第1話 オーガに殺されかけたら、謎の魔法陣が起動しました
これは、俺が実際に経験した物語だ。
すべての始まりは、あの日迷宮の奥で、一本の剣が折れかけたことだった。
◇
……死ぬ。
視界いっぱいに巨大な棍棒が迫ってきた瞬間、俺の頭に浮かんだのは、その一言だけだった。
丸太を荒く削り、その表面へ黒ずんだ鉄杭を何本も打ち込んだ、武器と呼ぶにはあまりにも無骨すぎる凶悪な棍棒。それが振り下ろされるだけで周囲の空気が震え、巻き起こった風圧だけで頬の皮膚が切り裂かれた。
「……っ!」
あれをまともに受ければ、全身を押し潰されて即死するだろう。
「グオオオオオオッ!」
耳をつんざくような咆哮が、左右を石壁に挟まれた狭い通路へ響き渡った。
赤黒い肌、口から突き出した二本の牙。
俺を追い詰めているのは、今の俺ではどう考えても勝ち目のない格上の魔物――オーガ。
身長は三メートルを超え、太い腕一本だけでも俺の胴体ほどの太さがある。
そして俺を見下ろす赤い瞳には、逃げ場を失った獲物をようやく仕留められるという、残酷な喜びさえ浮かんでいた。
「くそっ……ここまで追い込まれるなんて、最悪だな」
後ろへ下がった背中が、ひんやりとした石壁へぶつかった。
ここは迷宮の奥深く、これ以上は下がれない行き止まりだった。
左右には高い石壁があり、後ろは完全な行き止まり。
そして唯一残された前方には、俺を殺す気満々のオーガが立っている。
どうしてこんな場所まで迷い込んだのか。
なぜ初心者同然の俺が、こんな化け物と遭遇してしまったのか。
そんなことを考える余裕は、とうの昔になくなっていた。
……ここで死ぬのか。
誰にも知られない迷宮の奥で、何もできないまま。誰かを助けたわけでもなければ、何かを成し遂げたわけでもない。
ただこの世界へ来て、少し生きただけで終わる。
そう考えた瞬間、恐怖とは別の感情が胸の奥から一気に込み上げてきた。
……まだ、何もしていない。
それなのに、このまま何も残せず、ただ棍棒に潰されて終わるなんて、そんな結末を簡単に認められるはずがなかった。
俺は震える両手で剣を握り直した。
持っているのは、刃こぼれした安物の片手剣。
何か月も働いて、少しずつ金を貯め、ようやく手に入れた初めての自分の武器だった。
決して名剣ではなく、切れ味だって大したことはない。
それでも今の俺に残されている、たった一つの武器だった。
両腕はすでに痺れ、呼吸も激しく乱れていた。
膝は、自分の身体とは思えないほど激しく震えている。
真正面から戦えば絶対に勝てないことは、俺自身がよく分かっていた。
力も速さも戦闘経験も、何もかもが違いすぎる。それでも、黙って殺されるつもりはなかった。
何もしないまま殺されるくらいなら、最後まで足掻いた方がまだましだ。
「……ここまで来たなら、もう逃げ道なんてない。だったら……やるっきゃ、ないだろ⤴︎!」
俺は震える脚へ無理やり力を込め、その場から勢いよく踏み込んだ。
同時にオーガが巨大な棍棒を振り下ろすのが見えたが、俺は逃げなかった。
両手で剣を握り、迫ってくる棍棒へ正面から刃を合わせた。
次の瞬間、衝撃が爆発した。
「ぐっ……ああああっ!」
両腕の骨が軋み、肩がそのまま外れるかと思うほどの衝撃が身体を突き抜けた。
踏ん張っていた足元の石床には亀裂が走り、俺の身体がわずかに地面へ沈み込んだ。
頭の中まで揺さぶられ、視界が一瞬だけ真っ白になった。
そのとき、聞きたくなかった音が耳に響き、刀身の中央へ細い亀裂が走った。
ビキッ。
「おい……冗談だろ。今ここで折れるのだけは、本当にやめてくれ!」
剣が折れると思った次の瞬間、足元から棍棒とも剣とも違う、乾いた小さな音が聞こえた。
――カチッ。
「……何の音だ?」
一瞬、周囲の時間そのものが止まったような、不思議な感覚に襲われた。
俺の剣を押し潰す巨大な棍棒も、軋み続ける剣も、震える全身も、すべてが急に遠くなったように感じた。
その瞬間、足元のひび割れた石床へ、一本の青白い光が走った。
一本。
二本。
三本。
次々と増えていく細い光は複雑に枝分かれしながら床全体へ広がり、見たこともない巨大な紋様を描き始める。
「魔法陣……? いや、こんなもの、さっきまでなかっただろ」
どうやら、オーガの攻撃を受け止めた衝撃で、石床の下に隠されていた何らかの装置が作動したらしい。
迷宮の床に隠された魔法陣が突然起動したとなれば、頭に浮かぶものは一つしかなかった。
「まさか……転移罠か!?」
気づいた時には、もう遅かった。
【生命活動の急激な低下を確認】
「なんだ今の声は、どこから聞こえた?」
その瞬間、頭の中へ機械的な声が直接響いた。
男とも女とも判別できない、感情をまったく感じさせない不自然な声だった。
【致命的危機 _ _ 検出】
【緊急退避処理 _ _ 開始】
「緊急退避……? 待て。これ、罠じゃないのか?」
俺の足元で輝いていた魔法陣の光が、さらに強くなる。
同時に下から風が激しく吹き上がり、髪も服もめちゃくちゃに揺らされた。
【退避先 _ _ 検索】
【既存転移経路 _ _ 損傷】
【周辺安全領域 _ _ 該当なし】
「さっきから何を言ってるんだ。安全領域って、いったいどこのことだよ!」
緊急退避、既存転移経路、安全領域と、聞こえてくる言葉の意味だけは分かる。
だが、なぜ迷宮の床からそんな声が聞こえ、俺を助けようとしているのかは、まったく理解できなかった。
【遠隔保護領域 _ _ 検出】
【接続状態 _ _ 不安定】
【強制転送 _ _ 実行】
「待て! 不安定って言った直後に強制転送するな!」
「グオオオオオッ!」
オーガが再び咆哮した。
俺の剣を押し潰していた棍棒が大きく持ち上げられ、今度こそ身体ごと叩き潰そうと頭上から振り下ろされる。
もう避けられないと思った直前、魔法陣から溢れ出した青白い光が、俺の視界を一気に飲み込んだ。
「……っ!」
身体を内側から引き裂かれるような感覚に襲われ、上下も左右も分からなくなった。
全身の中へ直接手を突っ込まれ、内臓ごと無理やり遠くへ引きずられているような感覚に、激しい吐き気が込み上げる。
オーガの咆哮が急速に遠ざかる中、ずっと握り締めていた剣が手の中から滑り落ちた。
「あ……待て! それだけは……!」
必死に手を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。
青白い光の中、亀裂の入った安物の剣だけが、俺とは別の方向へ吸い込まれるように消えていく。
そして、視界を覆っていた青白い光が突然途切れた。




