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『時環境界と四系統の継承者』  作者: あらけい
第一部 結界の森と、帰る場所

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第2話 誰も入れない結界の中へ、空から落ちました

 俺の身体は、何も見えない暗闇の中を、どこまでも下へ落ち続けていた。


 目を開いているはずなのに、自分の手さえ見えない。


 耳元では激しく風を切る音が鳴り響き、身体そのものが空気に引き裂かれそうになる。


 服は風に激しく煽られ、息を吸おうとしても、口の中へ冷たい空気が無理やり押し込まれてくるだけだった。


「うぁぁぁぁぁっ! 何だこれ! 転移じゃなかったのかよ!」


 叫びながら手足を動かそうとしたが、思うように力が入らなかった。


 右腕を伸ばそうとしても、指先が僅かに動くだけだ。脚にも力が入らず、落下する勢いに振り回されるまま、身体が何度も傾いていく。


 オーガの棍棒を受けたせいなのか、それとも無理やり転移させられた影響なのか、全身が痺れて自分の身体をまともに制御できない。


 胸や脇腹には、息をするたびに鈍い痛みが走った。


 周囲は完全な暗闇に包まれ、上下すら見分けられなかった。


 自分が本当に下へ落ちているのか、それとも暗闇の中へ吸い込まれているのかさえ分からない。


 それでも、耳元で鳴り続ける風の音と、全身を打つ風圧から、ものすごい速さで落下していることだけは分かった。


「止まれ……止まってくれ!」


 当然、叫んだところで落下は止まらない。


 暗闇の中には、掴める壁も、足をかけられる場所もなかった。


 このままどこかへ叩きつけられるまで、俺にできることなど何もない。


「……はは。結局、死ぬ場所が変わっただけなのかよ」


 乾いた笑いが口から漏れた。


 さっきまでは、オーガの棍棒に潰される寸前だった。


 迷宮の床へ突然浮かび上がった魔法陣と、頭の中へ直接響いてきた正体の分からない声。それらが俺を助けてくれたのだと思った。


 だが、転移した先で空から落とされたのでは、助けられたことにはならない。


 このまま地面へ叩きつけられれば、当然、助かるはずがなかった。


 せめて下に何があるのか分かれば、身体の向きくらいは変えられるかもしれない。


 そう思って目を凝らしても、見えるのはどこまでも続く黒だけだった。


【転送座標 _ _ 固定失敗】


「またあの声か! 失敗したなら、せめて何とかしてくれ!」


 迷宮で聞いたものと同じ、感情のない声だった。


 俺がどれだけ叫んでも返事をしている様子はなく、ただ決められた情報だけを告げ続ける。


【保護領域内部への侵入 _ _ 確認】


【落下速度 _ _ 危険域】


「そんなこと、言われなくても分かってる!」


【衝撃緩和処理 _ _ 起動】


 その言葉と同時に、身体の周囲へ薄い青白い光が浮かんだ。


 だが、光は全身を包む前に激しく明滅し、すぐに消えかける。


 声も一度途切れた。


「……おい?」


【残存出力 _ _ 不足】


「ふざけるな! 助けるなら最後までちゃんと助けろ!」


 返事はなかった。


 僅かに残った青白い光も風に引き裂かれるように散り、再び完全な暗闇だけが残った。


 そう叫んだ直後、真っ暗だった下方に小さな光が見えた。


 最初は夜空に浮かぶ星ほどにしか見えなかった。


 だが、その光は落下するにつれて凄まじい速度で大きくなり、暗闇の中にいくつもの輪郭が浮かび上がっていく。


 月明かりに照らされた木々だった。


 黒く重なり合った枝と葉が、地面を覆い隠すようにどこまでも広がっている。


 そこでようやく、自分が空から森へ向かって落ちているのだと理解した。


「地面……! まずい、本当にこのまま落ちるのか!」


 森が見えたことで、かえって恐怖が現実のものになった。


 遠くに見えていた木々が一瞬ごとに迫り、一本一本の枝まで見分けられるほど大きくなっていく。


 どうにか身体を動かそうとしたが、すでに落下速度が速すぎる。


 せめて頭からぶつからないようにしようと、動かない腕で必死に顔を庇った。


 次の瞬間、目の前へ大木の枝が迫った。


