第119話 帰る場所は別の世界にありますが、こちらにも大切な人ができました
昇降機の扉が閉じる。
俺たちを乗せた昇降機が動きだすと、総合制御室を満たしていた金色の光が、少しずつ上方へ遠ざかっていった。
俺たちは、巨大な下層施設のさらに奥へ向かって降り始めた。
透明な壁の向こうでは、何十本もの太い魂力管や、停止した巨大な円形機械が上へ流れていく。暗闇の中には、用途の分からない保存区画もいくつも並んでいた。
ときおり、遠くの壁面を青白い古代文字が走っていく。
さっきまで命懸けで戦っていた総合制御室でさえ、この巨大な下層施設のほんの一部にすぎないのかもしれない。
「改めて見ると、とんでもなく広い施設だな。これ全部が地下にあるのか」
「うん……本当に大きい」
カコの声は、いつもより沈んでいた。
先ほど聞いた先生の弱々しい声が、まだ頭から離れないのだろう。
昇降機は自動で下降を続けている。第三封鎖牢へ到着するまで、今の俺たちにできることはなかった。
俺は無理に話しかけず、黙ったままカコの隣に立っていた。
しばらくすると、今度はカコの方から俺を呼んだ。
「ケイ、一つ聞いてもいい?」
「なんだ? 先生のことか?」
「先生のことじゃなくて、ケイのこと」
カコがこちらへ顔を向ける。
「さっき旧王が、ケイのことを【異界生命体ケイ】って言ってたよね」
ついに、あの場で何度も「あとで」と先送りにしてきた話をするときが来た。
「あれって、本当はどういう意味なの?」
「……今ここで聞くのか?」
「ケイが、あとで話すって言った」
「確かに言ったけどな」
「今はもう、そのあとだよ?」
「……そう言われると、逃げられないな」
いつかは話さなければならないと思っていた。
本当なら、もっと早く打ち明けるべきだったのかもしれない。
俺は一度息を吐き、どう説明すれば伝わるのか考えた。
「俺は、この世界で生まれた人間じゃないんだ」
カコが少し首を傾げる。
「この国じゃないってこと? もっと遠い国から来たの?」
「違う。国が違うって意味じゃない」
「じゃあ、海の向こうから来た?」
「それも違うんだ」
「だったら、どこから来たの?」
俺は少しだけ迷ってから、はっきりと答えた。
「別の世界から来た」
カコは何も言わなかった。
俺の言葉の意味を理解しようとするように、しばらく俺の顔をじっと見つめていた。
「……別の世界って、空のずっと上とか?」
「そういう場所じゃない」
「じゃあ、地下のもっと深いところ?」
「それも違う。本当に、この世界とは別の場所なんだ」
「この世界とは、つながってない場所?」
「たぶん、そういうことだと思う。俺自身も、どうやって来たのか分からないから、正確には説明できないけどな」
自分で話していても、改めて考えると妙な話だ。
ただ、この世界へ来てから経験したことを考えれば、今さら何が起きても不思議ではない気がする。
「俺がいた世界には、少なくとも俺が知る限り、魔物はいなかった」
「魔物が一匹もいないの?」
「ああ。オーガみたいなのが普通に歩いていることもない」
「狼の魔物もいない?」
「普通の狼はいるけど、魔物みたいなものはいなかった」
「じゃあ、迷宮は?」
「この世界にあるような迷宮はない」
「魔法は使えるの?」
「それもなかった。少なくとも、本当に魔法を使える人なんて、俺は見たことがない」
カコが、信じられないものを見るような顔で俺を見つめた。
「魔物も迷宮も魔法もないなら、何があるの?」
「その聞き方だと、俺のいた世界が何もない場所みたいに聞こえるな」
「違うの?」
「もちろん違う。魔法の代わりになるような、便利な道具や機械がたくさんあるんだ」
「剣もある?」
「剣そのものはあるけど、普通に生活していたら、まず使わないな」
『なんだと!? 剣を使わずに、人間はどうやって生きるのだ!』
「普通に生きられるよ! お前は剣を基準に世界を考えるな!」
『剣を使わぬ世界など、何が楽しいのだ!』
「剣以外にも楽しみはいくらでもあるんだよ!」
「例えば、どんなものがあるの?」
「そうだな……遠く離れた人と、手のひらに収まるくらいの道具を使って、いつでも話せたりする」
「コーデックスみたいなもの?」
「機能だけなら少し似てるかもしれないけど、もっとずっと小さい」
「小さい本?」
「本じゃない」
「じゃあ、小さい剣?」
「なんでそこでまた剣になるんだよ!」
『剣ならば会話もできるぞ、我が主!』
「お前みたいな剣を基準にするな!」
カコには、まだ想像できないらしい。
しばらく真剣な顔で考えたあと、再び俺を見た。
「ケイは、その世界からこの世界へ来たんだよね?」
「ああ。それだけは間違いない」
「どうやって来たの?」
「それが俺にも分からないんだ」
「自分で来ようと思って来たんじゃないの?」
「違う。気づいたときには、もうこの世界にいた」
俺は、この世界へ来る前のことを思い出した。
◇
不合格。
掲示板に貼り出された合格者の番号を何度見直しても、結果は変わらなかった。
そこに俺の受験番号はなかった。
「……また駄目だったか」
消防士採用試験を受けるのは、これで何度目だろう。
年齢だけが増えていき、気づけば三十歳が目前に迫っていた。
誰かを助ける仕事がしたい。
そう思っていたはずなのに、結局俺は、誰の役にも立てないままだった。
