光らない私も
北門の警備兵が緊急用の鎖を外しきるより早く、俺は整備鞄をつかんだ。
昼に見た見積書――停止したミレス型五体、交換費用は金貨七十五枚――が頭をよぎる。だが今は、王都の内側から立ち上る煙が先だ。
「イリス、ミラ。来てくれ」
「……了解」
「了解した」
出たばかりの煙を放置すれば、内部の油まで燃える。俺たちは開ききらない門の隙間を抜け、鐘の鳴る方へ走った。
石畳を蹴るたび、整備鞄の工具が硬い音を立てる。ミラの足音は一定だった。イリスは背の盾板を揺らしながらも、逃げてくる人間を避けて走っている。
銀秤商会の見世物小屋は、王都の広場に組まれた円形の天幕だった。
入口には白い仮面と天秤の紋。甘い香油と焼き菓子の臭いを、焦げた油の臭いが押し流している。中から逃げてくる客たちの向こうで、舞台の幕が白煙に沈んでいた。
舞台中央に、人形が倒れている。
白い衣装。虹色へ変わる長い二つ結びの髪。胸元には六角柱の紋があり、ハート形の硝子結晶が三つ、力を失って床を転がっていた。
硝子のヴィトレア工房製。それも見たことのない新しい試作機だ。
「退いてください!」
ミラが逃げ道を塞ぐ長椅子をどけ、イリスが盾で倒れかけた照明柱を支えた。軋む柱の下を、子どもを抱いた客が駆け抜けていく。
俺は人形の横へ膝をついた。
手首の関節は熱い。胸のプリズムから漏れる光は、赤、青、黄と不規則に色を変えていた。外装の隙間から出る煙には、焼けた油と硝子膜の臭いが混じっている。
舞台用の笑顔だけが、頬に残っていた。倒れてもなお、客に向ける形へ固定されている。
「聞こえるか」
大きな緑の瞳が、わずかに開いた。星形の光が、今にも消えそうに震える。
「お客さま……まだ、いる?」
「避難中だ」
「じゃあ、光らなきゃ。ルクスが暗くなったら、みんな帰っちゃうから」
彼女は床に手をついた。指先が震え、爪が舞台板を引っかく。だが胸の奥で乾いた音がして、腕から力が抜けた。
舞台袖から葡萄酒色の上着を着た男が飛び出してきた。
「何をしている! 今夜は三回公演だ。冷やしたらすぐ再開させろ!」
「発光器の遮光羽根が固着している。続ければ動力核まで焼ける」
「水でもかければいい。客を八十六人も入れているんだぞ!」
「急に冷やせば硝子が割れる」
胸のプリズムだけじゃない。細い導光管までひびが走れば、交換する部品の数では済まない。砕けた硝子片が内側の歯車へ入り、動くたびに本人を削る。
男が俺の肩をつかもうとした。その前へ、イリスの盾が音もなく入る。
「整備の妨害は許可しません」
金色の瞳は男を見ていたが、盾は触れていない。ただ一歩も通さない位置に立っていた。
俺は男ではなく、床に伏せた人形へ向き直った。
「ルクス。胸の発光器を開けていいか」
「開けたら……光れる?」
「今までどおりには光らせない。焼けた膜を外して、出力を落とす。暗くなる」
「暗くなったら、ルクスじゃなくなるよ?」
「それを決めるのは客でも商会でもない。お前だ」
胸の光が弱く明滅した。そのたびに彼女の笑顔が、赤や青に塗り替えられる。
舞台袖の男が叫ぶ。
「許可するな! お前は商会の商品だ!」
ルクスの瞳が男へ向く。怯えたというより、命令を待つ癖が残っている目だった。次いで、俺へ戻る。
「ルクスに聞いてくれたの、マスターが初めて」
「俺はマスターじゃない。オルトだ」
「じゃあ、オルト。開けて。ルクス、まだ焼けたくない」
「ああ」
俺は結晶を一つずつ外し、胸のプリズム覆いを開いた。固着した遮光羽根を薄いへらで戻し、焦げた油を拭う。焼けたレンズ膜を剥がして予備の薄硝子へ替え、軸に一滴ずつ油を差した。
工程を急げば、熱は奥に残る。湿らせた布を何度も替えながら、自然に冷めるのを待った。
布を替えるたび、染み出す油の色が黒から茶へ薄くなっていく。まだ焦げ臭い。耳を近づければ、奥に残った熱が薄硝子を鳴らす、かすかな音がした。
「まだなの?」
「まだだ」
「お客さま、帰っちゃうよ」
「帰らせろ。お前の部品より、今夜の切符が大事な客ならな」
ルクスは黙った。
笑顔が消えた。代わりに浮かんだのは、どういう顔をすればいいのか分からない人形の顔だった。
