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『時環境界と四系統の継承者』  作者: あらけい
第一部 結界の森と、帰る場所

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第37話 記憶に触ると危険らしいので、先生の痕跡だけを追うことにしました

 記憶閲覧回廊の内部は、これまで通ってきた施設のどこよりも静まり返っていた。


 壁の両側には半透明の板が隙間なく並び、その表面には人の顔や見たことのない建物、空を飛ぶ巨大な船、光に包まれた都市など、さまざまな映像が一瞬だけ浮かんでは消えていく。


「これって、全部昔の記録なのか?」


《施設利用者から取得された経験情報です》


《利用履歴の一部として、個人の記憶断片が保存されています》


「記録とは違うのか? 昔に起きたことを残してるなら、同じように思えるけど」


《記録とは、事実を保存した情報です》


《一方、記憶とは個人が経験し、認識した情報を保存したものです》


「つまり、同じ出来事でも見た人によって内容が違うってことか?」


《肯定します》


《感情、認識、誤解、恐怖、希望》


《それらも含めて保存されています》


「ずいぶん面倒そうだな。本人が勘違いしていたら、その勘違いまで一緒に残るんだろ?」


《人間の記憶は、元来そのようなものです》


『我の記憶は、もっと明確であったはずだ!』


「お前、自分の過去をほとんど忘れてるだろ」


『だからこそ、忘れる前は明確だった可能性が高いのだ!』


「明確だったかどうかまで分からないなら、それは明確じゃないのと同じじゃないか?」


『違う!』


《論理的には、ほぼ同一です》


『紙束は黙っていろ!』


 ミメシスの大声が、静まり返った通路へ響き渡った。


 その直後、俺たちのすぐ近くにあった半透明の板の一枚が、突然強い青白い光を放った。


「――急いで!」


「っ!?」


 半透明の板から突然響いた女性の叫び声に反応し、俺は反射的にミメシスの柄へ手をかけた。


 板には白い服を着た若い女性が映し出されていたが、こちらを見ているわけではない。


 女性は何かから必死に逃げるように、薄暗い通路を走っていた。


「封鎖が間に合わない!」


「この区画を切り離して! このままでは施設全体へ広がる――!」


 女性の背後では赤い光が激しく明滅し、耳障りな警報音が鳴り響いていた。


 床には何人もの人々が倒れ、遠くでは巨大な扉が次々と閉じていく。


 そして、女性がさらに何かを叫ぼうとした瞬間、映像は突然途切れた。


「……今の人は誰なんだ?」


《個体情報を確認できません》


「そのあと助かったのか?」


《不明です》


「……そうか」


 この施設では、昔、何か大きな事故か襲撃が起きたのだろう。


 映像だけでは詳しいことまでは分からない。


 それでも、決して穏やかな出来事ではなかったことだけは、十分すぎるほど伝わってきた。


「触ったら、もっと見られる?」


 カコが興味を引かれたように半透明の板へ手を伸ばす。


《接触を推奨しません》


 その言葉を聞いたカコの手が、途中でぴたりと止まった。


「危ないの?」


《記憶接続機能が残存している可能性があります》


「接続すると、どうなるんだ?」


《保存された記憶を、自身の経験として認識する危険があります》


「他の人の記憶が、自分の記憶になっちゃうの?」


《正確には、一時的な混同です》


《ただし、現在の施設状態では正常に解除できない可能性があります》


「カコ、触らない方がいい。それはさすがに危なすぎる」


「うん。分かった」


 カコは素直に手を引っ込めた。


『小娘は、何でも触ろうとするな』


「ケイも、いろいろ触ってるよ」


「俺は好きで全部触ったわけじゃないからな」


「結界は?」


「それは……自分から触ったけど」


『しかも我に斬らせた!』


「お前も楽しそうに斬っただろ!」


《両者とも不用意だったと判断します》


「コーデックスまで一緒になって責めるなよ」


 俺たちは半透明の板へ不用意に触れないよう注意しながら、記憶閲覧回廊のさらに奥へ進んでいった。


     ◇


 しばらく歩いたところで、前を歩いていたカコが突然足を止めた。


「ケイ、手」


「手?」


 カコが俺の右手を見つめている。


「震えてる」


