第20話 結界を少し斬るだけのつもりが、大きな裂け目が開いてしまいました
「うおぉぉぉっ!」
俺は全身に残った力を左腕へ集め、ミメシスを結界の継ぎ目へさらに押し込んだ。
すると、漆黒の刀身の表面から煙に似た黒い靄が溢れ出し、結界に生じた細い傷へ流れ込んでいく。
黒い靄は、そのまま結界の内部へ根を張るようにゆっくりと広がり、青白い線を少しずつ左右へ押し開き始めた。
【異物侵入 _ _ 検出】
【修復処理 _ _ 失敗】
【補助装置からの外部命令 _ _ 確認】
【命令競合】
【結界維持 _ _ 不能】
「何が起きてる!」
『分からん!』
「お前も分からないのかよ!」
『だが、開いているぞ!』
ミメシスの切っ先から、黒い亀裂が上下へ伸び始めた。
最初は一本の細い線だった傷が、青白い光を押しのけながら、さらに大きく広がっていく。
やがて、バキッと硬い物が砕ける音が鳴り、結界を上下に貫く巨大な亀裂が走った。
「ケイ、戻って!」
「抜けない! ミメシスが結界に食い込んでる!」
『ならば、さらに斬れ!』
「それしかないのか!」
俺は結界に食い込んだミメシスを、力任せに振り下ろした。
「はあぁぁぁっ!」
漆黒の刃が結界の継ぎ目を縦に一気に斬り裂いた。
次の瞬間、巨大なガラスが砕けるような音が周囲に響き渡った。
パァンと青白い光が四方へ弾け飛び、俺の右腕を黒い迷宮側へ引き込んでいた力が突然消えた。
「抜けた!」
だが、安心する暇はなく、結界に生じた亀裂が止まることなく広がり続けていた。
「なっ……! 何でまだ広がってるんだ!」
俺が斬った場所を中心に、黒い裂け目が上下左右へ広がっていく。
地面に刺さっていた六本の黒い棒が激しく明滅し、そのうち壊れている二本からは不規則に火花が散っていた。
どうやら、損傷した補助装置から流れ出した力が、結界の弱点へ集中しているらしい。
【補助装置の出力異常】
【局所崩壊 _ _ 検出】
【隔壁維持 _ _ 失敗】
「止まらないぞ!」
『我が主、離れろ!』
俺はミメシスを引き抜くと同時に、カコを抱えるようにして後ろへ飛び退いた。
その直後、結界の一部が轟音とともに砕け散り、吹き荒れた風が俺たちの髪と服を激しく揺らした。
青白い光の破片が雪のように舞い、そのまま森の空気へ溶け込むように消えていく。
俺たちの目の前に開いた裂け目は、高さが四メートルほどあり、幅も一・五メートル、いや、二メートル近くあった。
人間なら、余裕を持って通り抜けられる大きさだった。
「……大きすぎるだろ。俺はこんなに斬るつもりじゃなかったぞ」
俺は、目の前に開いた巨大な裂け目を見上げた。
『我も、ここまで開くとは思わなかった』
「お前が言うな!」
『斬ったのは我が主だ!』
「剣はお前だろ!」
『振ったのは我が主だ!』
「今それを言い争ってる場合じゃない!」
巨大な裂け目の向こうには、先ほどまで見えていた黒い迷宮がそのまま広がっている。
継ぎ目のない黒い壁には青白い光が流れ、その下には黒い床が奥まで続いていた。
迷宮の冷たい空気が開いた裂け目を通って森へ流れ込み、逆に森の暖かな風が迷宮の奥へ吸い込まれていく。
「これ、閉じる?」
カコが不安そうに尋ねた。
裂け目の縁では青白い光が激しく明滅し、傷ついた結界を修復しようとしているように見える。
しかし、傷口に染みついた黒い靄が、青白い線の動きを押さえ込んでいた。
『すぐには閉じん』
「どれくらい持つ?」
『分からん』
「閉じる方法は?」
『今の我には分からん!』
「やっぱりかよ!」
そのとき、黒い迷宮の奥から、カンという乾いた音が一度だけ響いた。
何か硬い物が床に落ちたような音に続き、黒い床を引っかくような音が聞こえてくる。
ガリッ、ガリッ。
「何かいる」
カコが、俺の服を強く掴んだ。
『亀裂が開いたことに気づいたのかもしれん』
「外を確認する」
「今?」
「ああ。何かがこっちへ来る前に、どんな場所なのかだけでも見ておきたい」
「でも、向こうに何がいるか分からないよ」
「だから俺が先に見る」
俺は巨大な裂け目に目を向けた。
黒い通路は奥へ長く伸びており、裂け目の前に立っているだけでは、その先まで確認できない。
「カコは、ここで待っててくれ」
安心させるつもりで、俺は何気なく言葉を続けた。
「すぐ戻るから」
その瞬間、俺の服を掴んでいたカコの指が、びくりと震えた。
「カコ?」
返事はなく、俯いた顔は淡いプラチナ色の髪に隠れ、表情までは見えなかった。
「どうした?」
「……嫌」
「え?」
「嫌!」
カコは、俺の服をさっきよりもさらに強く握った。
「カコ、すぐそこを確認するだけだ。遠くへ行くわけじゃない」
「嫌!」
カコが顔を上げると、いつもはほとんど変わらない表情が大きく歪み、淡い青銀色の瞳が不安そうに揺れていた。
その唇も、僅かに震えている。
「すぐ戻るって、言った」
「え?」
「先生も、同じ言葉を言った」
カコの声は、今にも消えてしまいそうなほどかすれていた。
「最後の日」
幼いカコはここで、六本の黒い棒と光る地面の前に立ち、結界へ手を触れようとする先生の背中を見ていた。
「カコ、ここで待っていなさい」
先生もそう言った。
「すぐ戻るから」
しかし、先生は戻らなかった。
強い光が消えたあとに残っていたのは、誰もいない黒い迷宮だけだった。
「先生も、すぐ戻るって言った」
カコは、俺の服に額を押しつけた。
「でも……戻らなかった」
「カコ……」
「ケイも、行ったら戻らない!」
「そんなことはない」
「先生も、戻るって言った」
強い否定が返ってきた。
カコは両手で俺の服を掴み、離そうとしなかった。
「もう、一人で待つのは嫌」
それは、絞り出すような声だった。
その一言を聞いて、俺はようやく、カコが俺の怪我を必要以上に心配する理由を理解した。
俺が少し外へ出ようとするだけで、不安そうな顔を見せる理由も同じだった。
先生は結界の外へ出たまま、帰ってこなかった。
だからカコは、俺まで帰ってこなくなるのではないかと思い、怖かったのだ。




