第130話 五年間待ち続けたカコは、先生の手をもう一度握りました
先生が意識を取り戻したのは、第三封鎖牢から救出して数日が経った頃だった。
総合制御室の奥には、古代文明の治療設備が並ぶ専用区画がある。
先生はその中央に設置された治療装置の中で、ずっと眠り続けていた。
治療を開始した直後は、漆黒の外装が完全に閉じ、外から先生の姿を確認することはできなかった。
だが、生命に関わる危険な状態を脱したあと、外装は左右へ開かれた。今は、その内側にある透明な覆いに包まれた治療槽と、そこで眠る先生の姿を見ることができる。
透明な覆いの向こうでは、酷く痩せた身体へ無数の淡い光が走っていた。
青白い魂力が全身をゆっくりと巡り、傷ついた肉体と、長い拘束によって損耗した魂力回路の治療を続けている。
《生体機能は安定しています》
《長期間にわたる栄養不足、および著しい筋力低下は継続しています》
《ただし、生命維持に関わる危険な状態からは脱しました》
「……よかった。本当に、もう大丈夫なんだね」
カコが、張りつめていた息を吐き出すように呟いた。
その声を聞き、俺もようやく肩の力を抜いた。
俺は椅子へ座ったまま、両腕をゆっくりと上へ伸ばしてみる。
「……本当に、ほとんど痛くないな」
「ケイ、急に動かさないで」
「急には動かしてない。傷がちゃんと治ってるか確かめただけだ」
「さっきも確かめてた」
「何度確かめても、本当に治ってるのが信じられないんだよ」
俺も先生とは別の治療装置へ入り、負傷していた箇所の治療を受けていた。
頬の傷も、左腕の裂傷も、六眼監守機に攻撃を掠められた脇腹も、今はほとんど痛みを感じない。
砕甲槌の新しい魂力反発機構を無理に二度使ったせいで裂けた両手も、傷口はすでに閉じていた。
手のひらには薄い赤色の痕が残っているが、指を曲げても、拳を握っても問題なく動かせる。
《ケイへの治療処置は完了しています》
《通常動作に支障はありません》
「ほら。コーデックスも大丈夫だって言ってるだろ」
《ただし、短期間に同一箇所へ強い負荷を受けた場合、再損傷する可能性があります》
「最後に余計なことをつけ足すなよ!」
「余計じゃない。大事なこと」
「……はい。分かりました」
俺はこれ以上動かすのを諦め、椅子の背もたれへ身体を預け直した。
傷はほとんど治っている。それでも戦いと治療による疲労までは完全に消えておらず、身体の奥には僅かな重さが残っていた。
服も新しいものへ着替えている。
だが、脱いだ服を見たときは、自分でも少し引いた。
血と泥に汚れ、布のあちこちが破れていた。左脇腹の辺りは特に酷く、乾いた血で元の色さえ分からなくなっている。
改めて考えると、よくあの状態で第三封鎖牢まで歩き、先生をここまで運べたものだと思う。
『情けないな、我が主! 治療装置がなければ、今頃も全身ぼろぼろだったではないか!』
「誰の砕甲槌の反動で、俺の手のひらが両方裂けたと思ってるんだよ!」
『我は悪くない! あの程度の反動を受け流せぬ使い手の技量に問題がある!』
《肯定します》
「おい、コーデックス。そこで即答するなよ」
《砕甲槌後部の魂力反発機構に対し、現在のケイは姿勢制御、重心移動、衝撃分散技術のすべてが不足しています》
『ほら見ろ! やはり我ではなく、我が主の未熟さが原因ではないか!』
《ただし、使用者の技量を超える出力を事前警告なしに発生させたミメシス側にも、明確な問題があります》
『何だと!? 今の流れなら我の勝ちであろう!』
《事実関係に勝敗は存在しません》
『この陰気な紙束が!』
「二人とも、先生が寝てるから静かにして」
カコが治療槽の前から振り返った。
大声で怒鳴ったわけでもない。
それでも、その淡い青銀色の瞳を向けられただけで十分だった。
『……承知した』
《了解しました》
二人とも、一瞬で黙った。
強い。
やはりカコは強い。少なくとも、この二人を一言で黙らせることに関しては、俺より遥かに上だ。
