第2話 誰も入れない結界の中へ、空から落ちました
俺の身体は、何も見えない暗闇の中を、どこまでも下へ落ち続けていた。
目を開いているはずなのに、自分の手さえ見えない。
耳元では激しく風を切る音が鳴り響き、身体そのものが空気に引き裂かれそうになる。
服は風に激しく煽られ、息を吸おうとしても、口の中へ冷たい空気が無理やり押し込まれてくるだけだった。
「うぁぁぁぁぁっ! 何だこれ! 転移じゃなかったのかよ!」
叫びながら手足を動かそうとしたが、思うように力が入らなかった。
右腕を伸ばそうとしても、指先が僅かに動くだけだ。脚にも力が入らず、落下する勢いに振り回されるまま、身体が何度も傾いていく。
オーガの棍棒を受けたせいなのか、それとも無理やり転移させられた影響なのか、全身が痺れて自分の身体をまともに制御できない。
胸や脇腹には、息をするたびに鈍い痛みが走った。
周囲は完全な暗闇に包まれ、上下すら見分けられなかった。
自分が本当に下へ落ちているのか、それとも暗闇の中へ吸い込まれているのかさえ分からない。
それでも、耳元で鳴り続ける風の音と、全身を打つ風圧から、ものすごい速さで落下していることだけは分かった。
「止まれ……止まってくれ!」
当然、叫んだところで落下は止まらない。
暗闇の中には、掴める壁も、足をかけられる場所もなかった。
このままどこかへ叩きつけられるまで、俺にできることなど何もない。
「……はは。結局、死ぬ場所が変わっただけなのかよ」
乾いた笑いが口から漏れた。
さっきまでは、オーガの棍棒に潰される寸前だった。
迷宮の床へ突然浮かび上がった魔法陣と、頭の中へ直接響いてきた正体の分からない声。それらが俺を助けてくれたのだと思った。
だが、転移した先で空から落とされたのでは、助けられたことにはならない。
このまま地面へ叩きつけられれば、当然、助かるはずがなかった。
せめて下に何があるのか分かれば、身体の向きくらいは変えられるかもしれない。
そう思って目を凝らしても、見えるのはどこまでも続く黒だけだった。
【転送座標 _ _ 固定失敗】
「またあの声か! 失敗したなら、せめて何とかしてくれ!」
迷宮で聞いたものと同じ、感情のない声だった。
俺がどれだけ叫んでも返事をしている様子はなく、ただ決められた情報だけを告げ続ける。
【保護領域内部への侵入 _ _ 確認】
【落下速度 _ _ 危険域】
「そんなこと、言われなくても分かってる!」
【衝撃緩和処理 _ _ 起動】
その言葉と同時に、身体の周囲へ薄い青白い光が浮かんだ。
だが、光は全身を包む前に激しく明滅し、すぐに消えかける。
声も一度途切れた。
「……おい?」
【残存出力 _ _ 不足】
「ふざけるな! 助けるなら最後までちゃんと助けろ!」
返事はなかった。
僅かに残った青白い光も風に引き裂かれるように散り、再び完全な暗闇だけが残った。
そう叫んだ直後、真っ暗だった下方に小さな光が見えた。
最初は夜空に浮かぶ星ほどにしか見えなかった。
だが、その光は落下するにつれて凄まじい速度で大きくなり、暗闇の中にいくつもの輪郭が浮かび上がっていく。
月明かりに照らされた木々だった。
黒く重なり合った枝と葉が、地面を覆い隠すようにどこまでも広がっている。
そこでようやく、自分が空から森へ向かって落ちているのだと理解した。
「地面……! まずい、本当にこのまま落ちるのか!」
森が見えたことで、かえって恐怖が現実のものになった。
遠くに見えていた木々が一瞬ごとに迫り、一本一本の枝まで見分けられるほど大きくなっていく。
どうにか身体を動かそうとしたが、すでに落下速度が速すぎる。
せめて頭からぶつからないようにしようと、動かない腕で必死に顔を庇った。
次の瞬間、目の前へ大木の枝が迫った。
「うぐっ!」
太い枝へ身体が真正面からぶつかり、その衝撃で枝が大きくしなった。