 言われて初めて、ミメシスの柄を握る右手がわずかに震えていることに気づいた。


「さっきの戦いのせいだ。少し休めば戻ると思う」


「痛い?」


「少しだけ」


「少し?」


「……かなり痛い」


「休む」


「でも、先生の手掛かりがこの先にあるかもしれないだろ」


「休んでから探す」


「まだ歩けるぞ」


「歩けても、途中で倒れるかもしれない」


「倒れないって」


「最初の日も、倒れてた」


「あれはオーガに襲われた直後だからだ」


「今日も襲われたよ」


「狼と六本腕だけどな。状況は全然違うと思うぞ」


「座って」


 カコが、通路の壁際を指さした。


「また正座か?」


「今日は普通でいい」


「そこは許してくれるんだな」


 俺は素直に従い、壁へ背中を預けて座り込んだ。


 それまで無理やり動かしていた身体から力を抜いた瞬間、肩や脇腹、背中や腕に、意識しないようにしていた痛みが一斉に戻ってきた。


「痛っ……やっぱり動いてる時は、痛みを忘れてたみたいだな」


「忘れたら駄目」


「戦ってる最中に傷ばかり気にしてたら、本当に死ぬだろ」


「死ぬのも駄目」


「分かってるよ。俺だって死にたいわけじゃない」


 カコが荷物の中から、水を入れた革袋を取り出す。


「飲んで」


「ありがとう。ちょうど喉も渇いてた」


 冷たい水を口に含むと、その冷たさが喉を通り、身体の奥まで染み渡っていくように感じた。


『我にも寄越せ!』


「剣が水を飲んでどうするんだよ」


『我が主だけ休んでいるのが気に入らん!』


「だったら、お前も床に寝かせて休ませてやる」


『丁重に置け!』


 俺はミメシスを鞘ごと外し、隣の壁へ立てかけた。


『なぜ我が主からそんなに離す!』


「倒れてきたら危ないからだ」


『我は倒れん!』


 そう言い切った直後、壁へ立てかけていたミメシスがゆっくりと横へ傾いた。


 ガタン。


『…………』


「倒れたな」


『床が悪い!』


《床面に異常は確認できません》


『紙束はわざわざ確認するな!』


 カコは床へ倒れたミメシスを拾い上げ、今度は俺の手が届く位置へ静かに立て掛けた。


『うむ。カコは気が利くな』


「こっちに倒れてこない向きにしただけ」


『信用されていない!』


「当たり前だろ」


 俺たちが休んでいる間、コーデックスは周囲をゆっくりと飛び回っていた。


「何を調べてるんだ?」


《先生と呼ばれる人物の通過情報を検索しています》


 その言葉を聞いたカコが、すぐに顔を上げた。


「分かる?」


《先ほど確認した防衛個体の記録を基準に、同一端末の反応履歴を追跡しています》


「先生が右手首にはめていた黒い輪か」


《肯定します》


 先生の右手首にあった黒い輪は、この施設の一部へアクセスするための管理補助端末だったらしい。


 しばらくすると、コーデックスのページが淡い光を放った。


《管理補助端末の反応痕跡を検出》


「本当?」


 カコが勢いよく立ち上がった。


《現在地から四十七メートル先》


《外部連絡通路方面へ移動した履歴が残存しています》


「外部連絡通路って、施設の外へ出るための道なのか?」


《肯定します》


「先生は、そこへ向かった?」


《端末反応の履歴を基準とすれば、その可能性が高いと判断します》


「行こう」


 カコが、今にも走り出しそうな勢いで歩き始めた。


「ちょっと待ってくれ」


「まだ痛い?」


「休もうって言った本人が、先に行くなよ。まだ少ししか休んでないだろ」


「先生の手掛かりが見つかったから」


「分かった、分かった。俺も行くから少し待て」


 俺は壁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。


 脚は動く。腕にも痛みはあるが、ミメシスを持てないほどではなかった。


「無理しないでね」


「カコもな」


「私は怪我してないよ」


「さっき狼に追いかけられただろ」


「障壁が守ってくれたから」


『紙束が珍しく役に立ったからな』


《評価として受理します》


『全書とは呼んでいないぞ!』


《確認済みです》


「その呼び方の違い、毎回確認するのか?」


『重要なことだ!』


 俺たちはコーデックスの案内に従い、外部連絡通路へ残された先生の痕跡を追って歩き始めた。

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