私が選んだ
六本の槍先が、M-07の胸と膝へ向いていた。
夜の街道に、油と湿った土の匂いが沈んでいる。穂先だけが冷たい光を拾い、寸分違わぬ高さで並んでいた。
狙いは動力核ではない。傷つけずに転ばせ、連れ戻すための角度だ。
壊さないためではない。使える状態で回収するためだ。
カサンドラが掲げた指揮杖をわずかに傾けた。
「M-07。最終通告。隊列へ復帰せよ」
「……」
「命令は絶対である」
M-07の右膝から、黒い摩耗粉が落ちた。
風に散らず、石畳へ細い筋を引く。焦げた油が混じっている。軸の片側へ荷重が偏り、もう限界に近い色だった。
逃げ切れる脚じゃない。それでも彼女は俺の前から動かなかった。長槍の石突きを地面につけ、穂先を低く構える。
攻撃の構えではない。
ここを通さないという構えだった。
六体の顔は同じだった。切り揃えた灰色の髪も、鋼青に光るバイザーも、肩に刻まれた番号以外は見分けがつかない。
M-07も、少し前まではその列の一部だった。
「M-07」
俺は背中へ声をかけた。
「俺を守る命令は出していない」
「承知している」
「なら、どうしてそこに立つ」
返事の代わりに、彼女の槍を握る指へ力が入った。
木でも肉でもない指の関節が、かすかに鳴る。命令では説明できない動きを、本人もまだ言葉にできないらしい。
カサンドラの指揮杖が下がる。
「拘束。動力核への損傷を避けよ」
六体が同時に踏み込んだ。
石畳を打つ足音まで一つに重なった。乱れがない。だから、次に来る場所も一つしかない。
M-07は迎え撃たなかった。
最初の槍先を槍の柄で払い、二本目へ重ねる。三本目から六本目までが、同じ間隔、同じ高さで続いた。
彼女はその間隔を知っていた。
同じ型。同じ訓練。同じ号令で動いてきたからだ。
長槍を半回転させると、六本の槍先が外へ流れ、互いの柄が噛み合った。M-07は右膝を地面につきながら、槍の柄を斜めに押し上げる。
金属の擦れる音が一つ長く響いた。
槍を握った六体が、互いの柄に動きを塞がれた。
一体も倒していない。一体にも傷をつけていない。
それでも、揃いすぎた隊列は一歩も進めなかった。
M-07が知っていたのは、隊列の強さだけじゃない。その強さが、どこで身動きを失うかまで知っていた。
「離脱せよ」
カサンドラの号令で、六本の槍が一斉に引かれる。
M-07は槍を支えに立とうとした。右膝が甲高く鳴り、身体が傾く。
俺は腕を伸ばしかけ、止めた。
守ったからといって、身体へ勝手に触れていいことにはならない。
「つかまっていいか」
「許可する」
灰色の腕を肩へ回させる。重かった。鎧のせいだけではない。動かない右脚の分まで、左脚と俺の肩で支えなければならなかった。
一歩ごとに右の爪先が石を擦った。金属音の間へ、膝の乾いた軋みが混じる。急げば軸がさらに削れる。俺は彼女の歩幅に合わせた。
廃棄場の門まで、十歩ほどだ。
イリスが内側から門を開いた。
「主殿。こちらへ」
俺たちが門を越えると、イリスは大盾を立てた。だが門は閉めない。M-07が戻る道まで勝手に塞がないためだ。
開いた門から夜の冷気が流れ込み、整備台の布を揺らした。出ていく道も、残る場所も、どちらも見える。
カサンドラは街道の中央で止まった。
「敵整備士。騎士団所属機への干渉を禁ずる」
「決めるのは俺じゃない」
俺はM-07を整備台の横へ座らせた。
彼女の首には、黒い輪が嵌まっている。新型が命令を受けるたび、わずかに締まり、登録板へ続く機構を塞ぐ封じ栓だ。
表面には、締めつけられた回数だけ薄い擦過痕が重なっていた。命令を受けるたびについた傷なら、数える気にはなれない。
昨夜、胸元へ触れていた指が、今度は首の輪へ伸びた。
「M-07。封じ栓を外すなら、右手を開け。外さないなら握れ。どちらを選んでも、俺は従う」
灰色の手が持ち上がった。
指先は震えていた。
一度、固く握られる。
命令を復唱してきた手。槍を持つ角度まで決められていた手。
その五本の指が、一本ずつ開いた。
最後の小指が伸びるまで、誰も声を出さなかった。
「当機は、封じ栓の除去を希望する」
街道の向こうで、カサンドラの鋼青の瞳が強く光った。
「選択権限は設定されていない」
「今、選択した」
M-07は開いた手を下ろさなかった。
「オルト。当機に問えと要求した。これは、その回答である」
「分かった」
俺は工具を取った。
「開けていいか」
「許可する」
黒い輪の継ぎ目へ細いヘラを入れ、固着した塗膜を少しずつ剥がす。三つの止め爪を順番に戻し、首の軸を傷つけないよう輪を四分の一ずつ回した。
最後の爪が外れるまで、M-07は一度も動かなかった。
黒い輪が整備布の上へ落ちる。
小さな音だった。だが六本の槍が噛み合ったときより、はっきり耳に残った。
