第93話 先生との通信が途切れたら、総合制御室へ向かうことになりました
「…カコはいつ…、言うこと…聞かないな…ったな……」
先生の声がほんの少しだけ柔らかくなり、短い沈黙のあと、かすかな笑いを含んだ言葉が続いた。
叱るような内容のはずなのに、その声から怒りは感じられない。
五年間も離れていたカコが、自分を助けるためにここまで来た。その事実を喜びながらも、素直に口へ出せずにいるようだった。
「…強…なったな……」
カコの瞳に浮かんでいた涙が、青白い光を受けて小さく輝いた。
「先生に教わったから」
「…ああ……」
その短い返事には、長い時間をかけてカコを育ててきた人の想いが込められていた。
先生がどのような気持ちでカコへ知識を教え、生きるための術を残してきたのか、俺にはすべて分からない。
それでもたった一言の返事から、二人が過ごしてきた時間の重さだけは伝わってきて、俺まで胸の奥が熱くなり、ミメシスの柄を強く握った。
「…だが、気をつけろ、総合制…室には、旧王命令層の中枢…残っている……」
先生の声から柔らかさが消え、再び緊張が滲む。
「そこへ行けば、今まで通信を邪魔していたものと直接ぶつかるんですね」
「…その可能性…高い、カコの血と権限…利用しようとするはずだ……」
カコの右手は、金色の王統紋へ重ねられたままだった。
旧王命令層が必要としているのは、カコ自身ではなく、その身体に流れる血と王統管理者としての権限なのかもしれない。
それでもカコは王統紋から手を離さず、通信の向こうにいる先生を見つめるように顔を上げた。
「私は、利用されない」
静かな声だったが、迷いはなかった。
「…その言…を忘れ…な……」
中央の柱を巡る輪が激しく揺れ、先生の声に再び強い雑音が混じった。
それに合わせるように、下層の立体構造図も不安定に明滅し始める。
回転していた金色の輪の一つが大きく傾き、隣の輪と触れ合って甲高い音を響かせた。
床から伸びていた金色の通信線も、何度も点滅を繰り返している。
《旧王命令層からの干渉が増大しています》
《音声接続の維持が困難です》
「先生!」
カコが王統紋へ流す魂力を強めようとし、金色の光が一瞬だけ大きく膨らんだ。
《出力を上昇させないでください》
《通信中継点へ過剰な負荷が発生します》
「でも、先生の声が消える」
《接続の維持を試みています》
コーデックスのページから伸びた青白い文字が、乱れた通信線を繋ぎ止めるように中央の柱へ流れ込む。
それでも、先生の声を覆う雑音は強くなり続けた。
「…カコ、急ぐ…、ケイ…相談して、気をつ…て進め……」
「うん」
カコは今にも途切れそうな声を、一言も聞き逃さないように耳を澄ませていた。
「…待って…る……」
最後の言葉を残し、先生の声はノイズの向こうへ消えた。
「先生?」
カコが呼びかける。
「先生、聞こえる?」
返ってくるのは、通信中継点を満たす激しい雑音だけだった。
「先生!」
カコが何度呼びかけても、今度は返事が戻ってこない。
やがて雑音さえ弱くなり、中央の柱を巡っていた金色の輪が一つずつ回転を止めていった。
《音声接続が遮断されました》
《識別信号と位置情報は維持しています》
《先生の現在位置 _ _ 下層最深部・第三封鎖牢》
立体構造図の最も深い場所には、先生の位置を示す青白い光点が残っていた。
弱々しく明滅しながらも、その光はまだ消えずに輝いている。
声は聞こえなくなったが、それでも識別信号が残っている限り、先生がそこにいることだけは確認できる。
先生は生きている。
そして、俺たちが来るのを待っている。
「場所は分かった」
俺はカコの隣へ立ち、立体構造図を見上げた。
最深部では先生の信号を示す青白い光が明滅し、反対側にあたる下層上部には、総合制御室を示す金色の光点が浮かんでいる。
二つの光点は、逆さの塔の上端と下端に近い場所へ大きく離れていた。
先生のもとへ向かいたい気持ちを押し殺し、まずは反対方向へ進まなければならない。
