第8話:帝国のチェス盤
聖王国レイヴァルトの国境を越え、峻険な岩山をいくつも越えた先に、蒸気と魔導の煙に覆われた鋼鉄の都市が存在する。
――魔導帝国グランゼル。
その帝都の中心にそびえる黒鉄の宮殿。
その一室で、冷徹な知性派として大陸中にその名を知られる名将、ヴァルター・フォン・グランゼルは、提出された書類を冷ややかな目で見つめていた。
「――なるほど。聖王国が百回ぶりに敢行した『勇者召喚』。
そこから逃げ出したネズミが三匹も我が国の国境守備隊に保護された、と」
「はっ。自らを『異界の特別なる存在』と称し、聖王国の内情を話す代わりに、帝国での地位と安全を要求しております」
報告する部下の言葉に、ヴァルターは低く笑った。
「愚かしい。一国の王族に召喚されながら、その恩を仇で返し、他国へ亡命を企てるなど。
その精神の稚拙さ、利用価値すら疑わしいな」
「いかがいたしますか? 即座に処刑、あるいは奴隷鉱山へ送りますか?」
「いや」ヴァルターは長い指先で机を叩いた。
「彼女――相沢美月といったか。彼女がもたらした『現代地球の知識』とやらは、我が国の魔導技術の刺激にはなる。
すべてを吐き出させた後、聖王国への揺さぶりの『生贄(政治的容疑者)』として、彼らに引き渡して恩を売ろう。チェスの歩兵としては、丁度いい使い道だ」
高橋たちが夢見た「他国での大歓迎」など、現実の国際政治の前には存在しなかった。
彼らはただ、冷酷な政治の道具として、じわじわと外堀を埋められていることに、まだ気づいていなかった。
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その頃、帝都の安宿の一室。
高橋、黒田、相沢の三人は、帝国から支給された細々とした手当金を前に、言い争いを続けていた。
「これだけ!? これっぽっちの銀貨で、私たちにどうしろって言うのよ!」
相沢がテーブルを叩いた。
「仕方ないだろ。俺たちの能力の証明がまだ済んでないんだ」
高橋が忌々しげに言う。
「だが、宰相のヴァルターって奴は話が分かりそうだった。
俺たちがもたらした地球の知識に、かなり食いついてたからな。
今に見ていろ、すぐに手のひらを返して、俺たちを国賓として迎えるはずだ」
「……僕は、あの国境の街で聞いた『噂』が気になる」
黒田がフードの奥から声を潜めた。
「裏社会で、一瞬で魔力を倍化させる『神の薬』を扱っている組織があるらしい。
ギルドのレベリングなんて生ぬるいことをするより、その薬を手に入れた方が手っ取り早い」
「おい、黒田。そんな怪しいもんに手を出して大丈夫なのか?」
「フン、ネット小説の定番だろ。闇ルートで手に入れた禁忌のアイテムで、一気に覚醒するんだよ。
真面目に泥をすすっている神崎の度肝を抜いてやるさ」
彼らは、社会のルールから目を背けた結果、さらに深い「悪意の沼」へと自ら足を踏み入れようとしていた。
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聖王国、夜の練兵場。
訓練を終えた優斗は、一人で自主居残りの素振りを続けていた。九百九十八、九百九十九、――千。
最後の一振りが風を切り裂き、鋭い音を響かせる。
その瞬間、優斗の前に浮かぶ【神託の書】に、明確な変化が現れた。
『――条件を達成しました。【初級剣術】が【中級剣術】へと昇格します』
『固有スキル:統率、人望のレベルが上昇。周囲の現地兵の士気に好影響を与えます』
「はぁ、はぁ……!」
優斗は木剣を地面に突き立て、荒い息を吐きながら、自身の掌を見た。
一歩一歩。泥を這うような歩み。
しかし、それは確実に、この世界に根ざした「本物の力」へと変わりつつあった。
「……見ていてくれ、高橋」
優斗は遠い北の空を見つめた。
「君たちがどれだけ歪もうと、僕は僕のやり方で、絶対に誰も見捨てない」
真の勇者としての地力が王都の地で静かに、しかし圧倒的な密度で蓄えられていく。
——―動乱の初任務へのカウントダウンは、すでに始まっている。