バキン、と乾いた音が響く。
枝が根元から折れ、胸と両腕へ激しい痛みが走った。
身体はその勢いのまま回転し、今度は別の枝へ背中から激突する。
「がっ……!」
衝撃で息が詰まり、どちらが地面なのかも分からなくなる。
視界の中を月と木々が激しく回り、枝と葉が顔や腕を何度も打った。
さらに下の枝へ何度もぶつかり、そのたびに枝を折りながら、俺の身体は地面へ落ちていく。
枝に衝突するたび落下の勢いは僅かに弱まっているはずなのに、痛みのせいで、それを確かめる余裕などなかった。
そして最後に、大量の落ち葉が積もった地面へ、全身を激しく叩きつけられた。
ドサッ、と鈍い音が森の中へ響く。
「……が、っ……!」
全身を内側から一度に揺さぶられたような衝撃が走り、肺に残っていた空気が一気に押し出された。
息ができない。
口を開いても空気は入ってこず、声を出そうとしても喉が動かなかった。
視界は激しく揺れ、背中も腕も脚も脇腹も、どこもかしこも痛んだ。
むしろ、痛くない場所を探す方が難しいほどだった。
骨が軋み、指先の感覚が少しずつ遠のいていく。
それでも意識が残っているということは、途中でぶつかった枝と積もった落ち葉が、僅かに衝撃を弱めてくれたのだろう。
顔のすぐ横には、落ちる途中で折ったらしい枝が何本も転がっていた。
千切れた葉がゆっくりと舞い落ち、俺の髪や服の上へ重なっていく。
その隙間にある湿った土から、見たこともない小さな青い花が咲いている。
迷宮の中では、一度も見たことのない花だった。
「……ここ、迷宮じゃ……ないよな……」
掠れた声が、ようやく喉から漏れた。
そこはどう見ても迷宮の中ではなく、石壁も石床もない森だった。
周囲にあるのは木々と草、湿った土、そして枝葉の隙間から見える夜空だけだ。
風が吹くたびに葉が揺れ、どこか遠くから虫の鳴く声が聞こえてくる。
さっきまでいた迷宮とは、空気の匂いも、聞こえてくる音も何もかも違っていた。
なぜ迷宮の床にあった魔法陣から、こんな森へ落ちてきたのか。
あの声が言っていた保護領域とは、この森のことなのか。
考えようとしたが、頭がまともに働かなかった。
何かを思い出そうとするたびに視界が暗くなり、思考が途中で途切れてしまう。
「……だれ、か……」
助けを呼んだつもりだったが、喉から漏れたのは、声とも呼べないほど小さな息だけだった。
誰かに届くとは思えない。
それでも、このまま一人で意識を失えば、二度と目を覚ませないような気がした。
そのとき、少し離れた場所から草を踏む音が聞こえた。
サッ。
一度止まり、また少し近い場所で同じ音が鳴る。
何かが、周囲の様子を窺いながらゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
魔物かもしれないと思い、逃げようとした。
だが、腕にも脚にも力は戻らず、指一本すらまともに動かせない。
せめて顔だけでも音の方へ向けようとしたが、首を僅かに動かすだけで激しい痛みが走った。
足音がさらに近づく。
草が擦れる音の向こうに、微かな息遣いが聞こえた。
やがて木々の間から、月明かりに照らされた長い髪の細い人影が現れた。
風に揺れる髪が月の光を受け、暗い森の中で淡く輝いている。
魔物には見えなかった。
だが、ここがどこなのかも分からない俺には、それだけで安心することはできなかった。
「……人、なのか……?」
絞り出した声に、人影が足を止めた。
「……人?」
俺と似た言葉が、向こうから聞こえた。
驚きと戸惑いの混じった、かすかな声だった。
それが、意識を失う前に聞いた最後の声となった。
視界の端から暗闇が広がり、月明かりも、青い花も、目の前に立つ人影も少しずつ見えなくなっていく。
助けを求める言葉さえ、もう声にはならなかった。
目の前に現れた人影が誰なのか確かめることもできないまま、俺の意識は完全に途切れた。




