第23話 異世界で何もできなかった俺が、初めてカコと一緒に魔物を倒しました
数か月前、俺は見知らぬ森の中で目を覚ました。
最初に感じたのは、背中へ触れるひんやりとした土の感触だ。
次に目に映ったのは、前世では一度も見たことがないほど巨大な木々と、枝葉の隙間から差し込む柔らかな朝の光だった。
何が起きたのか分からないまま身体を起こそうとして、俺はすぐに強烈な違和感へ気づいた。
腕が細く、手も小さい。着ている服も、自分が知っている物ではない。
近くには、雨水でも溜まったのだろう、小さな水たまりがある。
そこへ顔を映すと、十六歳ほどの少年がこちらを見返していた。
もちろん、俺の知っている顔ではない。
少なくとも、三十歳近くまで生きた前世の俺とは、まったく似ていなかった。
そこで初めて、自分が別の世界へ来たのではないかと考える。
いや、本当にそれを理解できたのは、もう少し後だったのかもしれない。
森の中を何時間もさまよい、ようやく細い街道へ出たところで、通りかかった荷馬車に助けられた。
俺はそのまま、近くの町まで連れていってもらう。
馬に似た生き物が荷車を引き、町へ近づいたころ、腰へ剣を下げた男たちが当たり前のように道を歩いていた。
町の入口では、門番が水晶へ手を触れ、俺の身体を何か調べている。
そこまで見て、ようやく夢でも映画の撮影でもないと認めるしかなくなった。
幸いだったのは、この世界の言葉を話せたことだ。
文字はほとんど読めなかったが、相手の言っていることは分かり、自分が話した言葉もきちんと伝わった。
なぜそんなことができるのか考えてみたが、答えは出ていない。
もっとも、その答えを探している余裕などなかった。
金もなければ、食べ物もない。帰る場所も、頼れる相手もいなかった。
異世界へ来た初日、俺は空腹で倒れかけて、 荷馬車の御者が固いパンを一つくれなければ、たぶん本当に最初の日で死んでいただろう。
前世で読んだ物語には、異世界へ行けば特別な力を与えられる話が多い。
だから俺も、少しくらい何かあるのではないかと期待していた。
だが、何もなかった。
魔法を使おうと手を前へ出してみても、火も水も何ひとつ現れない。
身体能力が特別に高いわけでもなく、重い荷物を持てば普通に疲れる。木剣を握ってみても、構え方さえ分からなかった。
俺が持っていたものは、若い身体と前世の記憶だけだ。
町へ着いてからの最初の三か月は、ただ生きるだけで精いっぱいだった。
宿代を払えず、厩の隅を借りて眠りて、朝から夕方まで荷物を運び、掃除をして、壊れた木箱を直した。
前世で工場勤務だった俺だが、釘を一本まともに打つだけでも難しく、最初は何度も自分の指を叩いた。
それでも働けば、食事を食べられる。
食べる量を少しずつ減らして金を貯めながら、文字や数字、道具の扱い方も覚えていった。
前世と似ている部分もあったため、それらはほかのことより少し早く身につけることができた。
四か月目に入った頃、俺は冒険者ギルドへ向かった。
荷運びを続けるだけでは、いつまで経ってもまとまった金が貯まらない。
冒険者になれば、魔物を倒して大金を稼げる。
そんな甘い考えが少しもなかったと言えば、嘘になる。
だが、現実は当然ながら、それほど甘くはなかった。
俺のような初心者が受けられるのは、町の外で薬草を集めたり、畑を荒らす小動物を追い払ったりする仕事ばかりだ。
初めて剣を買ったときも、三か月かけて貯めた金で手に入れられたのは、安物の片手剣だった。
それでも、何も持っていなかった俺にとっては、大切な最初の剣だ。
毎晩、宿の裏で剣を振る。
見よう見まねで構え、腕が上がらなくなるまで素振りを続けた。
前世の知識があれば、もっと簡単に強くなれる。
