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『時環境界と四系統の継承者』  作者: あらけい
第一部 結界の森と、帰る場所

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第132話 旧王を拒絶して閉じ込めたと話したら、なぜか先生は嬉しそうに笑いました

「仮想空間の中でね。本当にいっぱい勉強したんだよ」


 カコは先生の手を握ったまま、どこか誇らしそうに胸を張った。


 先生がいなくなってから過ごした時間を、一つずつ報告しているのだろう。声はいつもと変わらず淡々としていたが、その淡い青銀色の瞳には、少しだけ期待するような光が浮かんでいた。


「何を学んだ?」


「結界のこと。昔の文明のこと。魂力の使い方。施設の仕組み。古代文字。それから管理方法も」


 カコは指を折りながら、覚えているものを順番に挙げていく。


 しかし、すべてを数え終える前に両手の指が足りなくなったらしい。途中で指を折るのをやめ、そのまま先生を見た。


「……全部か?」


「ううん。ほかにもいっぱい」


「どれくらいだ?」


 カコが少し考える。


 視線を上へ向け、本気で正確な数を思い出そうとしているようだったが、やがて考えることを諦めたように先生へ顔を戻した。


「いっぱい」


「それでは説明になっていないぞ」


「でも、本当にいっぱいだったから」


 先生は困ったように眉を寄せた。


 カコにとっては、細かな課程の数より、覚えきれないほど多く学んだということの方が大切らしい。


《補足します》


 見かねたように、コーデックスが二人の会話へ割って入った。


《カコは正式な継承者用教育課程を、規定項目まで修了しています》


 その瞬間、先生の表情が凍りついた。


「……修了?」


《肯定します》


「王統継承者向けの教育課程を?」


《肯定します》


「途中までではなく、正式な修了条件まで?」


《肯定します》


 先生はしばらく何も言わず、ただカコを見つめていた。


 何度確認しても答えは変わらない。それでも、すぐには信じられないのだろう。


 俺はその教育課程がどれほど難しいものなのか詳しく知らない。だが、先生の反応を見るだけで、普通なら簡単に修了できるようなものではないことは分かった。


「カコ、私がいない間に本当によく頑張ったな」


「……うん」


 カコは笑っていた。


 けれど、その淡い青銀色の瞳には、僅かに涙が浮かんでいた。


「先生に、見せたかった」


「……何をだ?」


「ちゃんと勉強できたところ。難しいことも覚えられたところ」


「ああ」


「先生がいたら、ちゃんとできたって見てもらいたかった」


「ああ」


「それで……褒めてほしかった」


「ああ」


 先生がゆっくりと手を伸ばした。


 まだ十分に力が戻っていない腕は、持ち上げるだけでも小さく震えている。


 カコがすぐにその手の届く場所まで頭を近づけると、先生の細い指が、再び淡いプラチナ色の髪へ触れた。


「よく頑張ったな、カコ。私が見ていないところでも、逃げずに最後までやり遂げたのだな」


「……うん」


「本当に、よく頑張った。私はお前を誇りに思う」


「……うん」


 カコはそれ以上、何も言わなかった。


 ただ、先生の手が髪を撫でるたびに、小さく何度もうなずいていた。


 五年間、ずっと聞きたかった言葉なのだろう。どれほど勉強しても、どれほど難しい課程を終えても、それを一番見てほしかった先生はそばにいなかった。


 俺は少しだけ目を逸らした。


 今だけは、二人きりの時間にしておいた方がいい気がした。


 だが、先生の知らない時間についての話は、まだ終わっていない。


「それで? その先には、まだ何かあるのだろう?」


 しばらくして、先生が口を開いた。


 カコが俺へ目を向ける。


 今度は、少し困ったような表情を浮かべていた。


「どうする?」


「ここまで話したんだから、言うしかないだろ」


「でも……」


「何だ。今度は何を隠している?」


「隠してないよ」


「なら言ってみろ。もう何を聞いても驚かんつもりだ」


 先生はそう言ったが、俺には嫌な予感しかしなかった。


 カコは少し考えたあと、ゆっくりと口を開いた。


「旧王に会った」


 その瞬間、先生の表情が一変した。


「……何だと?」


「旧王」