「うぐっ!」


 太い枝へ身体が真正面からぶつかり、その衝撃で枝が大きくしなった。


 バキン、と乾いた音が響く。


 枝が根元から折れ、胸と両腕へ激しい痛みが走った。


 身体はその勢いのまま回転し、今度は別の枝へ背中から激突する。


「がっ……!」


 衝撃で息が詰まり、どちらが地面なのかも分からなくなる。


 視界の中を月と木々が激しく回り、枝と葉が顔や腕を何度も打った。


 さらに下の枝へ何度もぶつかり、そのたびに枝を折りながら、俺の身体は地面へ落ちていく。


 枝に衝突するたび落下の勢いは僅かに弱まっているはずなのに、痛みのせいで、それを確かめる余裕などなかった。


 そして最後に、大量の落ち葉が積もった地面へ、全身を激しく叩きつけられた。


 ドサッ、と鈍い音が森の中へ響く。


「……が、っ……!」


 全身を内側から一度に揺さぶられたような衝撃が走り、肺に残っていた空気が一気に押し出された。


 息ができない。


 口を開いても空気は入ってこず、声を出そうとしても喉が動かなかった。


 視界は激しく揺れ、背中も腕も脚も脇腹も、どこもかしこも痛んだ。


 むしろ、痛くない場所を探す方が難しいほどだった。


 骨が軋み、指先の感覚が少しずつ遠のいていく。


 それでも意識が残っているということは、途中でぶつかった枝と積もった落ち葉が、僅かに衝撃を弱めてくれたのだろう。


 顔のすぐ横には、落ちる途中で折ったらしい枝が何本も転がっていた。


 千切れた葉がゆっくりと舞い落ち、俺の髪や服の上へ重なっていく。


 その隙間にある湿った土から、見たこともない小さな青い花が咲いている。


 迷宮の中では、一度も見たことのない花だった。


「……ここ、迷宮じゃ……ないよな……」


 掠れた声が、ようやく喉から漏れた。


 そこはどう見ても迷宮の中ではなく、石壁も石床もない森だった。


 周囲にあるのは木々と草、湿った土、そして枝葉の隙間から見える夜空だけだ。


 風が吹くたびに葉が揺れ、どこか遠くから虫の鳴く声が聞こえてくる。


 さっきまでいた迷宮とは、空気の匂いも、聞こえてくる音も何もかも違っていた。


 なぜ迷宮の床にあった魔法陣から、こんな森へ落ちてきたのか。


 あの声が言っていた保護領域とは、この森のことなのか。


 考えようとしたが、頭がまともに働かなかった。


 何かを思い出そうとするたびに視界が暗くなり、思考が途中で途切れてしまう。


「……だれ、か……」


 助けを呼んだつもりだったが、喉から漏れたのは、声とも呼べないほど小さな息だけだった。


 誰かに届くとは思えない。


 それでも、このまま一人で意識を失えば、二度と目を覚ませないような気がした。


 そのとき、少し離れた場所から草を踏む音が聞こえた。


 サッ。


 一度止まり、また少し近い場所で同じ音が鳴る。


 何かが、周囲の様子を窺いながらゆっくりとこちらへ近づいてきていた。


 魔物かもしれないと思い、逃げようとした。


 だが、腕にも脚にも力は戻らず、指一本すらまともに動かせない。


 せめて顔だけでも音の方へ向けようとしたが、首を僅かに動かすだけで激しい痛みが走った。


 足音がさらに近づく。


 草が擦れる音の向こうに、微かな息遣いが聞こえた。


 やがて木々の間から、月明かりに照らされた長い髪の細い人影が現れた。


 風に揺れる髪が月の光を受け、暗い森の中で淡く輝いている。


 魔物には見えなかった。


 だが、ここがどこなのかも分からない俺には、それだけで安心することはできなかった。


「……人、なのか……?」


 絞り出した声に、人影が足を止めた。


「……人?」


 俺と似た言葉が、向こうから聞こえた。


 驚きと戸惑いの混じった、かすかな声だった。


 それが、意識を失う前に聞いた最後の声となった。


 視界の端から暗闇が広がり、月明かりも、青い花も、目の前に立つ人影も少しずつ見えなくなっていく。


 助けを求める言葉さえ、もう声にはならなかった。


 目の前に現れた人影が誰なのか確かめることもできないまま、俺の意識は完全に途切れた。

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