待つのは終わり
石板の文字を読んでも、ブランシュの指は俺を離さなかった。
陶器の指は冷たい。だが、手首へ絡む銀糸からは、巻き取り機の熱が伝わってくる。古い油と湿った石灰、それに枯れた花の匂いが礼拝堂にこもっていた。
「花婿、ここに眠る」
俺は刻まれた日付を見た。風雨に削られてはいるが、読み違える深さじゃない。
「百二年前だ。お前が待ち始めるより前に、この墓は作られている」
「違います」
濁った紫の瞳が揺れる。
「旦那様は、わたくしを迎えに来てくださいました」
「俺はオルトだ」
「いいえ」
微笑んだ唇とは逆に、指先の糸が強く張った。
頭の奥で、かち、と歯車が空転した。
柱へ結ばれた糸が一斉に鳴り、天井から石灰が降った。イリスの盾腕がさらに後ろへ引かれる。ミラたちを拘束する糸も、関節の隙間へ食い込んだ。
片足を取られたノノの真鍮の耳が、崩れかけた天井の音を拾って忙しく回っている。
「右奥の梁、さっきより軋んでるっす」
「主殿。私の腕はまだ保ちます」
「引くな。その柱が倒れれば屋根ごと落ちる」
「……了解」
百年、ブランシュが糸で支えてきた礼拝堂だ。一本でも力の逃げ道を変えれば、どこが崩れるか分からない。
糸を切れば済む話じゃない。切った先で梁が落ちれば、捕らえられている四体も、床下の墓も潰れる。ブランシュ自身も、自分が何を支えているのか分からないまま巻き込まれる。
俺は捕らえられた右手の指だけを動かし、石板を叩いた。
「ブランシュ。ここへ手を置け」
「旦那様がお望みなら」
「旦那様じゃない。お前自身で確かめろ」
返事はなかった。
それでも、俺の手首を引いていた糸がわずかに緩んだ。ブランシュは膝をつき、陶器の指で石板の埃を払った。
指が通った場所だけ、黒い石肌が現れる。
月の紋。埋葬の日付。花婿のために彫られた祈りの言葉。
そのどれもが、彼女の待ってきた百年を否定していた。だから俺は読んでやらなかった。俺の声で答えを押しつければ、命令と変わらない。
ブランシュの指先が最後の一行へ触れた瞬間、腰の巻き取り機が甲高く鳴った。
「これは……」
紫の濁りが一瞬だけ消える。灰紫の瞳が、初めて目の前の石板を見た。
「俺を見ろ。俺は誰だ」
「旦那、様……」
かち、と空転する。
ブランシュの顔から戸惑いが消え、同じ微笑が戻りかけた。百年繰り返してきた顔だった。考えなくて済むように、古い記憶が被せた顔だ。
「違う。今、お前は石板を読んだ。もう一度、自分で答えろ」
俺は糸に締められたまま待った。
ヴェスナも剣へ手をかけなかった。ミラも槍を動かさない。ノノの耳だけが軋みを追い、イリスは黙って柱を支えている。
誰も代わりに答えを与えなかった。
風が割れた窓から入り、錆びたヴェールを揺らす。石灰の粉が月明かりの中をゆっくり落ちた。
長い沈黙のあと、ブランシュの唇が震えた。
「……オルト、様」
「ああ」
「あなたは、旦那様ではありません」
右手の糸が外れた。
締めつけから解かれた血が指先へ戻り、鈍く痛んだ。赤い跡の残った手首を回し、俺はもう一度聞いた。
「俺はオルトだ。その俺に、頭の外板を開けさせるか」
ブランシュは石板に片手を置いたまま、俺を見上げた。瞳の奥では紫の濁りと本来の灰紫が、まだ交互に揺れている。
「わたくしの記憶を、確かめてください」
「開けていいんだな」
「はい。わたくしが、お願いいたします」
それで十分だった。
残った糸が俺の腕と足からほどける。工具鞄を引き寄せ、ブランシュの後ろへ回った。
錆びたヴェールを持ち上げ、クリーム色の髪を片側へ寄せる。百年分の埃の下にも、かすかに白蝋油の匂いが残っていた。首筋の金継ぎの上に、月の紋が刻まれた小さな外板がある。
留めねじを外すと、黒く固まった古油の中で七枚の記憶歯車が回っていた。一枚だけ軸受けが片減りし、七周ごとに歯を一つ飛ばしている。古油を拭い、真鍮の薄板を削って軸受けへ当て、歯先の返りを落として白蝋油を差した。
組み直して手で回す。一周、二周と噛み合わせを指へ伝わせる。七周目にも、歯は飛ばなかった。
「閉じるぞ」
「お願いいたします」
外板を戻した時、ブランシュの瞳から紫の濁りが消えた。
淡い灰紫の瞳が俺を映す。そこにいたのは、もう百年前の誰かじゃなかった。
同時に、礼拝堂中の糸が緩んだ。
宙に吊られていたミレス型四体が床へ落ちる。イリスたちの拘束も解けたが、百年支えられていた梁まで沈み始めた。
「崩れます」
ヴェスナが俺を抱えて横へ跳んだ。直後、俺のいた床を石片が叩く。
鐘楼の根元が折れ、割れた鐘が天井を突き破った。耳の奥を殴るような轟音が響く。落下する石材の真下には、まだ立ち上がれないミレス型がいた。
「左の壁際なら保つっす!」
ノノが測り竿で退路を示す。
銀糸が走った。