最初はそう思っていた。
だが、知識があっても、身体は思い通りには動いてくれない。
剣を振れば腰が引け、魔物を前にすれば足が震える。
初めてゴブリンと遭遇したとき、俺は剣を抜くことさえできない。
同行していた冒険者が倒してくれなければ、俺はそこで死んでいた。
「向いてないんじゃないか?」
その冒険者にもそう言われ、俺自身も同じことを思う。
それでも、冒険者をやめることはできなかった。
ほかに、この世界で生きていく方法を知らなかったからだ。
それから一か月ほど経った頃には、少しだけ魔物にも慣れ、弱い相手なら一人で倒せるようになっていた。
何度か依頼を成功させたことで、俺は自分が強くなったのだと勘違いし始める。
だから、普段なら近づかない森の奥へ進み、そこで見つけた迷宮へ入った。
少しくらいなら大丈夫だ。危なくなったら引き返せばいい。
そんなふうに考えていた。
今思えば、本当に笑えるほど馬鹿な判断だ。
出会ったオーガは想像していたよりも、はるかに動きが速かく。
見つかった瞬間に逃げ道を塞がれ、必死に走っても簡単に追いつかれた。
何度も地面を転がり、最後には巨大な棍棒を振り下ろされて、そして俺は、結界の中へ落ちた。
そこでカコと出会い、ミメシスを手に入れた。
本来なら死んでいたはずの俺が、今もこうして生きている。
だが、この世界へ来てから、まだ数か月しか経っていない。
俺はこの世界について、ほとんど何も知らなかった。
冒険者としても、駆け出しに少し毛が生えた程度にすぎない。
ミメシスがなければ、さっきの狼型の魔物も倒せなかったと思う。
それでも、俺は震えている右手を強く握り締めた。
今度は一人ではない。
俺の後ろには、外の世界を何も知らないカコがいて、俺が逃げれば、カコを危険にさらすことになる。
この数か月でまだ十分に強くなれていないのなら、これから強くなればいい。
少なくとも、オーガを前に何もできなかったあのときと、同じ俺のままではいられない。
◇
「傷を見せて」
カコの声で、意識が現在へ引き戻された。
裂けた服をずらされ、肩や胸の傷を確認される。
「痛い?」
「少しだけ」
「嘘」
「……かなり痛い」
「最初からそう言って」
薬草が、傷口へ押し当てられた。
「痛っ! それ、本当にものすごく染みるぞ!」
「動かないで」
「動いてないけど、これは声くらい出るだろ!」
「薬草が傷に効いてるから」
『情けない声を出すな、我が主』
「お前には痛みがないから、そんなことが言えるんだ!」
『我も先ほど噛まれたぞ!』
「傷一つ付いてないだろ!」
『心が傷ついた!』
「剣に心があるのか?」
『当然だ!』
「口はないのに?」
『口と心は別だ!』
カコの手が一瞬止まり、俯いた彼女の口元がほんの少し緩んだように見えた。
「今、笑ったか?」
「笑ってない」
「いや、絶対少し笑っただろ」
「動かないで」
包帯を、少し強く締められた。
「痛っ! 今のはわざとじゃないか?」
「動いたから」
「本当に?」
「何のこと?」
『小娘も、なかなかやるではないか!』
「お前は黙ってろ!」
治療が終わると、俺は黒い床へ倒れている魔物を見た。
「カコ、さっきは助かった。瓦礫を投げてくれただろ」
「音が出ただけ」
「それで十分だった。あの一瞬がなかったら、槍を深く押し込めなかった」
カコは、自分が投げた瓦礫と倒れた魔物を順番に見た。
「カコも一緒に戦ったんだ」
「私も?」
「ああ」
「武器を持ってないのに?」
「俺を助けてくれた。それだって、ちゃんと戦ったうちに入るだろ」
カコは少し考えたあと、俺へ顔を向けた。
「役に立てた?」
「すごく助かった」
「そう」
返事は短かったが、ほんの少しだけ嬉しそうだった。




