第37話 記憶に触ると危険らしいので、先生の痕跡だけを追うことにしました
記憶閲覧回廊の内部は、これまで通ってきた施設のどこよりも静まり返っていた。
壁の両側には半透明の板が隙間なく並び、その表面には人の顔や見たことのない建物、空を飛ぶ巨大な船、光に包まれた都市など、さまざまな映像が一瞬だけ浮かんでは消えていく。
「これって、全部昔の記録なのか?」
《施設利用者から取得された経験情報です》
《利用履歴の一部として、個人の記憶断片が保存されています》
「記録とは違うのか? 昔に起きたことを残してるなら、同じように思えるけど」
《記録とは、事実を保存した情報です》
《一方、記憶とは個人が経験し、認識した情報を保存したものです》
「つまり、同じ出来事でも見た人によって内容が違うってことか?」
《肯定します》
《感情、認識、誤解、恐怖、希望》
《それらも含めて保存されています》
「ずいぶん面倒そうだな。本人が勘違いしていたら、その勘違いまで一緒に残るんだろ?」
《人間の記憶は、元来そのようなものです》
『我の記憶は、もっと明確であったはずだ!』
「お前、自分の過去をほとんど忘れてるだろ」
『だからこそ、忘れる前は明確だった可能性が高いのだ!』
「明確だったかどうかまで分からないなら、それは明確じゃないのと同じじゃないか?」
『違う!』
《論理的には、ほぼ同一です》
『紙束は黙っていろ!』
ミメシスの大声が、静まり返った通路へ響き渡った。
その直後、俺たちのすぐ近くにあった半透明の板の一枚が、突然強い青白い光を放った。
「――急いで!」
「っ!?」
半透明の板から突然響いた女性の叫び声に反応し、俺は反射的にミメシスの柄へ手をかけた。
板には白い服を着た若い女性が映し出されていたが、こちらを見ているわけではない。
女性は何かから必死に逃げるように、薄暗い通路を走っていた。
「封鎖が間に合わない!」
「この区画を切り離して! このままでは施設全体へ広がる――!」
女性の背後では赤い光が激しく明滅し、耳障りな警報音が鳴り響いていた。
床には何人もの人々が倒れ、遠くでは巨大な扉が次々と閉じていく。
そして、女性がさらに何かを叫ぼうとした瞬間、映像は突然途切れた。
「……今の人は誰なんだ?」
《個体情報を確認できません》
「そのあと助かったのか?」
《不明です》
「……そうか」
この施設では、昔、何か大きな事故か襲撃が起きたのだろう。
映像だけでは詳しいことまでは分からない。
それでも、決して穏やかな出来事ではなかったことだけは、十分すぎるほど伝わってきた。
「触ったら、もっと見られる?」
カコが興味を引かれたように半透明の板へ手を伸ばす。
《接触を推奨しません》
その言葉を聞いたカコの手が、途中でぴたりと止まった。
「危ないの?」
《記憶接続機能が残存している可能性があります》
「接続すると、どうなるんだ?」
《保存された記憶を、自身の経験として認識する危険があります》
「他の人の記憶が、自分の記憶になっちゃうの?」
《正確には、一時的な混同です》
《ただし、現在の施設状態では正常に解除できない可能性があります》
「カコ、触らない方がいい。それはさすがに危なすぎる」
「うん。分かった」
カコは素直に手を引っ込めた。
『小娘は、何でも触ろうとするな』
「ケイも、いろいろ触ってるよ」
「俺は好きで全部触ったわけじゃないからな」
「結界は?」
「それは……自分から触ったけど」
『しかも我に斬らせた!』
「お前も楽しそうに斬っただろ!」
《両者とも不用意だったと判断します》
「コーデックスまで一緒になって責めるなよ」
俺たちは半透明の板へ不用意に触れないよう注意しながら、記憶閲覧回廊のさらに奥へ進んでいった。
◇
しばらく歩いたところで、前を歩いていたカコが突然足を止めた。
「ケイ、手」
「手?」
カコが俺の右手を見つめている。
「震えてる」
言われて初めて、ミメシスの柄を握る右手がわずかに震えていることに気づいた。
