第70話 先生と帰ってくるため、荒らされた家の扉だけ直して出発しました
必要な荷物をまとめ終えたあとも、カコはすぐに家を出ようとはしなかった。
倒れていた椅子を起こし、破れた袋や床に散らばっていた小物を片づけていく。
さらに、狼型魔物に散らされた布を拾い集め、一枚ずつ丁寧に畳んでいった。
「カコ、急いで先生を助けに行きたいんじゃなかったのか?」
「急ぎたい」
「だったら、片づけは戻ってからでもいいだろ」
「でも、少しだけ」
最後に、カコは深い爪痕が残る扉の前へしゃがみ込んだ。
壁際に残っていた木の板を持ってくると、爪痕で壊れかけた部分へ当てていく。さらに棚から、釘の入った小箱と木槌を取り出した。
「今から扉まで直すのか?」
「少しだけ」
「完全に直そうとしたら時間がかかるぞ」
「帰ってきた時、壊れたままだと嫌」
カコは木の板を押さえながら答えた。
「先生を連れて帰ってきて、最初に見る扉が壊れてたら嫌」
その言葉を聞くと、止める気にはなれなかった。
「そうだな。全部は無理でも、開け閉めできるくらいにはしておこう」
「うん」
「板を押さえるから、釘を打てるか?」
「できる」
俺が木の板をずれないように支えると、カコは小箱から釘を一本取り出した。
コン、コン、と木槌で釘を打つ音が、静かな家の中に響いていく。
その音を聞きながら、俺は初めてこの家へ運び込まれたときのことを思い出していた。
あの頃の俺は大怪我を負い、寝台からまともに動くことさえできなかった。
まあ、今も同じようなものだが……。
結界の外へ出る方法も、この世界のことも、古代文明の存在も、ミメシスの正体も、何一つ分かっていなかった。
カコに食事を用意してもらい、傷を治してもらいながら、これからどうすればいいのかも分からないまま、この家で過ごしていた。
それが今では、この家の地下に眠る巨大な古代施設へ降り、五年もの間捕らわれている先生を助けようとしている。
「……不思議だな」
「なにが?」
カコが木槌を止めて、こちらを見る。
「最初は、ただここで目を覚ましただけだったんだ。でも今は、この家に帰ってきたような感じがする」
「ケイの家?」
「いや。カコと先生の家だから、俺の家っていうのは違うと思う」
「でも、帰ってきた?」
「ああ。不思議だけど、そう感じる」
カコは少しだけ考えた。
「帰る場所」
「そうかもな」
「先生も戻る場所」
「ああ」
「一緒に連れて帰る」
「絶対にな」
カコはもう一度木槌を握り、最後の釘をしっかりと打ち込んだ。
完全に元通りになったわけではないが、扉は問題なく開け閉めできる程度まで補強されていた。
「これなら、とりあえず戻ってくるまでは大丈夫そうだな」
「帰ってきたら、ちゃんと直す」
「俺も手伝うよ」
「約束」
「約束だ」
カコが小さく拳を差し出した。
俺もルカに教わった約束の仕方を思い出し、その小さな拳へ自分の拳を軽く当てる。
◇
家を出る直前、カコが暖炉の上へ視線を向けた。
そこは以前、黒い剣の姿をしたミメシスが長い間立てかけられていた場所だ。
今はもう、何も置かれていない。
「ここにミメシスがいたけど、先生は触るなって言ってた」
『当然だ!』
ミメシスが待っていたように、得意げな声を上げた。
『我は選ばれし主にのみ扱うことを許される、特別な武器だからな!』
「埃をかぶってたけどな」
『あれは長い眠りについていただけだ!』
「埃まみれで?」
『言い方が悪い!』
カコは何もない暖炉の上を見つめたまま、静かに呟いた。
「先生は、ミメシスが何なのか知ってたのかな」
「たぶん、普通の剣じゃないことくらいは知ってたと思うけどな」
「知ってたのに、私には話さなかった?」
「どうしてだろうな」
《推測します》
《危険情報として、意図的に秘匿していた可能性があります》
「危険情報?」
《アエテル・ミメシスは、対王権用模倣武装です》
《当時、王統系列に関する知識を持たなかったカコが接触した場合、周辺施設の警戒機構を作動させる危険がありました》
『我を危険物のように説明するな!』
「実際、古代施設側から見れば、危険物みたいな扱いなんだろ」
『我は我が主の正当な武器だ!』
《施設側分類では、高位反逆武装です》
『呼び名が悪い!』
カコは暖炉からミメシスへ視線を移した。
「先生は、私を守るためにミメシスのことを話さなかった?」
《可能性はあります》
「でも、ミメシスがいたから、ケイと一緒に結界の外へ出られた」
『カコ、よく分かっているではないか!』
「ミメシスは、すぐ怒るけど役に立つ」
『すぐ怒るとは何だ!』
「すぐ怒る」
『怒っていない!』
「今も怒ってる」
『これは正当な抗議だ!』
いつものやり取りだったが、カコの声は少しだけ優しく聞こえた。
「先生を助けに行こう」
「ああ。行こう」
俺とコーデックスが先に外へ出ると、カコは補強した扉へ手を掛けた。
けれど、そのまま閉めることはせず、一度だけ家の中を振り返る。
そして、誰もいない部屋へ向けて静かに頭を下げた。
「行ってきます」
先生が戻らなくなってからも、カコは家を出るたび、誰もいない部屋へ同じ言葉をかけてきたのだろう。
けれど、今度の声には、これまでとは違う強い意志がこもっていた。
「今度は、先生と一緒に帰ってくる」
そう言って、カコは静かに扉を閉めた。




