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『時環境界と四系統の継承者』  作者: あらけい
第一部 結界の森と、帰る場所

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第89話 下層へ転送されたら、先生の声が最深部から聞こえてきました

 俺とカコは手を繋ぎ、中層監視室の転送ポイントに佇み、下層へ向かう覚悟を静かに整えている。


 その後、足元から立ち上がった青白い光が、俺たちの身体を包み込んだ。


 中層監視室の床が遠ざかり、周囲の景色が細長く引き延ばされていく。


【下層通信中継点付近への限定転送を _ _ 実行中】


【王統管理者カコの権限 _ _ 使用】


【転送座標補正 _ _ 不安定】


【旧王命令層による通信干渉 _ _ 確認】


「いきなり不安定って表示されたぞ」


《物理的な損傷による転送異常ではありません》


《旧王命令層による通信制限が主因と推測します》


「壊れてるんじゃなくて、向こうから邪魔されてるのか?」


《おおむね肯定します》


「どっちにしても、厄介なのは変わらないな」


 隣に立つカコは、先生が残した手帳を胸に抱えていた。


 右腿には、六本の黒い針を収めた細長いケースが固定されている。


 ノクス・ニードル。


 敵を倒すためではなく、短時間だけ動きを鈍らせるための補助武装だ。


 生命体には、命中後に発生する小規模な結界の電流が作用し、筋肉や身体の動きを阻害する。


 機械に対しては、制御基板や命令線へ干渉することで、その動作を遅らせるらしい。


 投擲後の軌道を誘導する機能はないが、効果が切れると自動回収機能が働き、所有者のもとへ戻ってくる。


 そのため、六本しかなくても使い捨てではない。


「カコ、大丈夫か?」


「怖い」


 カコは手帳を抱く左腕へわずかに力を込めながらも、視線を下へ向けることはなかった。


「でも、行く」


「ああ。先生を連れて帰ろう」


『下層か。王権の気配が濃くなってきたな』


「その言い方、必要以上に怖いからやめろ」


『怖くて当然だ、我が主よ。ここから先は、王に近い者だけが立ち入るための領域だ』


「カコは分かるけど、俺は完全に部外者だぞ」


《ケイは王統管理者の随伴者として、限定進入を許可されています》


《ミメシスは随伴物、わたくしは補助端末として認識されています》


「全員、カコの付き添い扱いなんだな」


《アエテルヌムにおいて、漆黒は王権、深層管理、高位端末を示す色として多用されていました》


 コーデックスの黒い表紙に青白い文字が浮かび上がり、その光を受けた俺とカコの顔は、緊張していた。


《わたくしは、王権中枢に属する高位端末です》


《ミメシスは、王権に対抗するために設計された高位模倣武装です》


《用途は異なりますが、いずれも漆黒を基調としています》


「それじゃ、下層も真っ黒ってことか?」


《構造記録が残っていないため断定はできませんが、その可能性は高いです》


『ようやく我にふさわしい場所へ到達するわけだ!』


「お前は黒い場所に来ただけで偉そうになるな!」


 俺の声をかき消すように、耳の奥へ低い振動音が響いた。


 青白い光が一度強く輝いた直後、足元の感覚が消える。


 身体を宙へ投げ出されたような浮遊感に襲われた次の瞬間、靴底へ硬い床の感触が戻った。


     ◇


 着地した俺たちを迎えたのは、黒く冷たい空間だった。


 床には、光を喰らう“深淵黒石”が敷き詰められている。


 壁には細い金色の魂力導線が走り、天井付近には青白い立体表示が浮かんでいた。


 しかし、その光は弱く、崩れかけた通路をかろうじて照らしているだけだった。


 かつての姿が、そのまま残っているわけではない。


 床の一部は沈み、壁には大きな亀裂が走っている。


 金色の導線も半分以上が光を失い、通路の奥では崩れ落ちた天井材が道を塞いでいた。


 この広大な下層区画で今も動いている設備は、ほんの一部だけらしい。


「きれいだけど、ひどく壊れてるな」


「今までの区画より、ずっと黒い」


 カコは周囲を見回しながら静かに呟いた。


 淡いプラチナ色の髪が、青白い照明を受けて揺れる。


「それに、床と壁の光が金色」


「王様のための場所だからか?」


《下層は、王統管理者が利用するために造られた省人化区画です》


《通常の作業者を必要とせず、自動管理端末と遠隔制御によって維持されていました》


「省人化って、人がいなくても動く場所ってことだよな」


《肯定します》


 その言葉を証明するように、離れた場所で黒い扉がひとりでに閉じた。


 壁に残された表示も、誰も触れていないのにゆっくりと切り替わっていく。


 中層には、かつて人々が暮らし、学び、働いていた気配が残っていた。


 だが、この下層からは、人の声も生活の痕跡も感じられない。


 必要とされているのは王だけで、それ以外の人間は最初から存在しないものとして造られたかのような冷たさがあった。


「ここは、人のための場所じゃないな」


『王のための区画だからな』


「王だって人だろ」


『そう考えぬ王もいる』


 ミメシスの声は、いつもの勢いを失っていた。


 その言葉を聞いたカコは、胸に抱いている先生の手帳へ再び力を込めた。


「先生の信号は?」


《下層拘束区画で確認した、管理補助端末の識別信号を再検索します》


 コーデックスのページが開き、無数の青白い文字が高速で流れ始めた。


 ページから伸びた光が、床や壁に残る導線へ接続される。


 わずかに機能を残している下層の通信網を通じ、信号の捜索が始まった。


《識別信号を再捕捉します》


《受信状態 _ _ 断続的》


《方角 _ _ 下層最深部》


「最深部……?」


《正確な座標は取得できません》


《旧王命令層によって、下層内部の通信経路が制限されています》


「声は拾えないのか?」


《復元を試みます》


 コーデックスのページに激しいノイズが走った。


 途切れかけた青白い文字の間から、かすかな音声が漏れ始める。


「……カコ……なのか……」


 ひどくかすれた声だったが、カコが聞き間違えるはずはなかった。


「先生!」


「今……戻れ……」


 短い言葉を最後に、音声は激しい雑音へ飲み込まれた。


 カコが反射的に、通路の奥へ踏み出しかける。


 俺はその肩へそっと手を添え、隣に並んで同じ方向を見つめた。


「今のまま進んでも、先生の場所が分からない」


「でも、声が聞こえた」


「ああ。先生は、この下層にいる」


 それだけは、はっきりした。


 今まで追い続けてきた先生が、この漆黒の区画のどこかで生きている。


「まずは通信中継点を復旧させよう。通信が戻れば、先生の正確な場所も分かるはずだ」


「うん」


 カコは一度目を閉じ、震えていた息をゆっくりと整えた。


 再び目を開いたときには、迷いのない光が淡い青銀色の瞳へ戻っていた。


「先生を助けるまで、戻らない」


「そのためにも、先へ進もう」

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