第59話 結界内へ戻る転送を始めたら、あのオーガの咆哮が聞こえました
中央案内端末の残り時間が少なくなる中、保護領域の外縁へ向かうための転送準備が始まった。
黒い床の上へ青白い円が広がり、その内側を走る何本もの細い線が、幾重にも重なりながら複雑な転送紋様を形作っていく。
【転送先 _ _ 指定】
【保護領域外縁・地上搬送口】
【既存転送記録 _ _ 参照】
【登録個体 _ _ ケイ】
「俺が登録されてるのか?」
《ケイが保護領域外縁付近を経由した際の生命情報が、固定座標情報とともに残存しています》
「それって、良いことなのか?」
《今回の転送座標を安定させるために利用可能です》
『我が主も、ようやく役に立ったな!』
「今までお前を振って戦ってたのは俺なんだけどな!」
『それとこれは別の話だ!』
カコは転送円の中へ入り、俺の隣に立つと、何も言わずに手を伸ばしてきた。
「今度は、転移中も絶対に離さないぞ」
「うん。離さない」
初めての転移の時、俺には何が起きたのかさえ分からなかった。
たった一人でオーガに追われた末、見知らぬ森へ放り出された。
けれど今は、行き先も目的も、隣にいる相手も分かっている。
今再び転移で、カコの暮らす結界内へ転移しようとしていた。
【転送対象 _ _ 確認】
【ケイ】
【カコ】
【アエテル・ミメシス】
【アエテル・コーデックス】
『我が順番が遅い!』
「コーデックスより前なんだから満足しろ」
『それならよい!』
《表示順に優先順位の意味は存在しません》
『紙束は黙っていろ!』
ラウルと巡回隊員たちは、転送円の外側へ下がった。
「戻ったら、まず村へ知らせろ」
「分かりました。先生を助けたあと、必ず戻ります」
「魔物がいても、無理に戦おうとするな」
「できるだけ避けます」
「できるだけではなく、避けろ」
「状況によります」
「やはり信用できんな」
ラウルが呆れたように息を吐く横で、カコは俺の手をさらに強く握った。
「帰る場所」
「結界の家のことか?」
「そこも」
カコが、ラウルたちへ目を向けた。
「結界の家と、村が帰る場所」
「そうだな。どっちにも帰らないとな」
「うん」
「必ず村へ戻れ」
ラウルが言う。
「一緒に?」
カコが俺を見上げる。
「もちろんだ。俺もカコも、ミメシスもコーデックスも、一緒に戻る」
『当然だ!』
《帰還経路の確保を優先事項へ設定します》
【転送用魂力 _ _ 収束】
床からあふれ出した光が足元へ絡みつき、そのまま俺たちの身体をゆっくりと包み込んでいく。
その瞬間だった。
《警告します》
「今度は何だ!」
《転送先周辺に複数の生命反応を検出》
ラウルたちの表情が、一斉に変わった。
「人間か? それとも魔物か?」
《判別不能です》
「数は?」
《小型反応が複数あり》
《大型反応が一あります》
「転送を止めろ!」
ラウルがすぐに叫んだ。
《中断処理が間に合いません》
「そういう情報は、もっと早く言ってくれ!」
《生命反応を現在検出しました》
『魔物ならば、転送したあとで我がすべて斬ればよい!』
「俺はまだ治療中なんだぞ!」
『ほとんど治っているのだろう!』
「そういう問題じゃない!」
「ケイ」
カコが、俺の手を握ったまま言った。
「一緒」
青白い光の中でも、淡い青銀色の瞳だけは、真っすぐに俺を見つめていた。
「何がいても、離れない」
「ああ。絶対に離れない」
「勝手に前へ行かない?」
「行かない。カコも勝手に動くなよ」
「うん」
『我もいるぞ!』
「分かってる。何か出ても、まず状況を確認してからだ!」
『強敵なら宝剣へ……』
「まずは通常のままだ!」
「大斧は禁止」
『まだ言うのか!』
【転送 _ _ 開始】
青白い光が一気に視界全体を埋め尽くし、最後に聞こえたのは、遠ざかっていくラウルの声だった。
「必ず戻れ!」
次の瞬間、足元の感覚が完全に消え、身体が白い光の中へ投げ出されたように浮かび上がった。
上下も前後も一瞬分からなくなったが、それでも右手には、カコの手を握っている感触が残っていた。
「ケイ」
「ここにいる。離してない」
「うん」
だが、転送が終わるより先に、転送先から流れ込んでくるような低い音が聞こえ始めた。
「グルルルルル……」
「……何だ?」
獣の唸り声は一方向からではなく、右や左、正面から重なるように響いていた。
『狼型の魔物か?』
「たぶん。でも、大型反応が一つあったはずだ」
《転送完了後、周辺解析を実行します》
「グルルルルル……」
獣たちの唸り声がさらに近づき、その奥から、地面そのものを震わせるような巨大な咆哮が響いた。
「グオオオオオオオッ!」
その声を耳にした瞬間、身体の奥から冷たいものが込み上げた。
聞き間違えるはずがない。
ダンジョンの奥まで俺を追い詰め、剣を叩き折り、巨大な棍棒で命を奪おうとした魔物。
俺がカコのいる結界へ落ちるきっかけとなった、あのオーガの声だった。
「……嘘だろ」
「ケイ?」
「この声、知ってる」
「誰?」
「俺を結界へ落とした、あのオーガだ」
青白い光が薄れていくにつれ、足元に湿った土と落ち葉の感触が戻ってきた。
土と木々の匂いが鼻をくすぐり、目の前に、あの日と変わらない森の景色が現れる。
そこは、俺が初めてカコと出会った場所だった。
ここが、保護領域外縁・地上搬送口なのだろう。
空を覆う巨大な木々も、あの日に倒れていた地面も、記憶の中にある光景と変わらない。
俺たちは確かに、結界の中へ戻ってきた。
しかし、森の様子はあの日とは明らかに違っていた。
「グルルルルル……」
木々の間に、一つ、また一つと赤い光が浮かび上がる。
右側にも左側にも現れ、数え切るより先に、さらに奥で新たな赤い目が開いた。
「囲まれてる」
カコは俺の手を握ったまま、周囲を見回した。
「ああ。転送した瞬間から、完全に囲まれてるみたいだ」
『我が主!』
「分かってる!」
俺はカコの手を離さないまま、空いている左手で背中のミメシスの柄へ触れた。
その時、群れのさらに奥にある太い木々の向こうで、巨大な影がゆっくりと動いた。
ズン、と一歩踏み出すたびに地面が揺れ、木々の隙間から赤黒い巨大な腕が姿を現す。
「グオオオオオオオッ!」
今度は、間違いなく近い。
「……やっぱり、あいつだ」
俺がこの世界で初めて本気で死を覚悟した相手。
あのオーガが、先生のもとへ続く中層への道を塞ぐように、再び俺たちの前へ姿を現そうとしていた。




