第21話 結界の外で最初の魔物に襲われました
黒い通路の奥から、二つの赤い光がゆっくりとこちらへ近づいてきた。
「グルルルルル……」
低く湿った唸り声が黒い壁と天井へ何度も反響し、冷たい迷宮の空気まで震わせる。
俺の服の裾を握っていたカコが、さらに身体を寄せるようにして背中へ隠れた。
「ケイ」
「大丈夫だ。俺の後ろにいて、絶対に前へ出るな」
「うん」
カコがほんの少しだけ後ろへ下がったところで、壁を流れている青白い光が、暗闇から現れた魔物の全身を照らし出した。
姿そのものは狼に似ている。
だが、俺が知っている普通の狼とは、大きさも身体の作りもまるで違っていた。
四本の脚で立つ姿勢でも、頭の位置は俺の胸ほどの高さにある。
灰色の毛に覆われた巨大な背中には骨のような白い突起が何本も並び、口の両側からは短剣ほどの長さがある牙が突き出していた。
黒い床を踏む四本の脚にも、刃物のように鋭い爪が生えている。
「大きい……」
カコが息を呑むように呟いた。
「ああ。迷宮へ入って最初に会う相手としては、かなり大きすぎるな」
『ほう。見事な牙ではないか』
手の中のミメシスが、なぜか感心したような声を出す。
「感心してる場合か。……やっぱり、あの牙も模倣できないんだよな?」
『できん!』
「即答かよ!」
『前にも言っただろう! 牙も爪も、あの獣の身体の一部だ!』
「あれだけ鋭くて人を殺せるなら、武器と同じようなものだろ!」
『違う!』
黒い刀身が抗議するように震えた。
『我が模倣できるのは、武器として作られた物だけだ。生まれつき備わっている爪や牙は、どれほど鋭くとも武器には分類されん!』
「本当に面倒な制限だな。だったら誰に文句を言えばいいんだよ!」
『我を作った者へ言え!』
「その作った奴がどこにいるんだ!」
『知らん!』
俺とミメシスの声が、静まり返っていた迷宮の中へ大きく響き渡った。
そのとき、狼型の魔物がぴくりと耳を動かし、真っ赤な両目で完全にこちらへ狙いを定めた。
「ほら見ろ。お前が大声を出すから、完全にこっちへ意識を向けたぞ」
『最初から見ていた!』
「だったら余計に刺激するな!」
「二人とも」
後ろから聞こえたカコの声は、いつもより少しだけ硬かった。
「来る」
狼型の魔物が大きな身体を低く沈めた。
赤い視線は俺だけではなく、その後ろにいるカコへまで向けられている。
「カコ、もう少しだけ下がってくれ」
「嫌」
「遠くまで行けって意味じゃない。すぐ後ろの壁まででいい」
「ケイから離れたくない」
「置いていかない。俺の手が届く場所にちゃんといるから、今だけ少し下がってくれ」
「……分かった」
カコが不安そうに俺を見ながら、数歩だけ後ろへ下がって壁際へ移動する。
「絶対に俺の前へ出るなよ。何かあっても、まず俺に言ってくれ」
「うん」
その返事とほとんど同時に、狼型の魔物が黒い床を蹴った。
「来るぞ!」
『見えている!』
巨体からは想像もできない速度で、十数歩あったはずの距離が一瞬で消えた。
大きく開かれた口から突き出した二本の牙が、まっすぐ俺の喉へ迫る。
「っ!」
俺は反射的にミメシスを横向きに構える。
ガキン!
牙が黒い刀身へ食らいつき、まるで金属同士を叩きつけたような硬い音が響いた。
「重っ……! 何だ、この力!」
両腕へ凄まじい衝撃が走り、踏ん張っていた足が黒い床の上を滑る。
『踏ん張れ、我が主!』
「踏ん張ってる! これ以上どうしろっていうんだ!」
魔物は剣へ牙を食い込ませたまま、首を激しく左右へ振った。
俺の身体まで剣ごと振り回され、まだ完全には治りきっていない右脇の傷へ鋭い痛みが走る。
「ぐっ……!」
「ケイ!」
「来るな、カコ!」
俺が叫んだ瞬間、魔物が突然口を開いた。
剣に加わっていた力が消え、俺の身体は勢い余って後ろへよろめいた。
『爪だ!』
「分かってる!」
鋭い前脚が横殴りに振り抜かれ、俺は身体をひねって避けた。
だが完全には間に合わず、爪の先端が胸元の服を裂き、その下の皮膚まで浅く切り開いた。
「っ……!」
熱い痛みが走り、裂けた服の下へ赤い血が滲む。
あとほんの少し避けるのが遅ければ、胸を深く切り裂かれていただろう。
「血が出てる」
「このくらいなら大丈夫だ! 今は傷より、こいつをどうにかする方が先だ!」
「でも――」
「治療はあとで絶対にしてもらう。だから今はそこから動かないでくれ!」
狼型の魔物はすぐには次の攻撃を仕掛けず、低く唸りながら俺とカコの様子をうかがうように、通路を左右へ歩き始めた。
赤い目が俺の足や握っている剣、傷の残る右脇、そして壁際にいるカコへ順番に向けられていく。
「ただ突っ込んでくるだけじゃないのか……。こいつ、かなり頭がいいぞ」