「さっきの戦いのせいだ。少し休めば戻ると思う」
「痛い?」
「少しだけ」
「少し?」
「……かなり痛い」
「休む」
「でも、先生の手掛かりがこの先にあるかもしれないだろ」
「休んでから探す」
「まだ歩けるぞ」
「歩けても、途中で倒れるかもしれない」
「倒れないって」
「最初の日も、倒れてた」
「あれはオーガに襲われた直後だからだ」
「今日も襲われたよ」
「狼と六本腕だけどな。状況は全然違うと思うぞ」
「座って」
カコが、通路の壁際を指さした。
「また正座か?」
「今日は普通でいい」
「そこは許してくれるんだな」
俺は素直に従い、壁へ背中を預けて座り込んだ。
それまで無理やり動かしていた身体から力を抜いた瞬間、肩や脇腹、背中や腕に、意識しないようにしていた痛みが一斉に戻ってきた。
「痛っ……やっぱり動いてる時は、痛みを忘れてたみたいだな」
「忘れたら駄目」
「戦ってる最中に傷ばかり気にしてたら、本当に死ぬだろ」
「死ぬのも駄目」
「分かってるよ。俺だって死にたいわけじゃない」
カコが荷物の中から、水を入れた革袋を取り出す。
「飲んで」
「ありがとう。ちょうど喉も渇いてた」
冷たい水を口に含むと、その冷たさが喉を通り、身体の奥まで染み渡っていくように感じた。
『我にも寄越せ!』
「剣が水を飲んでどうするんだよ」
『我が主だけ休んでいるのが気に入らん!』
「だったら、お前も床に寝かせて休ませてやる」
『丁重に置け!』
俺はミメシスを鞘ごと外し、隣の壁へ立てかけた。
『なぜ我が主からそんなに離す!』
「倒れてきたら危ないからだ」
『我は倒れん!』
そう言い切った直後、壁へ立てかけていたミメシスがゆっくりと横へ傾いた。
ガタン。
『…………』
「倒れたな」
『床が悪い!』
《床面に異常は確認できません》
『紙束はわざわざ確認するな!』
カコは床へ倒れたミメシスを拾い上げ、今度は俺の手が届く位置へ静かに立て掛けた。
『うむ。カコは気が利くな』
「こっちに倒れてこない向きにしただけ」
『信用されていない!』
「当たり前だろ」
俺たちが休んでいる間、コーデックスは周囲をゆっくりと飛び回っていた。
「何を調べてるんだ?」
《先生と呼ばれる人物の通過情報を検索しています》
その言葉を聞いたカコが、すぐに顔を上げた。
「分かる?」
《先ほど確認した防衛個体の記録を基準に、同一端末の反応履歴を追跡しています》
「先生が右手首にはめていた黒い輪か」
《肯定します》
先生の右手首にあった黒い輪は、この施設の一部へアクセスするための管理補助端末だったらしい。
しばらくすると、コーデックスのページが淡い光を放った。
《管理補助端末の反応痕跡を検出》
「本当?」
カコが勢いよく立ち上がった。
《現在地から四十七メートル先》
《外部連絡通路方面へ移動した履歴が残存しています》
「外部連絡通路って、施設の外へ出るための道なのか?」
《肯定します》
「先生は、そこへ向かった?」
《端末反応の履歴を基準とすれば、その可能性が高いと判断します》
「行こう」
カコが、今にも走り出しそうな勢いで歩き始めた。
「ちょっと待ってくれ」
「まだ痛い?」
「休もうって言った本人が、先に行くなよ。まだ少ししか休んでないだろ」
「先生の手掛かりが見つかったから」
「分かった、分かった。俺も行くから少し待て」
俺は壁へ手をつき、ゆっくりと立ち上がった。
脚は動く。腕にも痛みはあるが、ミメシスを持てないほどではなかった。
「無理しないでね」
「カコもな」
「私は怪我してないよ」
「さっき狼に追いかけられただろ」
「障壁が守ってくれたから」
『紙束が珍しく役に立ったからな』
《評価として受理します》
『全書とは呼んでいないぞ!』
《確認済みです》
「その呼び方の違い、毎回確認するのか?」
『重要なことだ!』
俺たちはコーデックスの案内に従い、外部連絡通路へ残された先生の痕跡を追って歩き始めた。




