第5話 誰も入れない結界の中へ落ちた俺は、少女カコと暮らすことになりました
「その結界って、どれくらいの範囲を囲んでるんだ?」
「森と、家と、畑が全部入るくらい」
「ちょっと待て。森全部を囲うくらい巨大な結界なのか?」
俺は思わず、身体を起こしかけた。
「痛っ……!」
「動かないで」
「悪い。でも、そんな巨大な結界が本当にあるのか?」
「あるよ」
カコは、当たり前のように答えた。
「ここは、外とは切り離されてるから」
「切り離されてるって、どういう意味だ?」
「外からは誰も入れない」
「じゃあ、中から外へは出られるのか?」
「出られない」
「……誰も?」
「うん」
カコは、静かに言葉を続けた。
「人も、魔物も、外から入れないし、中にいる人も、外には出られない」
俺は、落ちてきたときのことを思い出した。
魔法陣と機械的な声、遠隔保護領域、強制転送、そして今いるこの場所。
「でも、俺はこの結界の中へ入ってきたぞ」
「だから、変なの」
カコが俺を見た。その瞳には初めて、はっきりとした不安が浮かんでいた。
「本当なら、誰も入ってこられないはずなの」
「空から落ちてきた場合でも入れないのか?」
「入れない」
「鳥はどうなんだ?」
「結界の中にいる鳥だけ」
「雨は?」
「降るよ」
「空も普通に見える?」
「見えるよ」
「でも、人や魔物だけは外と完全に切り離されてるのか」
「うん」
「……分からないな。俺の知ってる結界とは規模が違いすぎる」
「私も全部は分からないよ」
「先生から教わっただけなのか?」
「うん」
カコは、膝の上で指を重ねた。
「先生も、ケイみたいに外から人が入ってくることはないって言ってた」
俺はここまで聞いた話を、頭の中で整理した。
オーガに追い詰められた迷宮で謎の魔法陣が起動して、強制転移によって、本来なら誰も侵入できない巨大な結界の中へ落ちてきた。
「つまり、本来なら入れない場所へ入ってきた俺が……唯一の例外ってことか」
「たぶん」
「ただの例外ならいいけど……歓迎されてない例外かもしれないな」
「どうして?」
「俺が無理やり転移させられたせいで、結界そのものを壊して中へ入った可能性もあるだろ?」
もし俺が落ちてきたことで結界のどこかが壊れているのなら、これは俺だけの問題ではない。
これまで誰も入れなかった安全な場所へ、外から魔物が侵入できるようになるかもしれない。
そうなれば、ここで一人暮らしているカコまで危険に巻き込んでしまう。
「……悪い。助けてもらったばかりなのに、俺は面倒ごとまで持ち込んだかもしれない」
「ううん」
カコは、すぐに首を横へ振った。
「まだ何も起きてないよ」
「今はな。でも、これから何か起きるかもしれない」
「そのとき考えればいい」
「ずいぶん落ち着いてるな。俺だったら、もっと慌ててると思う」
「慌てても、起きたことは変わらないから」
「それも先生から教わったのか?」
「うん」
そう答えて俺を見たカコの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「それに」
「それに?」
「一人より、ずっといいから」
何気なく口にしたように聞こえたが、その一言は妙に深く胸の奥へ残った。
家族も村もなく、近くには誰もいない。
自分を育ててくれた先生も帰ってこないまま、カコはこの広い森の一軒家で、ずっと一人きりで暮らしていた。
だからこそ、正体も分からないまま空から落ちてきた俺に対してさえ、一人でいるよりはいいと言ったのだろう。
「……そっか。ずっと一人だったんだもんな」
俺は、それ以上何を言えばいいのか分からなかった。
同情するのも、簡単にかわいそうだと言うのも違う気がした。
カコはきっと、俺には想像もできないほど長い間、先生の帰りを待ちながら、この場所で一人きりで生きてきたのだ。
「だから」
カコは、そのまま言葉を続けた。
「傷が治るまで、ここにいていいよ」
「……本当にいいのか? 俺が何者かも、まだほとんど分からないんだぞ」
「森で倒れてた人」
「それしか分かってないじゃないか」
「名前も知ってる」
「俺の名前を知ってるだけだろ!」
「今は、それでいい」
カコは、本気でそう思っているようだった。
「じゃあ、傷が治った後はどうする?」
「分からない」
「治ったら追い出されるとか?」
「結界から出られたら」
「……そうだった。そもそも外へ出る方法がないんだったな」
俺は木の天井を見上げた。
オーガから逃れ、空から落ちたにもかかわらず、奇跡的に生き延びることができた。
だが今度は、誰も出られない結界の中へ閉じ込められ、外へ戻る方法も、ここへ落ちてきた原因すら分からない。
考え始めれば、いくらでも不安は浮かんでくる。
それでも、今の身体では何もできない。
まずは生き延びたことを喜び、傷を治すことから始めるしかなかった。
「今はいくら考えても仕方ないな。まずはこの身体を治して、ちゃんと歩けるようになるところから始めるか」
「うん」
「しばらく世話になる。本当に迷惑をかけるかもしれないけど、よろしく頼む」
「うん」
「……さっきから『うん』ばっかりだけど、本当にいいんだな?」
「いいよ」
「そっか。じゃあ改めて……よろしくな、カコ」
カコはしばらく俺を見つめたあと、小さく、けれど今度は確かにうなずいた。
「よろしく、ケイ」
暖炉の中で薪が崩れ、パチッという音とともに、小さな火の粉が舞い上がった。
暖かな火が壁を照らし、暖炉の上に置かれた黒い剣が、一瞬だけ光を吸い込んだように見えた。
本来なら誰も入れないはずの結界へ、なぜ俺だけが落ちてきたのか。
この広い結界の中で、なぜカコという少女が一人きりで暮らしているのか。
カコが本当は何者なのか。
そして、暖炉の上に静かに置かれていたあの黒い剣が、俺の手が触れる瞬間を、何千年もの間待ち続けていたことも。
このときの俺は、まだ何一つ知るはずがなかった。




