第60話 戻った結界で狼に囲まれたので、軽い武器だけで戦うことになりました
俺たちを包んでいた青白い光が消えると、浮いていた身体へ重さが戻り、両足が湿った土の上へゆっくりと降りた。
鼻へ届く土と草の匂いも、周囲に立ち並ぶ巨大な木々も覚えている。
ここは間違いなく、俺がこの世界へ転移した直後に倒れ、カコと初めて出会った懐かしい森だった。
俺たちは確かに、カコの暮らしていた結界の中へ戻ってきた。
だが、以前と同じ静かな森ではない。
「グルルルルル……」
右側に二組、左側に三組の赤い目が浮かび、さらに正面の茂みの奥からも、もう一組の赤い目がこちらを見つめていた。
「囲まれてる」
カコが緊張した声で呟き、転送中からつないでいた俺の手を強く握った。
「まさか、俺たちが転送されてくる瞬間を待ってたわけじゃないよな?」
《否定します》
《転送地点周辺に滞在していた複数個体と、偶発的に遭遇したものと推測します》
「だったら、転送する前にもう少し早く教えてくれ!」
《北部転移中継塔から取得可能だった周辺情報には限界があり、詳細な個体識別までは不可能でした》
『最初から紙束に期待するから悪いのだ!』
《転送直前に危険を検出し、警告を行ったのは私です》
『確認しただけで、結局ここへ転送されているではないか!』
「今は二人で言い争ってる場合じゃない! 目の前に何匹いると思ってるんだ!」
俺が叫んだ直後、六組の赤い目が一斉に動き、木々の陰から灰色の身体が姿を現した。
以前、古代施設の中で戦ったものと同じ狼型の魔物だ。
背中には骨のような白い突起が並び、開いた口の両側から長い牙が突き出している。
一匹ずつは以前に戦った個体より少し小さく見える。
それでも大型犬よりはるかに大きく、しかも一匹ではなかった。
「コーデックス、正確には何匹いる?」
《小型敵性反応 _ _ 六》
「六匹か……一匹ずつならともかく、全部同時はさすがに厳しいな」
『たった六匹ではないか!』
「前は一匹を倒すだけでも相当苦戦したんだぞ!」
『その時とは違う! 今の我には、重装穿孔槍も震断刃も重装断砕斧もある!』
「だから、それを振るのは全部俺なんだ!」
カコが周囲を確認してから、ようやく俺の手を離した。
「戦う?」
「できれば避けたい。まず、逃げられる方向がないか探そう」
《後方にも敵性反応を確認しました》
「……完全に囲まれてるなら、戦って道を作るしかないか」
「ケイ」
「大丈夫だ。今日は無茶な武器は使わない」
「本当に?」
「無銘刃を中心にする。肩が痛んだら、すぐに言うよ」
『重装断砕斧なら、一撃でまとめて……』
「「使わない」」
俺とカコの声が、ほとんど同時に重なった。
『なぜ二人そろって否定するのだ!』
「肩の傷が開くから」
「俺も分かってる。だから、本当に必要な時以外は重い武器を使わない」
「少しでも痛くなったら言う?」
「ああ。今度こそ、ちゃんと言う」
俺はミメシスを正面へ構えた。
現在の姿は、ミメシスが最初に模倣した安物の片手剣――無銘刃だ。
黒い刀身は細く、ミメシスが記録している武器の中では最も軽い。まだ完全に治っていない肩への負担も少なかった。
『我が主よ』
「何だ?」
『本当に、この弱々しい形で戦うつもりなのか? 我が得た強力な武器たちが泣いているぞ!』
「武器は普通、泣かないだろ」
『我は泣く!』
「だったら、今日は少し我慢して泣いていてくれ!」
正面にいた狼型魔物の一匹が身体を低く沈め、後脚へ力を込めた。
「来る」
カコが短く告げる。
「ああ。最初の一匹は俺が止める」
「グアアアッ!」
狼型魔物が湿った地面を蹴り、真正面から飛びかかってきた。
大きく開いた口から伸びる牙が、俺の喉を狙って迫る。
以前にも見たことのある攻撃だ。
「その飛びかかり方なら、もう見てる!」
俺は大きく逃げず、半歩だけ身体を横へずらした。
牙が顔のすぐ横を通過した瞬間、毛の比較的薄い前脚の付け根へ向けて、無銘刃を横から振り抜く。
ザシュッ!
「ギャウッ!」
黒い刃が狙った場所へ深く入り、狼型魔物は着地に失敗して地面へ転がった。
『見事だ、我が主!』
「前に戦った経験があるから、動きが読めたんだ!」
『つまり、以前の我の助言が役に立ったということだな!』
「今は何も助言してないだろ!」
『前回した!』
倒れた狼型魔物へとどめを刺そうとした、その瞬間だった。
《右側面から接近》
「えっ?」
「ケイ、右!」
カコの声に反応して振り向くと、木の陰から二匹目が飛び出していた。
「くっ!」
避ける余裕はなく、俺は無銘刃を横へ構えた。
ガキン!