鋼青のバイザーが明滅し、光を失った。M-07が自分の手でそれを持ち上げる。
その下にあった瞳は、薄い灰色だった。
昨夜も見た色なのに、ずっと塞がれていただけの色に見えた。
「M-07。帰投せよ」
カサンドラが命じる。
彼女の首から黒い輪は消えている。
命令は届いていた。意味も理解している。
それでも、M-07は立たなかった。
「帰投を拒否する」
「命令違反を記録する」
「記録を受理する。だが、従わない」
初めて、復唱ではない言葉が続いた。
声の調子は変わらない。それでも一語ごとに、借り物ではない重さがあった。
カサンドラの指揮杖が石畳を叩く。六体は槍を揃え直したが、もう踏み込んではこなかった。
「王都工房および騎士団へ報告する。M-07は不正に改造された」
「違う」
灰色の人形は、自分で外したバイザーを整備台へ置いた。
「本機が選んだ」
カサンドラは反論せず、全機へ反転を命じた。
足音が遠ざかってからも、M-07は街道を見ていた。同じ顔をした六体の背が、北門の暗がりへ消えていくまで。
「追わなくていいのか」
「追わない。あの個体たちは、まだ選んでいない」
敵とも仲間とも呼ばなかった。選んでいない者の答えを、代わりに決めもしなかった。
その言葉を聞いて、俺は整備鞄から膝用の道具を出した。
「次は右膝だ。開けていいか」
彼女は傷んだ膝を見下ろした。
「これは、もう騎士団の膝ではないのか」
「お前の膝だ」
薄い灰色の瞳が俺へ向く。
「では、私の意思で頼む。開けてほしい」
一人称が変わっていた。
膝を開くと、割り栓が抜けた軸は片側だけ深く削れ、焦げた油が溝を塞いでいた。黒い粉を洗い落とし、傷の浅い面へ荷重が移るよう軸受けを削り直す。真鍮板から薄い受け輪を切り出して噛み合わせ、油を引いた。
削りすぎれば戻せない。少し削っては組み、膝を曲げ、熱と音を確かめてまた開く。チコは隣で手順書を追い、必要な工具だけを黙って差し出した。
夜が明ける頃、右膝はまっすぐ伸びた。
彼女は整備台から降り、一歩、二歩と歩く。七歩目で止まり、振り返った。
「歩行に異常なし」
右脚が石畳を踏む音は、左と同じ高さになっていた。
「名前はどうする」
「番号では駄目なのか」
「駄目じゃない。残したいなら残せばいい。だが、別の名を選ぶこともできる」
チコが、琥珀色の灯のエンブレムと小さな髪留めを整備台へ並べた。口は挟まず、選べる位置へ置くだけだった。
M-07は肩の番号に触れた。
「これは消さない。M-07だった記録は、私のものだから」
捨てられる過去でも、奪われる過去でもない。彼女が残すと決めた記録だった。
次に、灯の印へ触れる。
「ミレス型の『ミ』。ランプ隊の『ラ』」
灰色の指が、琥珀の髪留めを取った。
「ミラ。私は、その名を選ぶ」
チコが差し出した鏡を見ながら、ミラは自分で髪留めをつけた。少し右へ傾いたが、直してくれとは言わなかった。
鏡の中の自分を確かめるように、薄い灰色の瞳が二度瞬いた。
それから鎖骨の下の登録板を開く。
封じ栓に塞がれていた板は、傷一つなく空白だった。
「登録先も選べる」
「すでに決めた」
刻印針が板を走る。
オルト。
最後の一画を刻み終え、ミラは登録板を閉じた。
「私はミラ。オルトを主として登録し、ランプ隊への加入を希望する」
「本当に俺でいいのか」
「私が選んだ」
短い返事だった。だが今度は、指先に震えがなかった。
その日の昼、歩行確認を兼ねてギルドへ行った。
公報には北街道の投入記録が追記されていた。
ミレス型十二体を投入。五体が関節故障で停止。一体が離隊。継続稼働六体。
現地稼働率、五十パーセント。
「前回の五十八パーセントから、さらに下がったわ」
マルガが新しい数字を指した。
数字は言い訳をしない。十二体を並べても、動き続けられるのは半分だけだった。
ミラは公報の前で、自分の肩に残したM-07の刻印へ触れた。
「離隊一体、という記録は正しい」
「気にするか」
「訂正は求めない。離れたのは事実だから」
そして琥珀の髪留めへ触れる。
「ただし、拾われたのではない。私が選んだ」
廃棄場へ戻ると、門前に見慣れない白い作業台が組まれていた。
王都工房の塔紋が、その正面に打ちつけられている。
新しい木材と塗料の匂いが、古油の染みた廃棄場には不自然なほど強かった。
作業員が最後の脚を固定し、俺へ告げた。
「明朝、王都工房の整備士が来る。M-07の膝を、ここで検査するそうだ」
(第15話へ続く)
作中の黒い摩耗粉は、削れた金属の微粉に焦げた油が混じったものです。オルトは粉の色だけでなく、膝の熱と軋む音も合わせ、軸の片側へ荷重が偏ったと見抜いています。粉を拭うだけでは足りず、受け輪で噛み合わせを整えるのが今回の要でした。お読みいただきありがとうございます。




