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『時環境界と四系統の継承者』  作者: あらけい
第一部 結界の森と、帰る場所

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第61話 あのオーガは、転移前に俺を追い詰めたことを覚えているようです

「グルアアアッ!」


 カコを狙った狼型魔物が地面を蹴り、一気に距離を詰めてくる。


 それでもカコは逃げ出さず、足元へ転がっていた小石を一つ拾った。


「カコ、下がれ! 近づかれてからじゃ遅い!」


 狼型魔物が大きく口を開く。


 だが、カコは相手が真正面へ入る瞬間を待ち、迷わず腕を振った。


 投げられた石はほとんど軌道を逸らさず飛び、狼型魔物の右目へ正確に命中する。


 ガツッ!


「ギャアッ!」


 右目を打たれた狼型魔物が、痛みに顔を大きく横へそらした。


 カコは命中を確認した瞬間には、すでに俺の方へ走り始めている。


「今!」


「よくやった!」


 俺は黒鋼長槍を低く構え、カコを追おうとした狼型魔物へ横から振り抜いた。


 穂先ではなく長い柄が前脚へぶつかり、走る勢いのまま脚を払われた狼型魔物が地面へ転がる。


 ガン!


「ミメシス、無銘刃へ戻れ!」


『もう槍は終わりか!』


「倒れている今なら、軽い剣の方が早い!」


 黒鋼長槍が黒い靄に包まれ、伸びていた柄が一気に縮んでいく。


 鋭い穂先も形を崩し、細身の黒い刀身へ変わった。


 俺は無銘刃へ戻ったミメシスを両手で握り直し、倒れた狼型魔物の首へ刃を突き込んだ。


 ザシュッ!


「ギャウッ……!」


 灰色の身体が大きく震えたあと、力を失って動かなくなった。


「二匹目!」


「本当に目に当たった」


 カコが少し驚いたように、自分の右手を見ている。


「あの距離で正確に目へ当てるなんて、普通はできないぞ」


「石を投げて木の実を落とす練習を、先生とたくさんしたから」


「先生に教えてもらったことが、ちゃんと役に立ったな」


「うん。先生のおかげ」


 カコが嬉しそうに笑ったが、ゆっくり話している余裕はなかった。


《正面および右側面から、複数の敵性反応が接近中です》


「まだ来るぞ!」


 残っている四匹の狼型魔物が、今度はほとんど同時に動き始めた。


 一匹は正面から迫り、もう一匹は大きく右へ回り込む。


 最初に前脚を傷つけた個体は左側から迫り、先ほど無銘刃へ噛みついた一回り大きな個体は、俺たちの背後を取ろうとしていた。


「今度は四匹同時かよ!」


『我が主、震断刃を使え!』


「軽い武器だけって約束しただろ!」


『重装断砕斧よりは、はるかに軽い!』


「比較対象が重すぎるんだよ!」


『無銘刃より威力があり、あの硬い毛皮も切り裂ける!』


 四方向から牙と爪が迫る中、このまま無銘刃だけですべてを止めようとする方が、かえって危険だった。


「一回だけだぞ! ミメシス、震断刃!」


『任せろ!』


 黒い靄が細い刀身を包み込み、無銘刃が幅広い黒い長剣へと変わる。


 その表面を青白い線が走り、増した重さが一気に両腕へ加わった。


「やっぱり重い……本当に一回だけだからな!」


『三回は振れ!』


「肩が壊れるわ!」


 正面から飛びかかってきた一匹へ向け、俺は震断刃を横薙ぎに振った。


【振動刃機構 _ _ 起動】


 刀身から低い振動音が響く。


 ザンッ!


「ギャアッ!」


 震える黒い刃が硬い毛皮を深く切り裂き、狼型魔物は勢いを失わないまま俺の横を通り過ぎた。


 そのまま数歩先まで進み、力尽きたように地面へ崩れ落ちる。


「三匹目!」


 だが、右側からは別の一匹が迫っていた。


「まだ来る!」


 振り抜いた震断刃を完全に戻す時間はなく、俺は柄頭を突き出して、狼型魔物の鼻先へぶつけた。


 ゴッ!


「ギャウッ!」


 進路がわずかに横へそれ、伸びてきた爪は俺の身体ではなく、上着だけを切り裂いて通過した。


「危なっ……!」


「ケイ!」


「大丈夫だ! 服を切られただけで、身体には当たってない!」


 狼型魔物は俺の横を通り過ぎ、湿った土の上を滑りながら数歩先で向きを変えた。


 次は左側から、最初に前脚を傷つけた狼型魔物が、痛む脚を引きずりながら俺へ迫ってくる。


 その瞬間、カコがすでに拾っていた石を投げた。


 石は今度は目ではなく、狼型魔物の額へ命中する。


 カンッ!


「グルアッ!」


 決定的な傷にはならなかったが、それでも走っていた脚が一瞬だけ止まった。


「十分だ!」


『二撃目だ、我が主!』


「一回だけって言ったけど、今は仕方ない!」


 俺は震断刃を切り返し、動きを止めた狼型魔物を斜め下から切り上げた。


 ザシュッ!


 すでに傷を負っていた灰色の身体が、その場へ崩れ落ちる。


「四匹目!」


 斬撃の衝撃が両腕を伝わり、治りかけていた右肩へ鈍い痛みが走った。


 これ以上、震断刃を振るうのは危険だ。


《後方から高速接近》


「後ろ?」


 振り返った瞬間、最後まで回り込んでいた一回り大きな狼型魔物が、俺ではなくカコへ向かって飛びかかっていた。


「カコ!」


 距離が離れすぎていて、今から走っても間に合わない。


 カコは背負っていた荷物へ素早く手を入れ、小さな袋を取り出した。


 見覚えがある。


 北の転移塔へ入る直前、ラウルが俺へ渡した火薬石の袋だ。


「待て、それは俺が持ってたはず……!」


「ケイ、目瞑って」


 カコは迷わず袋から火薬石を一つ取り出し、迫ってくる狼型魔物の顔へ向けて投げた。


 小さな火薬石が真正面から顔へ当たった瞬間、森の中を白い光が一瞬で満たす。


 カッ!