狼型魔物の牙がミメシスの刀身へ食らいつき、凄まじい力で腕ごと後方へ押し込まれた。
「こいつ、一匹目より明らかに重いぞ!」
『体格も一回り大きい!』
「それくらい見れば分かる!」
狼型魔物は刀身へ牙を食い込ませたまま、首を激しく左右へ振った。
ミメシスを握る俺の身体まで引っ張られ、治りかけていた右肩へ鈍い痛みが走る。
「ケイ!」
「まだ大丈夫だ! 傷は開いてない!」
だが、ミメシスへ噛みついている二匹目の背後から、三匹目の狼型魔物が一直線に走ってきた。
このまま刀身を噛まれていれば、正面からの飛びかかりを避けられない。
「ミメシス、槍になれ!」
『どの槍だ!』
「軽い方だ! 黒鋼長槍!」
『任せろ!』
黒い刀身から靄があふれ、その形が一気に崩れ始めた。
突然、噛みついていた剣が変形したことに驚き、二匹目の狼型魔物が牙を離して後方へ跳ぶ。
その隙に柄が長く伸び、先端には鋭い穂先が形作られた。
施設警備用の黒鋼長槍だ。
重装穿孔槍よりも細く軽いため、今の肩でも十分に扱える。
「これなら間に合う!」
三匹目が大きく口を開き、俺へ向かって飛びかかってきた。
俺は黒鋼長槍を真正面へ構える。
狼型魔物は、自らの勢いによって鋭い穂先へ飛び込んだ。
ズドッ!
「ギャアアッ!」
穂先が開かれた口の端から入り、そのまま首の奥へ深く突き刺さった。
しかし、巨体の勢いまでは一撃で止められない。
狼型魔物の前脚が、俺の胸へ向かって伸びてきた。
「まだ止まらないのか!」
『押し返せ、我が主!』
「今やってる!」
足が湿った土の上を滑り、黒鋼長槍の柄から伝わる重さが肩へ食い込んだ。
「ケイ!」
すぐ近くにいたカコが、地面から小石を拾い上げる。
「下がって!」
「何で今……」
言い終わるより先に、カコが腕を振った。
小さな石が俺の顔のすぐ横を通り抜け、狼型魔物の鼻先へ正確に命中する。
ガツッ!
「ギャウッ!」
突然の衝撃に狼型魔物が顔を横へそらした。
「今!」
「分かってる!」
俺は両足を踏ん張り、黒鋼長槍を一気に押し込んだ。
穂先がさらに深く入り込み、ようやく狼型魔物の身体から力が抜けていく。
巨体は俺の横へ倒れ、今度こそ動かなくなった。
「まず一匹!」
『カコ、見事な投擲だったぞ!』
「当たった」
カコが自分の手を見つめる。
「輪より小さい」
「輪投げと魔物への石投げを、同じ感覚で考えるな!」
「でも、投げるのは同じ」
『次は目を直接狙え!』
「危ない戦い方を教えるな!」
《戦闘行動としては、視覚器官への攻撃は有効です》
「コーデックスまで勧めなくていい!」
最初に前脚の付け根を斬った狼型魔物が、地面へ爪を立てながら、もう一度起き上がろうとしていた。
さらに周囲には、先ほど無銘刃へ噛みついた二匹目を含め、四匹がほとんど無傷のまま残っている。
残る狼型魔物たちは、今度はすぐに襲ってこなかった。
赤い目で俺とカコを見つめながら、距離を保ったまま周囲をゆっくりと回り始める。
「前に戦った時と同じだ。こいつら、こっちの弱い場所を探してる」
「ケイの怪我と、私の位置を見てる?」
「たぶんな。ただの獣みたいに、正面から飛びかかってくるだけじゃない」
俺は黒鋼長槍を構え直しながら、カコへ視線を向けた。
「カコ、今度こそ俺の後ろへ――」
「嫌」
「即答するなよ!」
「後ろにいると、石を投げにくい」
「まだ戦うつもりなのか?」
「ケイを助ける」
「でも、狙われたら危ないだろ」
「前も助けた」
「……それを言われると反論しにくいな」
『カコを止めても無駄だぞ、我が主!』
「お前はどっちの味方なんだ?」
『我は戦える者の味方だ!』
「基準がおかしいだろ!」
カコは俺から数歩だけ離れ、すぐに石を拾える位置へ移動した。
「分かった。ただし、絶対に離れすぎるな。魔物が向かったら、すぐ俺のところへ戻ってこい」
「分かった」
「本当に絶対だぞ」
「ケイも無理しない」
「ああ。それも約束する」
狼型魔物たちの赤い目が、俺とカコの間を何度も往復する。
そして、次に襲う相手を決めたように、一匹が身体を低く沈めた。
《左後方個体が高速移動を開始》
「カコ!」
「見えてる」
一匹の狼型魔物が、俺ではなくカコへ向かって走り出した。




