第46話 借りた家の寝台を近づけたら、カコが手を握ったまま寝ることになりました
俺たちが一週間借りることになった家は、治療所のすぐ隣にある小さな木造の家だった。
中には二つの部屋があり、奥には狭いながらも台所がついている。
寝室には二台の簡素な寝台が、左右の壁際に一台ずつ置かれていた。
「二つある」
カコが、二台の寝台を見比べた。
「ちょうどよかったな。一人一台使える」
「離れてる」
二台の寝台は部屋の左右に置かれており、その間にはかなりの距離があった。
「普通、寝台って少し離して置くものじゃないか?」
「どうして?」
「どうしてって……寝る場所だからだろ」
「結界の家では、同じ寝台だった」
「あれは俺が大怪我してて、ほとんど動けなかったからだ」
「今も怪我人」
「それはそうだけど……」
カコが突然、片方の寝台の脚を両手で掴んだ。
ずずず、と木の床を擦る音が響き、寝台がもう一方へ向かって動き始める。
「ちょっと待て。何してるんだ?」
「近づける」
「どうして?」
「夜に、ケイの熱が出るかもしれない」
「隣まで来なくても、具合が悪くなれば声をかけられるだろ」
「寝てたら聞こえない」
「カコ」
「動かす」
ずずず、とさらに寝台が近づいていく。
二つの寝台の間隔は、最初の半分ほどになった。
「これくらい」
「かなり近くないか?」
「まだ遠い」
「これ以上近づけたら、ほとんど隣だろ」
「じゃあ、これでいい」
カコは、ようやく寝台から手を離した。
『カコは、ずいぶん我が主を心配しているな!』
「怪我人だから」
『それだけか?』
「それだけ」
カコは即答した。
だが、なぜか俺の方を見ようとはしなかった。
《心拍数の上昇を確認しました》
「何を勝手に確認してるんだ!」
《カコとケイ、両名です》
『二人ともか!』
「コーデックス、お前まで余計なことを言うな!」
《健康状態の把握は重要です》
『これは使えるな、全書!』
《評価を受理します》
「ミメシス」
『なんだ、我が主』
「今すぐ黙らないと、家の外に置くぞ」
『理不尽だ!』
その時、扉がコンコンと軽く叩かれた。
「誰ですか?」
「私よ」
エナの声だった。
扉を開けると、エナは大きな籠を両手で抱えて立っていた。
「夕食を持ってきたわ」
「わざわざ届けてくれたんですか?」
「怪我人に料理をさせるわけにはいかないでしょう」
「カコは料理できますよ」
「そうでしょうね」
エナが、カコへ視線を向けた。
「薬草を迷わず調合していたもの。少なくとも、火や刃物の扱いには慣れているでしょう」
「でも今日は、二人とも疲れているでしょう」
「平気」
「平気でも、休んでいいのよ」
エナは籠を台所の小さな机へ置いた。
中には丸いパンや湯気を立てる鍋、木の器、そして黄色い果物が三つ入っていた。
「これ、村の人が用意してくれたんですか?」
「半分は治療所から」
「その果物はルカからよ」
「またルカか」
「自分の分を持ってきたらしいわ」
カコが、籠の中にある黄色い果物をじっと見つめた。
「甘い?」
「少し酸っぱいわ」
「赤い実とは違う?」
「全然違う」
カコは果物から目を離さず、それを見たエナが少し笑った。
「食べる前に皮をむくのよ」
「皮は食べられない?」
「食べても毒ではないけど、苦いわ」
「先生は、知らない食べ物を――」
「食べるなって教えた?」
「うん」
「それは正しい教えね」
エナは黄色い果物を一つ手に取り、小さな刃物で皮をむき始めた。
黄色い皮の下から、白い果肉がゆっくりと現れる。
「でも、知っている人に教えてもらえばいいのよ」
エナが、一切れ切り分けた果物をカコへ差し出した。
「食べてみる?」
カコは、すぐに俺を見た。
「大丈夫だと思うぞ」