『こちらの弱い場所を探している』
「弱い場所?」
『我が主の傷。そして、小娘だ』
「俺より先にカコを狙うつもりか」
『獣としては正しい判断だな』
「感心してる場合じゃない!」
その直後、狼型の魔物が突然方向を変え、俺の横をすり抜けてようとして壁際のカコへ向かって走り出した。
「させるか!」
俺は魔物の進路へ身体を割り込ませ、ミメシスを横薙ぎに振った。
黒い刃を魔物の肩へ叩きつけると、ガッという鈍い音が響いた。
「硬い……! これ、本当に毛なのか!」
手へ返ってきたのは、肉を斬った感触ではなかった。
まるで何枚も重ねた硬い革を、棒で殴りつけたような鈍い手応えだった。
灰色の毛が数本だけ宙へ舞ったが、刃はほとんど身体へ入っていない。
『毛に何らかの力が流れている!』
「そういう大事なことは先に言え!」
『今気づいたのだ!』
魔物の前脚が再び振るわれ、俺はミメシスを正面に構えて爪を受け止めた。
ガキンという硬い音とともに、青白い火花が散った。
「牙だけじゃなくて、爪までこんなに硬いのかよ!」
『あれを模倣できれば便利そうだな!』
「できないんだろ!」
『できん!』
「残念そうに言うな!」
巨大な前脚が刀身を押し込み、その力に耐える両腕が細かく震え始めた。
膝も少しずつ曲がり、このまま正面から耐えていれば、剣ごと床へ押し潰される。
『正面から力比べをするな!』
「分かってる!」
俺はミメシスの刀身を斜めへ傾け、押し込まれていた爪を刃の上で滑らせた。
魔物の身体が前へ崩れた隙にその横へ回り込み、今度は後脚の関節近くを狙って剣を振り下ろす。
ザッ。
「グルアッ!」
「斬れた!」
傷そのものは深くなかったが、毛の薄い関節付近からは確かに赤い血が流れていた。
『そこなら斬れる! 関節を狙え!』
「それも先に言ってほしかった!」
『今分かったのだ!』
狼型の魔物が激しく振り返り、大きく開いた口で俺の顔へ噛みつこうとした。
「近い!」
俺は頭を下げ、髪すれすれを通る牙を避けた。
腐った肉と血が混ざったような強い臭いが鼻を刺す中、そのまま下から喉元を狙って剣を振り上げる。
だが、魔物は素早く頭を引き、黒い刃は灰色の毛を僅かに切っただけだった。
次の瞬間、巨大な頭部が俺の胸へ真正面からぶつかった。
「ぐっ!」
身体が宙へ浮き、そのまま背中から黒い床へ叩きつけられた。
「がっ……!」
肺から一気に空気が抜け、視界が大きく揺れた。
「ケイ!」
カコがこちらへ走り出そうとする。
「来るな!」
俺は床へミメシスを突き立て、無理やり身体を起こした。
狼型の魔物の赤い目は、すでに俺ではなくカコへ向けられている。
牙の間から粘ついた涎が垂れ、黒い床へ落ちた。
「お前の相手は俺だ。カコには絶対に近づかせない」
俺はカコを庇うように、魔物との間へ駈け込んだ。
足は震え、胸の傷も右脇も、床へ叩きつけられた背中も痛む。
それでも、俺がここで倒れれば、カコは一人でこの魔物と向き合うことになる。
『我が主』
「何だ」
『今の我では、あの毛皮を深く斬ることは難しい』
「分かってる。今のお前じゃ、関節を狙うしかない」
『もっと強い武器が必要だ』
「こんな場所に、都合よく強い武器が落ちてるわけ……」
「あれ」
カコが声を上げた。
「何?」
「あそこに、長いものがある」
カコが、通路の壁際を指さしていた。
倒れた黒い柱と散乱した金属片の間から、細長い棒のような物が斜めに突き出している。
壁を流れる青白い光を受け、その先端だけが鈍く輝いていた。
「……槍か?」
それは半分ほど瓦礫に埋もれ、柄も途中で折れていた。
だが穂先は残っており、そこから折れた柄にかけて、細い青白い線が何本も刻まれていた。
『武器だ!』
ミメシスが大声を上げる。
「あれなら模倣できるのか?」
『触れればな!』
「また直接触らないと駄目なのか!」
『見るだけで内部構造まで分かると思うな!』
壊れた槍までの距離は十歩ほどで、決して遠くはなかった。
だが、正面には巨大な狼型の魔物が立っている。
「簡単には行かせてくれないよな」
『走れ!』
「途中で食われるだろ!」
『食われる前に着けばよい!』
「無茶を言うな!」
狼型の魔物が再び身体を低く沈め、次の攻撃に備えた。
俺はカコを振り返らないまま、声をかけた。
「カコ。あの槍のところまで、一緒に走るぞ」
「一緒に?」
「ああ。一人では行かない。二人で同じ場所へ行く」
「置いていかない?」
「絶対に置いていかない」
俺は左手を後ろへ伸ばした。
「手を掴め」
「うん」
カコの小さな手が、俺の手を強く握った。
『来るぞ!』
魔物が床を蹴った。
「今だ! 走るぞ!」
俺とカコも同時に、壊れた槍へ向かって走り出した。




