第19話 結界に触れたら、俺だけ外へ捨てられそうになりました
俺は背負っていた荷物を地面に下ろし、先生が触れたという何もない空間をじっと見つめた。
結界そのものは目に見えないが、空間には僅かな揺らぎがあり、確かに何かが存在していた。
「少しだけ触ってみる」
「危なくなったら、すぐ手を離してね」
「何か変だと思ったら、すぐ離す」
俺は右手をゆっくり伸ばし、何もない空間に指先で触れた。
冷たさはあるが、硬い壁に触れたような感覚ではない。むしろ、水面に指を沈めたような不思議な感触だった。
触れた場所を中心に青白い波紋がゆっくりと広がり、森と黒い迷宮の間には、今まで見えなかった巨大な光の壁が浮かび上がった。
「……これが結界なのか」
無数の細い青白い線が幾重にも重なり、複雑な網目を作っていた。
その中で、俺が触れている場所だけは、線の光が僅かに弱くなっている。
「先生が調べてた場所だけ、薄い」
カコが、同じ一点を見つめながら言った。
『間違いない』
ミメシスの声が低くなった。
『ここが継ぎ目だ』
「本当に分かるのか?」
『今度は分かる!』
「今度は?」
『余計なことを言うな!』
俺は結界に触れている指先に、少しだけ力を加えた。
すると、光の壁が柔らかくへこみ、指先が黒い迷宮側へ少しずつ沈んでいった。
【異界生命体 _ _ 検出】
「っ!?」
その瞬間、機械的な声が頭の中へ直接響いた。
それは、俺が迷宮からこの場所へ転移したときに聞いたものと、まったく同じ声だった。
【登録情報 _ _ 不一致】
【血統情報 _ _ 該当なし】
【管理権限 _ _ 該当なし】
「また、この声だ……」
「声?」
「俺がここへ飛ばされた時に、頭の中で聞こえた声と同じだ」
【外部転送記録 _ _ 確認】
【緊急退避対象 _ _ 一致】
【保護領域内部への侵入履歴 _ _ 一致】
結界の光が一気に強まり、同時に地面に刺さっていた六本の黒い棒が、ブゥンという低い音を響かせた。
空気が震え、棒と棒の間には細い光の糸が伸び始める。
おそらく、カコが以前、先生が通ったときに見たものと同じ光だろう。
「先生の時と同じ」
「本当か?」
「うん」
「でも、あの時より光が弱い」
カコは六本の棒と、地面に刻まれた線を見回した。
よく見ると、六本のうち二本には大きなひびが入り、ほとんど光を放っていない。
さらに、地面に刻まれた線も途中で何度も途切れていた。
【補助装置の損傷 _ _ 確認】
【正常動作 _ _ 不能】
【対象情報に矛盾を検出】
【異界生命体】
【内部侵入履歴 _ _ 有】
【処理を再計算】
「ケイ、手を離して!」
「ああ!」
俺はすぐに右手を引き戻そうとしたが、まったく動かなかった。
指先どころか腕全体が、まるで何かに固定されたように動かせない。
「手が……動かない!」
そして次の瞬間、結界は俺の腕を押し返すのではなく、逆に黒い迷宮側へ強く引き込み始めた。
光の壁へ沈んだ右手が、少しずつ奥へと飲み込まれていく。
【内部存在としての登録 _ _ 失敗】
【外部排出処理へ移行】
「排出って……まさか、俺を外へ捨てるつもりか!?」
右手はすでに手首まで飲み込まれ、さらに黒い迷宮側へ引き込まれていった。
「ケイ、戻って!」
カコが、俺の腰へ両腕を回した。
「頼む! 引っ張ってくれ!」
カコは身体を後ろへ傾け、全体重を使って俺を引っ張った。
俺も必死に右腕を引き戻そうとするが、結界の力は圧倒的に強い。
足元の土が削られ、俺たちの身体は少しずつ黒い迷宮へ近づいていった。
「ミメシス!」
『呼んだか、我が主!』
「どうにかしろ!」
『ついに我の出番だな!』
「喜んでる場合か!」
俺は左手を背中へ伸ばし、鞘からミメシスを引き抜いた。
漆黒の刀身に刻まれた文字が、結界の青白い光を受けて淡く輝いた。
「斬ったら駄目!」
カコが、俺の腰を掴んだまま叫んだ。
「このままだと腕ごと持っていかれる!」
『我が主よ、先っちょだけでよいのだな!』
「今それを言うな!」
『先ほどは頼んでも許されなかったというのに!』
「緊急事態なんだよ!」
「先っちょだけなら、いいの?」
「カコはその言い方を覚えるな!」
俺はミメシスの切っ先を、右腕と結界の隙間へ差し込んだ。
ガリッと金属と石を擦り合わせたような音が響き、青白い火花が弾けた。
「入らない!」
『もっと押せ!』
「押してる!」
『まだ先っちょしか入っていないぞ!』
「その言い方を繰り返すな!」
左腕に力を込めるが、それでも結界はミメシスの刃を強く押し返してきた。
『我が主! 先ほど小娘が言っていた場所だ!』
「何のことだ!」
『あの男が調べていた場所に、我を入れろ!』
俺が最初に指で触れ、光が弱くなっていた場所には、青白い線が一点へ集中していた。
そこが、結界の継ぎ目だった。
「ここか!」
俺はミメシスの切っ先を動かし、青白い線が集まる一点へ押し込んだ。
パキッと小さな音が鳴り、結界の表面に髪の毛ほど細い黒い線が入った。
【結界構造に異常を検出】
【損傷拡大】
「傷が入った!」
『もっと押せ!』
「これ以上やったら、本当に結界が壊れるぞ!」
『このままでは、我が主だけが外へ捨てられるぞ!』
「ケイ!」
カコの声が震えていた。
このまま俺だけが黒い迷宮へ排出されれば、カコは結界の内側に残され、二度と戻れなくなる可能性がある。
「……くそっ、やるぞ!」
俺は、ミメシスの柄を強く握り締めた。
『待ちくたびれたぞ、我が主!』
「この一点だけだ! それ以上は絶対に斬るな!」
『任せろ!』
俺は結界の継ぎ目へ、ミメシスの刃をさらに深く押し込んだ。