「ケイも食べる?」
「先にカコが食べていいよ」
「一緒」
エナは何も言わず、もう一切れを俺へ渡してくれた。
俺たちは、同時に果物を口へ入れた。
「酸っぱ……!」
予想していたよりもかなり強い酸味に、俺は思わず顔をしかめた。
隣を見ると、カコも目を細めている。
「酸っぱい」
「本当に言われた通りだったな」
「でも、少し甘い」
カコは、ゆっくりと果物を噛みしめた。
「確かに、あとから甘くなるな」
「もう一つ食べる?」
「食べる」
俺とカコは同時に果物へ手を伸ばし、指先が触れた。
「あ」
カコの手が、ぴたりと止まった。
「悪い。カコが取っていいぞ」
「半分にする」
「かなり小さくなるぞ?」
「一緒がいい」
エナは何も言わず、二人が手を伸ばした一切れを半分に切り分けた。
「はい」
「「ありがとうございます」」
「どういたしまして」
エナは、なぜか少し楽しそうに笑っていた。
「何ですか?」
「何でもないわ」
「絶対何かありますよね?」
「怪我人は、余計なことを考えない」
「便利な言葉ですね、それ」
エナは食事の準備を整えると、空になった籠を持ち上げた。
「何かあったら、すぐ治療所へ呼びに来て」
「分かりました」
「特に、熱が出た時は薬を飲むこと」
エナがカコへ視線を向ける。
「分かった」
「ケイではなく、あなたに頼んだわよ」
「どうして俺じゃないんですか?」
「あなたは自分が大丈夫かどうか、正しく判断できないでしょう」
「今日会ったばかりなのに、もう信用されてない……」
エナは笑うと、隣の治療所へ戻っていった。
◇
その日の夜、夕食を終える頃には身体がかなり重くなっていた。
エナが言っていた通り、少し熱が出ているらしい。
「寝る!」
カコが、当然のように言った。
「そうするよ」
「横になって」
「分かってる」
「ミメシスは遠くに置く」
『なぜだ!』
「倒れてきたら危ない」
『我は倒れん!』
「前に倒れた」
『あれは床が悪かったのだ!』
《この家の床面に、大きな傾斜は確認できません》
『紙束は床を調べるな!』
俺はミメシスを部屋の隅へ置き、コーデックスは天井近くに浮かんでいた。
「そういえば、お前たちは寝ないのか?」
『我は眠ろうと思えば眠れるぞ!』
「また何年も起きなかったりしないのか?」
『だから寝ん!』
《私は休止状態への移行が可能です》
「朝になったら、ちゃんと起きられる?」
《時間指定があれば可能です》
『紙束のくせに便利だな!』
《全書と呼ぶ条件には達していませんか》
『自分から要求するな!』
俺は寝台へ横になった。
傷がじわじわと痛み、目を閉じようとした時、すぐ近くから衣擦れの音が聞こえた。
目を開けると、カコが自分の寝台へ行かず、俺の横に立っていた。
「どうした?」
「熱を見る」
カコの額が、俺の額へそっと触れた。
ひんやりとした感触が、熱を持った身体には心地よかった。
「熱い」
《ケイの体温上昇を確認しました》
「うるさい! 大丈夫だ!」
「薬を煮るって、エナが言ってた」
「そこまで高い熱じゃないと思うぞ」
「私が決める」
「本人の意見は?」
「信用できない」
「またそれか……」
カコが台所へ向かおうとする。
俺は、その手首を掴んだ。
「本当に大丈夫だ。少し寝れば下がるから」
「本当に?」
「ああ」
「嘘じゃない?」
「たぶん」
「たぶんは、本当じゃない」
「カコだって疲れてるだろ」
「私は平気」
「平気でも休んでいいって、エナも言ってただろ」
カコは少し考え、俺を見た。
「ケイも言われてた」
「俺はもう横になって休んでる」
「薬を飲ませたら、私も休む」
「……分かった」
俺が手首を離すと、カコは台所へ向かった。
しばらくすると、薬草を煮る苦い匂いが寝室まで漂ってくる。
