拾われるか、確認したかった
槍の石突きが鳴った方へ、俺はランプを向けた。
北門へ続く道には、灰色の影も残っていない。
夜露を吸った土の上に、細い足跡だけが続いていた。門の灯りが届かなくなる辺りで、それも街道の轍に紛れている。
「追うっすか?」
ノノが地面へしゃがみ込む。真鍮の耳が、夜気を探るように回った。
「いや。追えば逃げる」
俺は門の下に置かれていた割り栓を、布で包んだ。
砂に混じった黒い粉は、やはり膝軸が削れたものだ。指先で擦れば、鉄粉に焼けた油が絡み、ざらついた筋を引く。抜け落ちたのなら、栓の片側は曲がる。だが、これは真っ直ぐだった。
誰かが工具で挟み、意図して抜いた。
「M-07は、これを届けるために来た」
「では、なぜ姿を見せない」
背後でヴェスナが放熱翼を閉じた。金属板の重なる澄んだ音に、右の二枚だけがかすかな遅れを残す。
「見つけてほしいのか、見つけてほしくないのか、まだ自分でも決められないんだろう」
「非効率である」
「選ぶ途中は、そんなものだ」
ヴェスナは返事をしなかった。
ただ、俺の手の中の割り栓を見ていた。命令なら一瞬で処理できる人形にとって、答えの決まっていない問いは、故障より扱いにくいのかもしれない。
翌朝、俺は約束どおり、ヴェスナの右の放熱翼を見た。
朝日を受けた六枚の翼には、薄い金色が走っていた。外から見れば傷一つない。だが、開閉するたび、右側だけ乾いた擦過音が混じる。
「開けていいか」
「許可する」
留め具を外し、二枚を軸から抜く。内側に溜まった黒鉛粉を刷毛で払い、わずかに曲がった薄板の縁を木槌で戻した。軸へ耐熱油を一滴ずつ差し、左右の閉じる速さを揃える。
急げば薄板を割る。油を増やせば埃を噛む。目立たない曲がりほど、決められた順で確かめるしかない。
翼は六枚とも、同時に重なった。
「遅延なし。良好」
ヴェスナは二度開閉してから、俺の手元を見た。音の濁りは消え、風だけが頬を撫でた。
「主は、当機が求める前から異常を認識していたか」
「音は聞こえていた。だが、開けるかどうかはお前が決める」
「故障が悪化するとしても?」
「説明はする。それでも決めるのはお前だ」
ヴェスナの赤い瞳が、作業台の端に置いた灰色の割り栓へ向いた。
「M-07にも、同じ問いをするのか」
「ああ」
「回答を拒否した場合は」
「開けない」
「整備を行えば、稼働状態を改善できる場合でもか」
「勝手に開けた時点で、そいつのための整備じゃなくなる」
俺の言葉の後に、壁時計の振り子だけが音を刻んだ。
しばらくして、ヴェスナは閉じた翼を背へ収めた。
「理解した。当機は、その回答を支持する」
短い言葉だった。
だが、命令の正しさだけを基準にしていたヴェスナが、俺の判断を自分で支持すると言った。それは登録とは別の、小さな一歩だった。
「そうか」
俺に返せたのも、それだけだった。
昼前、白蝋油を買い足しに城下へ出た。
ギルド前の記録板には、昨日の緊急依頼の続報が貼られている。紙の前には職人や荷運び人が集まり、記された数字を指で追っていた。
白獅子騎士団が投入したミレス型十二体。そのうち、工房へ返送された機体は五体。
残ったのは七体だった。
「最初の任務だけで五体よ」
受付のマルガが、控えを綴じながら言った。
「騎士団は故障ではなく初期調整だって届け出たけど、返送用の荷車が五台も並べば、言い換えても同じね」
十二体のうち五体。返送率は四割を超える。塗りたての紋章も、揃いの槍も、その数字までは隠せない。
俺は数字だけを記録帳へ写した。
その時、通りの向こうから、揃った足音が近づいてきた。
石畳を踏む硬い音が、同じ間隔で八つずつ重なる。人々が道の両脇へ避け、その間を灰色の人形が八体、一列で進んでくる。先頭は指揮個体。最後尾に、M-07がいた。
他の六体の歩幅は同じだった。M-07だけが、右足を出すたびに半拍遅れる。
膝の割り栓は、新しいものに替えられていた。だが、軸を削り直さずに栓だけ打ち込んだのだろう。継ぎ目から出る黒い粉が、昨夜より増えている。油は濁り、膝装甲の縁には焼けた色が浮いていた。
「歩幅を統一」
指揮個体のカサンドラが命じた。
「歩幅を統一」
七体が復唱する。
M-07が無理に右膝を伸ばした。
硬い音が一つした。
軸と受けが正しく噛み合わず、互いを削った音だった。聞き違えるはずがない。
通りの坂で、荷車の車輪を留めていた木の楔が外れたのは、その直後だった。
樽を積んだ荷車が後ろ向きに滑り始める。御者が手綱を引いたが、馬の蹄が石畳を滑った。樽同士がぶつかり、腹に響く音を立てる。坂下には露店と、逃げ遅れた人がいる。
七体は行進を続けた。
「隊列を維持」
「隊列を維持」
命令が重なる。
その列から、M-07だけが外れた。