 続けて、乾いた大きな破裂音が響いた。


 パンッ!


「ギャウッ!」


 狼型魔物は突然の光と音に驚き、顔をそらしながら横へ跳んだ。


 俺もカコの声に反応して、目を閉じていた。


「まぶしっ! カコ、何でそれを持ってるんだ!」


『今のは何だ、小娘!』


「ラウルがケイに渡したもの」


「それは分かってる! いつ俺から取ったんだよ!」


「転送する前」


「全然気づかなかったぞ!」


「ケイが使うと、無理すると思ったから」


「……今は本当に助かったから、あとで話そう!」


 狼型魔物は強い光に目をくらませ、頭を低く振っていた。


「今のうちに終わらせる!」


 俺は震断刃を無銘刃へ戻し、右肩の痛みが強くなる前に地面を蹴った。


 狼型魔物の横へ回り込み、むき出しになった首を下から切り上げる。


「はあっ!」


 ザシュッ!


「ギャウッ……!」


 狼型魔物は数歩よろめいたあと、力なく地面へ倒れた。


「五匹目!」


《小型敵性反応 _ _ 残り一》


「あと一匹だけだ!」


 最後に残ったのは、先ほど右側から回り込み、震断刃の柄頭を受けて通り過ぎた狼型魔物だった。


 少し離れた場所に立ち、倒れた仲間たちと俺たちを交互に見ている。


「逃げる?」


 カコが小声で尋ねる。


「たぶん、もう襲ってくる気はない。こっちから追わない方がいい」


 狼型魔物の赤い目は、まだ警戒するように俺たちへ向けられていた。


 だが、仲間が次々に倒されたことで、明らかに最初の勢いを失っている。


「追わなくていい。そのまま森へ戻るなら行かせよう」


「うん」


『敵を目の前にして見逃すのか?』


「無理に追ったら、森の奥へ誘い込まれるかもしれない。今は先生を助けに行くのが目的だ」


《その判断を推奨します》


『我が主まで、紙束と同じことを言うのか……!』


「何でそんなに嫌そうなんだよ」


 狼型魔物は俺たちを警戒しながら、一歩、さらに一歩とゆっくり後ろへ下がっていった。


 だが、その時、森のさらに奥から低く重い音が響いた。


 ドン。


 地面がわずかに揺れ、狼型魔物の動きが止まった。


 もう一度、ドン。


 今度は先ほどよりも近く、木々の上から驚いた鳥たちが一斉に飛び立った。


「何の音?」


 カコがすぐに俺の隣へ戻ってくる。


《大型生命体反応が接近中です》


「転送前に検出された、大型反応一体か」


《肯定します》


『ようやく来たか!』


「何で嬉しそうなんだ!」


 最後の狼型魔物も、俺たちではなく森の奥へ顔を向けていた。


 背中の毛を逆立て、牙を見せながら低く唸っている。


「グルルルル……」


「あの狼の仲間じゃなさそうだな」


《現在までの行動情報から、協力関係は確認できません》


 その直後、森の奥で一本の大木が突然大きく揺れた。


 バキバキバキッ!


 太い幹が横からへし折られ、大量の枝と葉が地面へ舞い落ちる。


 その向こうから、巨大な影がゆっくりと姿を現した。


 最初に見えたのは、人間の胴体ほどもある太い腕だった。


 赤黒く変色した皮膚と、黒ずんだ巨大な指。


 その先には、獣のような鋭い爪が伸びている。


 続いて大きな肩と分厚い胸が現れ、最後に異形の頭部が木々の間から姿を見せた。


「大きい……」


 カコが思わず呟く。


 その身長は、明らかに三メートルを超えていた。


 肩と胸には、赤黒い皮膚を覆うように黒い岩のような装甲が生えている。


 額からは二本の太い角が伸び、左右へ大きく広がっていた。


 さらに異様なのは、身体の各所を走る青白い光だ。


 古代施設の壁を流れていた魂力の光が、そのまま皮膚の下へ入り込んだように脈打っている。


「グオオオオオオッ!」


 森の空気そのものを震わせる咆哮が響き、カコが反射的に俺の服をつかんだ。


 その声を聞いた瞬間、忘れていたはずの恐怖が身体の奥から込み上げてきた。


 耳が、あの声を覚えている。


 身体が、あの時に受けた衝撃を覚えている。


 暗い迷宮。


 一撃で折られた剣。


 目の前へ迫った巨大な棍棒。


 そして、逃げても逃げても俺を追い続けた魔物。


「こいつ……」


『知っているのか、我が主?』


「ああ。忘れるわけがない」


 俺は無銘刃へ戻したミメシスを、強く握り直した。


「俺がこの森へ転移する直前まで戦っていた、あのオーガだ」


 姿は大きく変わっている。


 以前よりも巨体となり、一本だった額の角は二本へ増えていた。


 黒い岩のような装甲も、皮膚の下を流れる青白い光も、あの時にはなかったものだ。


 それでも、あの咆哮と赤い目を見間違えるはずがない。


 巨大なオーガの赤い目が、ゆっくりとこちらへ向けられる。


 カコでもミメシスでもなく、真っすぐに俺だけを見ていた。


 生き残った狼型魔物が、怯えたように低く唸る。


「グルルルル……」


「あいつも、俺のことを覚えてるみたいだな」

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