「次は総合制御室だ」
「うん。先生は最深部で待っている。でも、助けるために先に上へ行く」
カコは目元の涙を袖で拭った。
それから先生の手帳を胸に抱き直し、立体構造図の最深部へもう一度だけ目を向ける。
すぐにでも先生のところへ駆けつけたいはずだ。
それでも、カコは自分の気持ちだけで進む道を決めていない。
先生を助けるために必要なことを理解し、しっかりと顔を上げる。
《総合制御室への経路を取得しました》
コーデックスのページから青白い光が伸び、立体構造図の中に一本の経路を描き出した。
通信中継点から一度横へ進み、複数の区画を通過しながら、下層上部へ向かう経路だった。
《ただし、複数箇所で崩落と警備反応を確認しています》
表示された経路の途中には、崩落箇所を示す暗い印と、警備反応を示す複数の光点が浮かんでいる。
「簡単には行かせてくれないみたいだな」
『望むところだ! 我が主の前に立つものは、すべて我が斬る!』
《すべてを斬った場合、経路や重要設備まで破壊する危険があります》
『ならば、必要なものだけ残す!』
《ミメシスに精密な選別ができるとは思えません》
『紙束、今の言葉は聞き捨てならんぞ!』
「出発する前から喧嘩するな!」
さっきまで張り詰めていたカコの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、先生との通信が切れた不安は消えていない。
それでも、ミメシスとコーデックスのいつもと変わらない言い合いが、沈みかけた空気をわずかに軽くしてくれた。
通信中継点の出口へ向かって一本の金色の案内線が浮かび上がり、その光は漆黒の通路を通って上方へ伸びていった。
【王統管理者の接近 _ _ 確認】
【総合制御室への限定経路 _ _ 表示】
【下層最終認証 _ _ 待機中】
無機質な表示を目にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
これまで通信を妨害していた旧王命令層が、総合制御室へ続く経路だけは遮断していない。
むしろ、俺たちを目的地まで導くように案内線を表示している。
旧王命令層も、カコが総合制御室へ向かうことを望んでいる。
俺たちは先生を救うために向かうが、向こうはカコに何かをさせるため、総合制御室で待ち構えている。
拒まれているのではない。
望む場所まで誘い込まれようとしている。
目的がまったく異なるにもかかわらず、同じ場所を目指していることが何よりも不気味だった。
「カコ、行けるか?」
「うん、大丈夫」
カコは右腿に固定された携帯ケースへ手を添え、六本のノクス・ニードルが収まっていることを確かめた。
続けて先生の手帳を胸に抱いたまま、金色の案内線が続く出口へ歩き出す。
中央の柱の前に浮かんでいたコーデックスも移動し、いつものようにカコの肩の近くへ戻った。
「先生を助ける」
「ああ。必ず連れて帰ろう」
俺は無銘刃の姿をしたミメシスを握り直し、カコを守るように前へ出た。
『案ずるな、小娘!』
『総合制御室に何が待ち構えていようと、我と我が主が斬り開いてやる!』
《先ほど、重要設備まで破壊しないよう警告しました》
『言葉の表現だ! 本当にすべてを斬るわけではない!』
「分かったから、通路に出る前に静かにしてくれ」
俺が先頭に立ち、そのすぐ後ろをカコとコーデックスが進む。
漆黒の通路の先では、床を走る金色の案内線と、崩れた壁に残る王統紋が冷たい光を放っていた。
先生が囚われているのは、下層最深部に存在する第三封鎖牢だと分かった。
だが、そこへ向かう前に越えなければならない場所がある。
旧王命令層の中枢が残り、カコの血と権限を狙っている可能性がある総合制御室。
危険だと分かっていても、先生を救出するためには避けて通れない。
俺たちは金色の案内線に従い、下層上部にある総合制御室へ向かって歩き始めた。




