旦那様ではない
手首に巻きついた糸は、細いくせに切れなかった。
錆色に染まった表面の下に、銀が覗いている。人形用の拘束糸だ。引かれるまま半歩進むと緩み、足を止めると締まった。
痛みを与える締め方ではない。俺をどこかへ連れていこうとしている。
「オルトさん、切りましょうか」
ヴェスナが双剣へ手をかける。赤い瞳が糸の走る先を追った。
「待て。糸の張りにむらがある」
俺は指先で糸を弾いた。
高い音のあとに、かすかな震えが返ってくる。引き寄せるためだけじゃない。向こう側で何かが、同じ間隔で巻き取りを失敗している。
古い油の匂いも染みついていた。雨や泥に晒されながら、長い間、同じ機構で使われ続けた糸だ。
「助けを呼んでいるんすか?」
「本人がそう思っているかは分からん」
故障した人形が助けを求めるとは限らない。仕事を続けているだけのつもりで、周囲まで巻き込むこともある。
番小屋から出てきたイリスが、白磁の盾を持ち上げた。
「主殿。同行します」
「ルクスは残れ。今夜は胸の結晶を冷やす」
「うん。マスターが帰ってきたら、光ってなくてもちゃんと迎えるね」
少し残念そうに胸の結晶を両手で覆い、それでもルクスは笑った。過熱したまま動かせば、せっかく磨いたレンズ膜がまた焼ける。休ませるのも整備の一部だ。
ロッテにルクスを任せ、荷車には四体分の油と工具を積んだ。
連れていくのはイリス、ノノ、ヴェスナ、ミラだ。それ以上を連れていっても、現地で全員を手入れできない。
ミラは北の丘を見上げ、肩のM-07へ触れた。番号のそばで、本人が選んだ琥珀の髪留めが揺れる。
「同型機の信号が、あの方角から四つ届いている」
「騎士団のミレス型か」
「救援命令は受けていない」
そこで一度言葉を切り、ミラは俺を見た。
「だが、私が行きたい。あれらが命令以外の言葉を持つか、確かめたい」
以前のミラなら、命令がないというだけで止まっていただろう。今は、自分の意思で行き先を選び、その理由を俺へ伝えた。
「なら来い」
「了解した。私が選んだ」
わずかに上がった口角を見て、俺は荷車の持ち手を握った。
北門の衛兵から、丘へ上がった騎士団の記録を聞いた。
夕方、白獅子騎士団はミレス型四体だけを礼拝堂の調査へ出した。四体すべてが一刻以内に通信を失い、帰還数はゼロ。
今回の任務稼働率は、0パーセント。
人間の騎士は丘の下から一人も上がっていなかった。
「明るくなってから交換部品を持っていくそうだ」
衛兵が吐き捨てるように言った。
壊れた部品が何かも、現物の状態も確かめず、朝まで放置する。整備とは呼べない。
「捕まった人形ごと交換するつもりか」
返事の代わりに、手首の糸が強く引かれた。
丘の道には白い糸が何本も這っていた。
月を映すたび、濡れた蜘蛛の巣のように光る。風は冷たかったが、糸の表面だけは巻き取り機の摩擦熱でぬるかった。
ノノが地面すれすれまで身を屈め、真鍮の耳を回す。
「足跡は四体分っす。登りは揃ってる。でも、下りは一つもないっす!」
糸は落ち葉の下にも、折れた枝にも通されていた。罠なら踏ませる位置だが、どれも俺たちの足を避けるように張られている。
代わりに、道から外れようとするたび手首の糸が締まった。引く力は一定なのに、急かされているように感じる。
「旦那様を、まっすぐ案内したいのでしょう」
女の声がした。
丘の上だ。
崩れた礼拝堂には屋根が半分なかった。欠けた鐘楼を、月明かりが青白く照らしている。窓には硝子が一枚も残っていない。それでも破れた幕は左右へ寄せられ、入口までの落ち葉も細い筋状に片づけられていた。
誰かを迎える準備だけが、今も続いている。
正面扉を押す前に、俺は足を止めた。
扉の向こうから聞こえる。
きり、きり、と糸を巻く音。
その七回に一度だけ、かち、と歯が空転する音が混じっていた。
「記憶機構か」
「オルトさん?」
「頭の中の歯車がずれている。まだ開けて見たわけじゃない。音だけだ」
断定はできない。だが、空転の直後だけ、糸の張りがわずかに緩む。同じ記憶を呼び出すたび、同じ歯が噛み損ねている。
俺が扉へ触れると、糸が内側から引いた。
蝶番の錆が剥がれ、礼拝堂が開く。
ミレス型四体が、宙に吊られていた。
槍も盾も銀糸で壁に縫い止められている。四体とも動力核は消えていない。だが、膝と肘を一本ずつ別方向へ引かれ、力を入れるほど関節が動かなくなる形だった。
「帰投命令を受信。帰投命令を受信」
一体が同じ言葉を繰り返す。
壊されてはいない。