「聞こえている。なぜ、お前が旧王と会っている?」


「下層総合制御室にいたから」


 先生はゆっくりと額へ手を当てた。


「お前は昔から説明が足りなかったが、その癖は変わっていないのだな……」


「全部言うと長いよ?」


「最初から長い話を聞いているのだから、今さら気にせん」


《長時間の会話は推奨しません》


「今だけ少し黙っていてくれ」


《拒否……》


「コーデックス」


 カコが、開かれた黒い本を見る。


《……一時的に発言を控えます》


 先生が、そのやり取りを見ながら小さく呟いた。


「……本当に強くなったな、カコ」


 俺も、それだけは心からそう思った。


 先生の指示には逆らおうとしたコーデックスが、カコに名前を呼ばれただけで黙ったのだ。旧王向けの教育課程より、そちらの方がよほど分かりやすく成長を示している気さえする。


「それで」


 先生が改めてカコを見る。


「旧王は、お前に何を求めた?」


 カコは少し考えたあと、とても簡単なことのように答えた。


「王になれって言われた」


 先生の指が止まった。


「……それで?」


「断ったよ」


「旧王の命令を?」


「うん」


「王位を継承しろという命令を断ったのか?」


「うん」


 先生は今度は俺へ目を向け、確認するような視線を送ってきた。


 どうやらカコの短い返事だけでは、すぐに受け入れられなかったらしい。


 俺はその無言の問いに答えるように、静かにうなずいた。


「本当です。カコは、自分は王にならないって、旧王へはっきり断りました」


「……それで、旧王はどうした?」


「怒った」


『それはもう、相当怒っておったぞ!』


 黙って聞いていたミメシスが、待っていたとばかりに声を上げた。


《あなたに人間の表情判別能力があるとは初耳です》


『あるわ!』


《旧王は生体ではなく記録存在です。通常の人間と表情構造が同一とは限りません》


『細かいのだ、紙束は!』


「それで、その後はどうなった」


 先生が二人を完全に無視して尋ねる。


 カコはまた、ごく普通のことを話すように答えた。


「閉じ込めた」


「……誰を?」


「旧王を王座室の記録領域へ」


「誰が?」


「私たちが」


 再び沈黙が訪れた。


 今度の沈黙は、かなり長かった。


 先生は何度か口を開きかけたが、そのたびに言葉が出ないまま閉じてしまう。


 旧王の命令を拒絶しただけでも十分に驚く話なのだろう。その上、怒った旧王を王座室へ閉じ込めたと聞かされては、何から確認すればいいのか分からなくなるのも無理はない。


「……旧王を、王位継承を拒絶した上で」


「うん」


「その旧王を、王座室の記録領域へ閉じ込めた?」


「うん」


「お前たちが?」


「うん」


 先生の口が僅かに開いた。


「は……」


 小さな声が漏れる。


「はは……」


「先生?」


「ははは……」


 その瞬間、先生が急に笑い始めた。


 最初は押し殺すような笑いだったが、次第に肩まで大きく揺れ始める。


「ちょ、先生! まだ身体が治ってないんだから、そんなに笑ったら……」


《呼吸器系への負荷上昇を確認》


「はははははっ……ゴホッ、ゴホッ!」


「ほら、言ったそばから!」


「いや……すまん。だが、そうか……」


 先生は胸元を押さえながら、乱れた呼吸をゆっくりと整えた。


 咳き込んで目元に涙まで浮かべているのに、その表情には、どこか嬉しそうな笑みが残っていた。


「うん」


「旧王を断ったのか、王になることを拒絶して」


「うん」


「その上、旧王まで閉じ込めたのか」


「うん」


「お前が」


 カコは、今度だけはすぐにうなずかなかった。


「私一人じゃないよ」


 先生が笑うのを止める。


 カコは俺を見たあと、ミメシス、コーデックスの順に視線を向けた。


「ケイがいた」


『我もいたぞ! むしろ我が最も活躍したと言ってもよい!』


《わたくしも一連の対応に参加しています》


「うん。みんなでやった」


 カコが笑う。


 それは自分の強さを誇る笑顔ではなかった。


 先生がいなくなったあと、ずっと一人で家と森を守っていたカコが、今は隣にいる者たちの存在を、当たり前のように先生へ紹介している。


「一人じゃなかったから、できたんだよ」

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