カコは湯気の立つ木の器を両手で運び、俺へ差し出した。
「飲んで」
「やっぱり、ものすごく苦そうだな」
「薬だから」
「少しくらい冷ましてからでも――」
「飲んで」
「分かったよ」
俺は身体を起こし、器に入った薬を少しずつ飲んだ。
匂いから想像していた通りの強烈な苦味が、口の中いっぱいに広がる。
「苦い……」
「全部」
「少し残すのは?」
「駄目」
結局、カコに見張られながら最後の一滴まで飲み干した。
空になった器を確認すると、カコはようやく満足したように頷いた。
「これで寝る」
「そうしてくれ」
カコは器を台所へ戻し、自分の寝台へ向かった。
だが、途中で足を止めた。
「ケイ」
「何だ?」
「先生を見つけたら……、ケイは、どこか行くの?」
突然の質問だった。
「まだ俺が、元いた場所へ帰る方法を探してないからな」
「帰る?」
カコの表情が、少しだけ固くなった。
「一人で?」
「今すぐの話じゃないよ」
「でも、いつか?」
「……それは、まだ分からない」
俺は正直に答えた。
嘘をついて安心させることもできる。しかし、それでは、あとになって言葉に矛盾が生まれる。
希望を与えるためだけの嘘は、いつか余計にカコを傷つける。
「今は、先生を探すことが先だ」
「一緒に見つけるまで?」
「ああ。見つけたあとも、何も言わずにいなくなったりはしない」
カコが、その言葉に敏感に反応した。
「先生も、すぐ戻るって言った」
しまったと思った時には、もう遅かった。
カコの目が、少しだけ伏せられる。
「悪い。今の言い方はよくなかったな」
「……うん」
俺は上半身を起こそうとした瞬間、傷が痛んだ。
「痛っ!」
「動いたら駄目」
カコがすぐに近づき、俺の肩を押して寝台へ戻した。
「ちょっと待て。そこまで強く押さなくても……」
「ケイが動くから」
「カコとちゃんと話したかっただけだよ」
「寝たままでも話せる」
「……それもそうだな」
カコは、俺の寝台の横へ静かに座った。
「俺は、カコを置いて何も言わずにいなくなったりしない」
「何か言えば、いなくなる?」
「そういう意味じゃない。どこかへ行く必要があるなら、その時は必ずカコと話す」
「一緒に行ける?」
「危険じゃなければ」
「危険でも行く」
「それは困る」
「ケイも危険なところに行くの?」
「俺は……」
言い返そうとしたが、途中でやめた。
確かに俺だけが危険な場所へ向かい、カコには待っていろと言っている。
それでは、カコを一人残して外へ出た先生と同じだった。
「分かった、勝手に決めないで一緒に考える。それならいいか?」
「うん。一緒に考える」
カコの手が、寝台の上に置いていた俺の手へそっと重なった。
「ああ」
「一緒に行く」
「できるだけな」
「できるだけ?」
「全部は約束できないからな」
「どうして?」
「風呂とか……」
「一緒に入る?」
「そういう意味じゃない!」
思わず声が大きくなり、同時に傷へ痛みが響いた。
「痛っ!」
「大声を出すから」
「誰のせいだ!」
『我は一緒でも構わんぞ!』
「お前は部屋の隅にいろ!」
《入浴時には、水分から離すことを推奨します》
『紙束は真面目に答えるな!』
カコが、小さく笑った。
それでも、俺の手を握ったまま離そうとはしなかった。
「カコ、そろそろ寝ないか?」
「寝る」
「じゃあ、その手は?」
「熱を見るため」
「手でも熱が分かるのか? 額じゃなくても?」
「たぶん」
「たぶんかよ」
「離した方がいい?」
カコが、俺の手から指を離そうとする。
俺は、ほんの少しだけ自分の指へ力を込めた。
「そのままでいい」
「うん」
カコは俺の寝台へ寄りかかるように座り、俺の手を握ったまま、結局自分の寝台へは戻らなかった。