一本が鐘を絡め、二本が梁を引き、残る糸が四体の手足へ巻きつく。だが今度は関節を封じる形ではない。全員を床の亀裂から滑らせ、安全な壁際へ運ぶ結び方だった。
さっきまで俺たちを縛っていた糸が、今度は誰も傷つけないために張られている。
ブランシュは両腕を広げていた。
腰の巻き取り機が唸り、陶器の指に糸が食い込む。白い指の溝へ錆の粉がたまっても、それでも一歩も下がらない。
「百年も保たせた礼拝堂ですもの」
淡い灰紫の瞳が、落ちてくる鐘を見据える。
「皆様がお出になられるまでくらい、保たせてみせます」
鐘は俺たちの頭上で止まった。
イリスがミレス型を二体抱え、ミラとヴェスナが残りの二体を運ぶ。ノノが亀裂を避けて先導し、俺が最後に扉を越えた。
振り返ると、ブランシュはまだ祭壇の前にいた。
「ブランシュ!」
「はい。今、参ります」
彼女は自分の足で敷居を越え、それから指を一度ずつ閉じた。
糸が順番に外れる。
鐘楼が礼拝堂の内側へ崩れ落ちた。石と木の音が丘を揺らし、土煙が空を覆う。
百年守られた式場は、誰も巻き込まずに役目を終えた。
土煙が薄くなってから、ブランシュは墓の前へ戻った。
「思い出しました」
彼女は石板の欠けた縁を撫でた。陶器の指が震えていたが、もう糸は伸びなかった。
「式の三日前、あの方は亡くなりました。わたくしは葬送の鐘を聞き、この場所に埋葬されるところも見ていました」
「それでも待ったのか」
「待っていれば、式の日へ戻れると思ったのです」
責める声ではなかった。ただ、百年分の事実を一つずつ拾い直す声だった。
記憶機構が一つの場面を繰り返すうち、葬送の記憶だけが歯車の外へ押し出された。残ったのは、油の匂いを落として迎えに来るという約束だけだった。
壊れたのは約束じゃない。約束が果たされなかった日を受け止めるための噛み合わせだ。
「もう一度眠ることもできる」
俺は工具鞄を閉じた。
「ここを離れることもできる。俺が決めることじゃない」
ブランシュはしばらく墓の前に立っていた。
夜の風がヴェールを持ち上げる。そのたび、彼女の視線は墓と丘の下の道を往復した。待ち続けた場所と、まだ歩いたことのない道だ。
やがて胸元の白磁装甲を開く。内側にあった登録板は、百年を経ても空欄だった。汚れも傷もなく、その場所だけが式の日のまま残っている。
「この板には、式の日にあの方のお名前を刻むはずでした」
陶器の指が登録板をなぞる。
「ですが、過ぎた日を待ち続けるために、もう百年を使いました」
ブランシュは墓から手を離し、俺へ向き直った。
「オルト様。わたくしは、あなたをあの方の代わりにはいたしません」
「ああ」
「あなたを、あなたとして選びます。わたくしもランプ隊へ同行させてください」
「決めたのか」
「はい。待つのは終わりにします」
銀糸の一本が細い針の形へ固まり、登録板を走った。
オルト。
一画ごとに、彼女自身の手が刻んだ。俺は手を出さなかった。
刻み終えたブランシュは胸元を閉じ、もう誰もいない礼拝堂へ一礼した。
「行ってまいります」
別れではなく、先へ進む者の声だった。
返事の代わりに、夜の風が錆びたヴェールを揺らした。
解放されたミレス型四体は、丘の下で届いた帰投命令に従い、王都へ戻っていった。ミラは長槍を握ったまま、その背を見送った。
だが、呼び止めなかった。
封じ栓を外すかと問える状況ではない。選べない相手を、こちらの都合で連れていくこともできない。四体の灰色の背は一度も振り返らず、同じ歩幅で街道の向こうへ消えた。
二日後、王都公報の騎士団欄が更新された。
礼拝堂調査の失敗と四体の一時停止が加算され、稼働率は五十パーセントから四十二パーセントへ下がっていた。
俺たちは何も妨害していない。彼らが人形だけを送り、人間の騎士を丘の下に残した。その結果が数字になっただけだ。
ブランシュは廃棄場の整備台で、錆びた糸を一本ずつ巻き直し始めた。
糸を布で挟み、錆の色を確かめ、引っかかる箇所では手を止める。全部を終えるには何日もかかる。それでも彼女は急かさず、工程を飛ばさなかった。
「まだ先は長いぞ」
「はい。ですが、もう待っているのではありません」
ブランシュは巻き直した一本を朝日に透かした。
「わたくしは今、進んでおります」
その日、彼女は一度も空の道を振り返らなかった。
夕方、北街道から太鼓の音が近づいてきた。
葡萄酒色の天幕を積み、銀の秤の旗を掲げた七台の馬車が、廃棄場の門を半円に囲んだ。
(第19話へ続く)
今回出てきた軸受けは、回る軸を支える部品です。作中では、歯車の歯が残っていても、軸受けが片側だけ摩耗すると噛み合わせがずれ、同じ記憶を繰り返す原因になります。オルトが歯だけでなく、その回り方まで確かめているところにも目を留めていただければ嬉しいです。