カコは何事もなかったように、再び治療槽へ顔を向けた。
先生をここへ運んでから、カコはほとんどこの場所を離れようとしない。
食事へ行くときも、少し眠るときも、必ず俺かコーデックスのどちらかが先生のそばに残るようにしていた。
戻ってくるたびに真っ先に治療槽を確かめ、先生がそこにいると分かってから、ようやく息をつく。
目を離した間に、また先生がいなくなってしまうのではないか。
たぶん、カコはそれが怖いのだと思う。
五年前も、先生はすぐに戻ると言って家を出た。その言葉を信じて待ち続けたのに、先生は帰ってこなかった。
だから、無理に休めとも、もう大丈夫だから離れていいとも言わなかった。
俺には、カコが抱えている不安を消すことはできない。
それでも、一人で待たせないことはできる。
俺たちはただ一緒に、ここで先生が目を覚ますのを待ち続けた。
そのときだった。
ピッ――。
静かな治療区画に、治療槽から発せられた小さな音が響いた。
「……え?」
カコが顔を上げる。
治療槽を満たしていた青白い光が、それまでとは違う動きを見せていた。
先生の全身を包んでいた光がゆっくりと弱まり、透明な覆いの内側を流れていた無数の光の線も、一本ずつ消えていく。
「コーデックス、これは……」
《意識活動の上昇を確認しました》
《覚醒段階へ移行します》
「先生……?」
カコが椅子を押し退けるように立ち上がった。
透明な覆いの向こうで、先生の指が僅かに動く。
最初は光の揺れで、そう見えただけかと思った。
だが、もう一度、今度ははっきりと細い指先が動いた。
「先生……!」
そして、閉じていた瞼が、本当にゆっくりと開いていった。
まだ焦点の合わない青銀色の瞳が天井を見つめ、僅かに揺れる。
やがて、その瞳が治療槽のすぐそばに立つカコを捉えた。
「……カコ」
「先生!」
カコが治療槽へ駆け寄る。
同時に、透明な覆いが左右へゆっくりと開いていった。
「先生っ……!」
「カコ、待て! まだ身体が……」
抱きつこうとしたカコが、先生の目の前でぴたりと止まった。
第三封鎖牢で再会したときには、そのまま先生へ飛びついていた。
だが、今度は違う。
先生の身体は、長期間の拘束と栄養不足によって筋肉が落ち、以前とは比べものにならないほど痩せ細っている。
治療によって危険な状態を脱したとはいえ、失われた体力まで戻ったわけではない。
今のカコが勢いよく抱きつけば、本当に壊れてしまいそうだった。
カコは伸ばしかけた両腕を胸の前で止めたまま、僅かに震えていた。
「……そんな顔をするな、カコ」
「だって……ずっと起きなかったから」
「私は、ちゃんとここにいる。少なくとも、お前の目の前から突然消えるつもりはない」
「……うん」
「だから、もうそんなに怯えなくていい。私はここにいるし、今度は勝手にいなくなったりはせん」
「……うん。分かってるけど……」
カコが何度も頷く。
分かっていると言いながらも、その視線は先生の顔から一度も離れなかった。
先生はまだ力の入らない片腕を、ゆっくりと持ち上げた。
途中で腕が小さく震え、落ちかける。
カコはすぐにその手へ触れ、壊れ物を扱うように両手で優しく包み込んだ。
「先生。本当に先生なんだよね?」
「ああ。少なくとも、今のお前にそう呼ばれている私は、お前の知っている先生だ」
「本当に、ここにいる?」
「ああ。夢でも記録人格でもない。ちゃんと生きて、ここにいる」
「もう……いなくならない?」
「ああ。約束する。少なくとも、お前に何も言わず消えたりはしない」
「……よかった」
カコが先生の手を包み込んだまま、そこへ額をそっと押しつけた。
「本当に……よかった」
その声は震えていたが、先生が眠り続けていた間のような不安は、もう感じられなかった。
先生は何も言わなかった。
ただ、まだ震えている指をゆっくりと動かし、カコの淡いプラチナ色の髪を何度も優しく撫で続けた。