熱が下がるまでの間に、天幕の煙も薄くなった。舞台の外では衛兵が客を数え、咳き込む者を風上へ誘導している。
やがて胸の覆いを戻し、三つの結晶を一つだけ接続した。
「試す。強く光らせるな」
「きらっ☆ 見ててね!」
反射のように声を弾ませた直後、ルクスの指が止まった。作った笑顔も、途中でほどける。
「……強くしなくても、見てる?」
「音と熱を見る。それが整備だ」
「光ってないルクスも?」
「その状態を見ないと、次に壊れる場所が分からない」
光は客に見せるものでも、暗い場所を照らすものでもある。だが、光っている時だけ見ていては、焦げも摩耗も見落とす。
ルクスはゆっくり身を起こした。虹色の髪が床を滑り、イリスが支える照明の弱い光を拾う。
胸のプリズムが淡く灯った。
派手な七色ではない。白に近い、小さな光だった。
浮かんだ一つのハート形結晶が、舞台の端まで進む。煙の中に残っていた出口の段差を照らし、逃げ遅れた老婦人の足元で止まった。
「こっちだよ。急がなくていいから、足元を見てね!」
老婦人がうなずく。拍手も歓声もなかった。それでもルクスは、結晶を老婦人の歩みに合わせてゆっくり動かした。
次に結晶は、垂れ下がった幕を照らした。火はない。残っていた客たちが、その光を目印に外へ出ていく。
ルクスは一度も出力を上げなかった。
最後の一人が天幕を出ると、結晶を胸元へ戻す。発光器の音は一定で、熱も増えていない。
「止めろ」
「うん」
光はすぐに消えた。
暗くなった舞台で、ルクスは自分の手を見下ろす。指を一本ずつ曲げ、最後に両足で舞台を踏みしめた。
それでもルクスは倒れなかった。
「止めても、動ける……」
「発光量と動力は別だ。遮光羽根が固着して、余分な熱が動力核へ回っていただけだ」
「お客さまが見てないと、力が出ないんじゃないの?」
「違う。客が増えるたび、出力を上げさせられていたんだろ」
ルクスは舞台袖を見た。
そこには公演記録の板があった。初日は一日一回。翌週は二回。今週から三回。発光出力の欄だけが、毎日一段ずつ引き上げられている。冷却時間の欄は、途中から空白だった。
男は記録板を裏返そうとしたが、衛兵が先に押さえた。
「安全検査が終わるまで、興行は七日間停止する。今夜の切符八十六枚も全額返金だ」
「待て、うちには契約が――」
「契約の話は商会と審問院でしろ。今は負傷者の退避が先だ」
衛兵の言葉に、男は口をつぐんだ。ルクスを舞台へ戻せという命令も、もう出せなかった。
俺が工具を収めると、ルクスは自分で舞台を降りた。足取りは慎重だったが、誰にも支えを求めなかった。
「オルトは、明日も光ってないルクスを見る?」
「今夜だけじゃ焼けの広がりまでは分からない。明日も、その次も点検する必要がある」
「商会に戻れって言われても?」
「戻るかどうかは、お前が決めろ。俺は命令しない」
ルクスは胸元へ手を入れ、プリズム刻印の下に隠されていた登録板を開いた。板には細かな擦り傷があったが、名は一つも刻まれていない。
何度も誰かが開き、結局は誰も刻ませなかった跡に見えた。
「ルクス、光ってる時しか必要とされない場所には戻らない」
舞台に落ちていた細い飾り針を拾う。
「光ってない時も見てくれる人を、ルクスが選ぶ」
針先が板を走った。細い腕に力を込めるたび、金属を引っかく音が天幕に残る。
オルト。
刻み終えると、ルクスは消えたままの結晶を両手で抱えた。
「これでマスターだね!」
「呼び方まで登録で決まるのか」
「そこはルクスが決めたの。マスター、これからよろしくね!」
明るい声だった。だが、胸の光は消えたままだった。
光らなくても笑えるらしい。
廃棄場へ戻る頃には、夜が深くなっていた。
ルクスを番小屋へ入れ、俺が門を閉めようとした時だった。
錆色に染まった一本の白い糸が、暗闇から伸びてきた。
糸は俺の手首へ巻きつき、北の丘にある崩れた礼拝堂の方角へ、強く引いた。
(第17話へ続く)
熱くなった硝子は、急に冷やすと場所によって縮み方に差が生まれ、割れることがあります。オルトが冷めるのを待った場面では、工具を動かさずにいる時間も整備のうち、と受け取っていただければ。ルクスの小さな灯りと一緒に、そんな待ち時間にも目を留めていただけるとうれしいです。