灰色の外套が翻る。槍を石畳の隙間へ突き立て、石突きを荷車の車軸へ差し込む。金属が悲鳴を上げ、槍の柄が大きくしなった。右膝が沈み、灰色の装甲の隙間から黒い粉が噴いた。
それでも、荷車は止まった。
樽の重みが槍を伝い、M-07の肩と腰を軋ませる。右足の下で、油と鉄粉が石畳へ黒い染みを作った。
御者が震える手で楔を拾い、車輪へ打ち直す。坂下の人々が逃げ切るまで、M-07は一本の槍と壊れかけた膝で、樽の重みを支え続けた。
「M-07。隊列逸脱を記録」
カサンドラが振り返った。
「隊列逸脱を記録」
M-07は復唱した。
「行動理由を報告」
灰色の顔が、止めた荷車へ向く。助けられた者たちは、息を切らしながら彼女を見ていた。
「衝突を回避」
「回避は任務に含まれない。隊列へ復帰」
「……隊列へ復帰」
M-07は槍を引き抜いた。
一歩目で、右膝が折れた。
金属が石を打ち、通りから声が消える。片手を石畳につき、それでも立とうとする。カサンドラは助けず、同じ命令を繰り返した。
「隊列へ復帰」
俺は足を止めていた。
手を出すことはできる。肩を貸し、荷車へ運び、膝を開けば、削れ方を確かめられる。だが、本人はまだ何も頼んでいない。
善意を理由に手順を飛ばせば、命令で体を使われるのと変わらなくなる。
M-07が顔を上げた。
俺を見た。
ほんの一瞬だけだった。
赤みのない灰色の瞳に、昨夜、暗がりからこちらを見ていた気配が重なった。
それから槍を杖にし、削れる膝で隊列へ戻った。
通りに残った黒い粉を、風が細く引き延ばしていった。
夜になっても、あの音が耳に残った。
当番表どおりの整備を終え、工具を拭き、ランプの火を落とそうとした時、門の外に灰色の人形が立っていた。
M-07だった。
右膝は伸びきらず、槍に体重を預けている。昼よりさらに熱を持ち、装甲の上からでも油の焦げる臭いがした。ここまで歩く間にも削れたのだろう。足元には、点々と黒い粉が落ちている。
ヴェスナが俺の横へ並ぶ。放熱翼は音もなく半ばまで開き、いつでも前へ出られる姿勢を取った。
「単独行動は許可されていない」
M-07が言った。
「それでも来たのか」
「肯定」
俺は昨夜の割り栓を取り出した。ランプの下で見ても、工具を掛けた二本の傷ははっきり残っている。
「これは、外れたんじゃないな」
「当機が外した」
「なぜだ」
M-07はすぐには答えなかった。
命令を待つように、喉の奥で小さな作動音がする。だが、ここには答えを指定する指揮個体はいない。
「拾われるか、確認したかった」
「誰に」
「オルト・グレンに」
名前を呼ばれたのは初めてだった。
ただの識別ではない。昨夜、俺が割り栓を拾ったか。異常の意味を読んだか。問いを投げた相手が、ここにいるか。それを確かめるために、壊れた膝で来た。
俺はM-07の前へしゃがみ、膝には触れずに聞いた。
「開けていいか」
灰色の指が、槍の柄を強く握った。革巻きが軋む。
「当機には、騎士団外の整備を許可する権限がない」
「騎士団の許可を聞いてるんじゃない。お前に聞いている」
「当機は、命令を実行する量産機である」
「それでも、荷車を止めたのはお前だ」
「命令違反だった」
「助かった人がいた」
M-07の瞳が揺れた。
あの場で命令に従うだけなら、列を外れる必要はなかった。それでも彼女は、逃げ遅れた者と壊れかけた自分の膝を量り、槍を突き立てた。
「もう一度聞く。お前は、その膝を開けて整備してほしいか」
「希望、という項目は命令一覧に存在しない」
「なら今すぐ答えなくていい。答えが出るまで、俺は開けない」
熱を持つ膝から、焦げた油の臭いが立ち続けていた。放っておけば摩耗は進む。それでも、俺は工具へ手を伸ばさなかった。
M-07は長い間、黙っていた。
やがて槍から片手を離し、首元へ当てた。そこには主選びの仕組みを塞ぐ黒い輪がある。その黒い輪は鎖骨の下まで伸び、登録板を塞いでいた。
指は黒い輪を外さなかった。ただ、その場所を確かめるように触れていた。
「次に問う時も」
「ああ」
「指揮個体ではなく、当機に問うことを要求する」
「分かった」
整備の許可ではない。帰属を変える言葉でもない。
それでも彼女は、自分に問えと、自分の意思で要求した。
その時、街道の暗がりから七体の灰色の人形が現れた。
石畳を打つ足音は揃い、迷いがない。先頭のカサンドラが、無表情のまま指揮杖を上げる。
「M-07。無許可離隊を確認。帰投せよ」
M-07の背が硬くなった。
「帰投せよ」
命令は復唱されなかった。
代わりにM-07は、焦げついた右膝を引きずりながら、俺と七体の間へ立った。
六本の槍が、一斉に彼女へ向けられた。
(第14話へ続く)
作中でオルトが見る黒い粉は、削れた金属と焼けた油が混じった摩耗の徴です。栓だけを替えても、軸と受けの噛み合わせが悪ければ削れ続けます。だから彼は、目立つ部品より先に音と油の色を確かめています。




