を運んできたときと同じ、革の紙挟みを持っている。
机上には黒い封じ栓が一つ、布を敷いて置かれていた。
カサンドラはそれを見たが、首元には触れなかった。椅子を自分で引き、腰を下ろす。ロッテもその隣に座った。
審問官は、今回の聞き取りでは沈黙を同意として扱わないと告げた。それから、先に届いていた裁定を読み上げた。
白獅子騎士団の定期護衛契約の更新拒否に伴い、既に受け取っていた前払い金、金貨十八枚を返還させる。
騎士団側は、人形の運用が王城預かりとなったことを理由に返還を拒んでいた。審問官はその異議も退けた。引き受けた護衛を果たせない以上、代金だけを保持することは認めない、と。
返還命令の紙が書記へ渡った。
俺が十年通った整備庫には、油を買う金を渋った月が何度もあった。その一方で、遂行できない仕事の前金は手放さない。帳簿を閉じる音を聞きながら、俺は鞄を足元へ置いた。
「では、封じ栓の配布と回収指示について伺います」
宰相府の役人が、待っていたように紙挟みを開いた。
「未管理の人形を放置すれば、事故が起きます。引き取り証のない個体を収容し、管理者を定めるまで封じ栓を装着する。必要な措置です」
「本人が拒否した場合は」
「管理下に入れば、命令に従います」
審問官の問いに、役人はそう答えた。
俺の隣で、ロッテが引き取り証を取り出した。板を外し、紙を広げる。自分で書いた二つの名をしばらく見てから、裏返した。
「私は、これを作ることができました」
柔らかい声が、部屋の端まで届いた。
「銀貨があって、筆を持てて、番人さんに話を聞いてもらえました。でも、廃棄場には、それができない子もいます」
「そうした個体こそ、保護を必要としている」
「油は必要です。雨を避ける屋根も。首を塞ぐものは、本人に聞いてからにしてください」
役人は黒い封じ栓の縁へ指を置いた。
「発声できないものから、どう承諾を得るというのです。いつまでも返答を待つのですか」
ロッテの右手が、膝の上で閉じた。
昨夜削り直した縁は引っかからない。それでも指が固く重なっていた。
「百年、返事を聞いてきました」
役人の指が止まる。
「声が出る子ばかりではありませんでした。目を開けられない子もいました。それでも、油差しを見せると、灯を一度だけ明るくする子がいました。触れようとすると、二度、灯す子も」
「それを、都合よく解釈しているのでは」
「ですから、確かめます。はいなら一度、いいえなら二度と伝えて、まず答えられるかを」
俺は、鉄屑の間に横たわっていたイリスを思い出した。
声より先に、胸の灯が答えた。あれを待たずに覆いを外していたら、俺も命令札を持つ連中と同じことをしていた。
「灯も動かない場合はどうする」
役人が問う。
ロッテはすぐには答えなかった。
自分の手を見下ろし、それから机の上の封じ栓を見た。
「分かりません」
書記の筆が止まった。
「分からないまま、そばにいた子もいます。油を差してよいかさえ確かめられず、雨除けだけを直したこともあります」
「では、何もできていない」
「できなかったことは、ありますわ」
ロッテの声は細くなった。だが、途切れなかった。
「でも、その子が承知したということにはなりません」
役人は口を閉じた。
ロッテが俺のほうへ左手を伸ばした。鞄を持とうとするときの手つきとは違った。何もないところで止まり、掌を上に向ける。
「オルトさん。手を貸してください」
「右が痛むか」
「いいえ。少し、怖くなりました。話し終えるまで、握っていてほしいんです」
俺はその手を取った。
軽く握ると、指が握り返してきた。いつも誰かの背を支え、油差しを持ち、鍋を火から下ろしている手だった。
今日は、俺の手から動かなかった。
審問官が休憩を入れるか尋ねた。ロッテは首を横に振った。
「続けます。私が話したくて来ましたから」
裏返した引き取り証を、右手で少し脇へ寄せる。
「私の回収は、王城の方が止めてくださいました。今日は、同じ紙を持てない子のところへ、あの箱が届くのを止めてほしくて来ました」
宰相府の役人が椅子を鳴らした。
「個体の好悪だけで管理を決めれば、運用は成り立たない」
「私は、止まると申し出ました」
カサンドラが口を開いた。
「公開稼働試験で。その申し出が受け入れられたあとも、私は歩けました。話せました。行き先も選べました」
灰色の瞳が、布の上の黒い輪を捉える。
「封じ栓を戻すことを、私は拒否します。私に答えられない者の代わりをさせることも、拒否します」
イリスは盾を動かさず、短く続けた。
「私も、装着を拒否します」
審問官は三人の返答を書記に読み返させた。語尾まで確かめたあと、宰相府側へ指示書の提出を命じる。
「この指示による回収と封じ栓の装着は、停止する」
「宰相閣下の決裁を受けた指示です」
「異議は、根拠を添えて提出しなさい。引き取り証がないことも、返事ができないことも、装着を承諾した証拠にはならない」
役人は紙挟みを押さえたまま動かなかった。
審問官がもう一度、提出を命じた。今度は王城の係官が机の脇へ立つ。指示書はようやく手を離れ、封じ栓とともに審問院で保管されることになった。
決定は、回収を担当する者と、収容先に指定された工房へも届けられる。ロッテはそこまで聞いて、ようやく肩を下ろした。
俺の手には、まだ彼女の指が重なっていた。
「もう、放しても大丈夫です」
「ああ」
手をほどくと、掌にエプロンの細かな糸屑がついていた。
廊下へ出てから、ロッテは窓際の長椅子に腰を下ろした。引き取り証を板へ戻そうとして、一度、手を止める。
「握る力が、強すぎませんでした?」
「工具を握る手だ。それくらいで壊れん」
「あらあら。それでは、またお願いしてしまいますわ」
「言え」
彼女は紙の角を板に合わせた。
「はい。次も、怖くなったら言います」
俺は留め紐を差し出した。ロッテは受け取り、自分で結んだ。指の動きは滑らかだった。
審問室の中では、書記が宛先を読み上げていた。止めるべき回収先を、一か所ずつ確かめている。ロッテはその声を聞きながら、しばらく座っていた。
俺も隣に腰を下ろした。
急いで立つ者はいなかった。
やがて廊下の向こうから、片足を引きずる音がした。
王城の係官に付き添われたミレス型だった。灰色の装甲服の裾が、片側だけ擦り切れている。槍は持っていない。
俺たちの前まで来ると、その人形は係官が差し出した腕を断り、壁に手をついた。
俺は立った。鞄を持ち上げるより先に、硬い指が袖の油染みをつかんだ。
「ランプ隊には、入りません」
俺は頷いた。
「それでも——私の脚を、見てもらえますか」
(第38話へ続く)
ロッテが使っているように、紙を板で挟むと、持ち歩くときの折れや角の傷みを防ぎやすくなります。柔らかな布の隠しに入れるにも、こうした支えがあると安心ですね。引き取り証をしまう場面では、紙の角を丁寧に合わせる彼女の手元にも目を留めていただければ嬉しいです。