「帰るか……」
駅へ向かって歩き始めたところで、遠くに黒い煙が上がっていることに気づいた。
煙が上がっているのは、駅へ続く道の先だった。
近づくにつれて、焦げ臭い空気が濃くなっていく。
古い雑居ビルの二階から炎が噴き出し、周囲には大勢の人が集まっていた。
「誰か! まだ中に人がいるんです!」
女性の叫び声が聞こえた。
消防隊は、まだ到着していない。
建物の入口から、激しい煙が噴き出した。
「危ないから下がれ!」
周囲に集まった人たちが声を上げていた。
それでも俺の足は、気づいたときには建物へ向かっていた。
「おい、君! 戻れ!」
背後から制止する声が聞こえた。
頭では分かっている。
装備もない人間が、火災現場へ入るべきではない。
俺が行ったところで、何ができるかも分からない。
それなのに、身体が止まらなかった。
上着の袖で口元を覆い、炎が回り始めた階段を駆け上がる。
「誰かいますか!」
返事はない。
煙で視界はほとんど利かず、息を吸うたびに喉の奥が焼けるように痛んだ。
姿勢を低くし、壁へ手をつきながら進む。
廊下の途中まで来たところで、人の咳き込む声が聞こえた。
「そこにいるんですか!」
「た……助け……」
崩れた棚のそばに、一人の男性が倒れていた。
俺は男性の腕を自分の肩へ回し、その身体を引きずるようにして出口を目指した。
熱い。
苦しい。
何度も足が止まりそうになった。
それでも、ここで手を離すわけにはいかなかった。
「もう少しです。絶対に外へ出しますから!」
どうにか階段を下り、男性を建物の外で待っていた人たちへ引き渡した。
その瞬間、全身から力が抜けそうになった。
「君、無茶をするな!」
周囲にいた男性が、俺の肩をつかんだ。
俺は激しく咳き込みながら、燃え続ける建物を見上げた。
これで一人は助かる。
俺にも、誰かを助けられた。
そう思った直後だった。
最初に叫んでいた女性が、救い出された男性を見るなり顔を青ざめさせた。
「もう一人いるんです!」
女性が泣きながら建物を指さす。
「その人の娘が、まだ二階に……! 一緒にいたはずなんです!」
建物の奥から、何かが崩れる音が響いた。
二階の窓から、炎が一段と激しく噴き出す。
「待て! 今入れば死ぬぞ!」
先ほどの男性が、背後から俺の腕をつかんだ。
そんなことは分かっている。
俺は消防士でもなければ、特別な人間でもない。
何度試験を受けても落ち続けた、ただの落ちこぼれだ。
それでも。
中に助けを待っている人がいると知って、背を向けることだけはできなかった。
「……ごめんなさい」
つかまれた腕を振りほどく。
「俺、ずっと誰かを助けたかったんです」
もう一度、燃え盛る建物へ飛び込んだ。
煙はさらに濃くなり、先ほど通ったはずの廊下さえ見えなくなっていた。
「聞こえますか!」
返事はない。
「いたら返事をしてください!」
天井から火の粉が降り注ぐ。
どこかで、小さな物音が聞こえた。
俺は姿勢を低くしたまま、熱と煙の奥へ手を伸ばす。
物音が聞こえた方向へ、一歩ずつ進んだ。
「大丈夫です」
誰に届いているかも分からないまま、声を張り上げる。
「今、助けに行きますから!」
直後、頭上で何かが崩れる大きな音がした。
視界が、真っ白な光に包まれる。
熱も、煙も、身体の痛みも、急速に遠ざかっていった。
その手が二人目へ届いたのかどうか、俺には最後まで分からなかった。
◇
昇降機の中に、低い機械音だけが響く。
カコはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で尋ねてきた。
「じゃあ、前にケイが帰りたいって言ってた場所は、この世界のどこかじゃなかったんだね」
「ああ。この世界の地図をどれだけ探しても、俺の故郷は出てこない」
「本当に、別の世界にある場所なんだ」
「そういうことになるな」
カコが俯くと、長い淡いプラチナ色の髪が顔の横へ落ち、その表情を隠した。
「……そっか」
「カコ?」
少し間を置いてから、カコが静かに尋ねた。
「ケイは、帰れる方法が見つかったら、元の世界へ帰るの?」
その質問は、想像していたよりも重く胸に響いた。
「帰る方法が見つかったら……か」
「うん。本当に帰れるようになったら、帰る?」
すぐには答えられなかった。
元の世界には、俺が生まれ育った場所がある。
この世界へ来たばかりの頃なら、迷わず帰りたいと答えていただろう。
けれど、今の俺はあの頃とは違っていた。
「……正直、今は分からない」
カコが少し顔を上げた。
「分からないって、帰りたくないってこと?」
「そういう意味じゃない。帰りたくないわけじゃないんだ」
「じゃあ、やっぱり帰りたい?」
「それも、今は簡単にそう言えない」
自分でもうまく言葉にできなかった。
俺は少し考えてから、ゆっくりと話を続けた。
「元の世界には、俺がずっと生きてきた場所がある。それは今でも大事だ」
「うん」
「でも、今はこの世界にも大事な場所ができた」
俺がカコへ目を向けると、淡い青銀色の瞳がわずかに揺れた。
「カコや先生に会って、村のみんなにも会った。だから今は、どちらか一つを簡単に選べないんだ」
「……だから分からないの?」
「ああ。帰れるかどうかすら分からないのに、今すぐ答えを決めることもできない」