動けないよう、正確に止められている。傷つけるためではなく、この場所から帰さないために。
ミラの指が長槍の柄を強く握った。同じ顔、同じ装甲、同じ番号刻印を持つ四体が、命令だけを繰り返している。
「同型機を解放する」
ミラが一歩踏み出した。
床に落ちていた糸が跳ねた。
「伏せろ!」
イリスの盾が俺の前へ入る。糸は盾に当たる直前で四つに分かれ、縁を回り込んだ。
ミラの槍、ヴェスナの手首、ノノの足首へ絡みつく。残る一本はイリスの盾腕に巻きつき、柱へ固定した。
一息で、四体の動きが止められた。
ノノは片足を上げた姿勢のまま、ヴェスナは剣を半分抜いた姿勢のまま動けない。イリスが盾を傾ければ、その力だけがミラの槍を締め上げる。
細い糸だった。だが、関節の動く向きを読んでいる。力で引きちぎろうとすれば、自分か仲間の関節を先に傷める。
「四体を同時に……」
ミラが吊られた同型機から目を離さず呟いた。
「命令だけではできない。相手を見て、選んでいる」
礼拝堂の奥で、長いヴェールが揺れた。
白に近いクリーム色の髪。裾の長い花嫁衣装は泥と古油に汚れ、白磁の胸当てには金継ぎが走っている。
腰の両脇にある巻き取り機から、無数の糸が伸びていた。
糸は俺たちを捕らえているだけではない。
崩れかけた梁を吊り、割れた鐘を支え、倒れた長椅子まで元の位置へ結び止めていた。風が吹くたび梁は沈み、糸が鳴り、巻き取り機がそれを元の高さへ戻す。
この人形は百年、壊れ続ける礼拝堂を糸だけで繋ぎ止めてきたのだ。
誰も来ない式場を、今日にも客が訪れるかのように。
濁った紫の瞳が、俺を映す。
「お待ちしておりました、旦那様」
「人違いだ。俺はオルト・グレンだ」
「また、そのような冗談を」
女はヴェールを持ち上げた。
陶器の指が震えている。その震えに合わせ、礼拝堂中の糸が軋んだ。
「式の日には、油の匂いを落としてきてくださるお約束でしたのに」
俺の服に染みついた機械油を嗅いで、過去の誰かと重ねているらしい。
「約束した覚えはない」
「いいえ。わたくしは覚えております」
きり、きり、きり。
七度目。
かち、と頭の奥で歯車が空転した。
女の瞳から一瞬だけ紫の濁りが消える。そこに戸惑いが浮かび、俺の顔を初めて見るもののように見つめた。だが、次の瞬間には同じ言葉へ戻った。
「お待ちしておりました、旦那様」
記憶が一つの場所で輪になっている。
「頭部の外板を開ければ、噛み合っていない歯車を確認できる」
俺は工具鞄へ手を伸ばさずに聞いた。
「開けていいか」
「ええ。旦那様になら、すべてお任せいたします」
「駄目だ」
女の指が止まった。糸の音も一斉に止み、風が礼拝堂を抜ける音だけが残る。
「……なぜですの?」
「お前は俺を別人だと思って許可した。俺は旦那様じゃない」
工具鞄を床へ置く。
「俺がオルトだと分かった上で、もう一度答えろ。それまでは開けない」
「旦那様は、わたくしを置いていったりなさいません」
「俺は置いていった男じゃない」
紫の光が強くなる。
天井から糸が降り、俺の両腕を左右へ引いた。工具鞄が遠ざけられ、足首まで床へ縫い止められる。
「主殿!」
イリスが盾腕を引く。柱にひびが入ったが、俺へ向かう糸は緩まない。
「無理に切るな! 捕まった四体の関節まで引かれる!」
すべての糸が、腰の巻き取り機で繋がっている。一本への力が別の一本へ逃げる。百年の摩耗がありながら、噛み合わせだけは恐ろしく精密だった。
ヴェスナが双剣を止めた。
「切断対象を選別できません」
「選別しなくていい。まだ話せる」
女がゆっくり近づいてくる。
錆びたヴェールの向こうで、陶器の唇が動いた。
「わたくしはブランシュ。あなたを百年、お待ちしていた花嫁です」
初めて聞く名だった。
ブランシュが俺の手を取り、祭壇へ向ける。冷たい陶器の指には、幾重もの糸が食い込み、銀色の溝を残していた。
その動きで長椅子がずれ、床を覆っていた埃が払われた。
石板が現れた。
月の紋と、古いリュネ工房の文字。その下には、王暦の日付と一行だけが刻まれている。
花婿、ここに眠る。
日付は、百二年前だった。
ブランシュが待ち続ける旦那様は、この礼拝堂の床下ですでに死んでいた。
(第18話へ続く)
ブランシュの胸当てに出てきた金継ぎは、漆で割れた器などをつなぎ、継ぎ目を金粉などで飾る技法です。割れた跡そのものが模様になるので、器ごとに違う線が残ります。胸当ての白磁にも、傷を繕った跡がひとつの表情として見えていたら嬉しいです。




