揺らぐ均衡
その日もリアは、朝から王都近郊の農地へ向かっていた。
手をかざすと、淡い光と共に霧が静かにほどけていく。
「……助かる」
農民のほっとした声が漏れる。
「これがなかったら、今年は本当に終わりだった」
リアは小さく笑い言う。
「良かった、でもそんなに長くは持ちませんよ」
農民は、崇拝にも似た眼差しを向けて言う。
「聖女様ありがとうございます」
「せい…じょ?」
リアは初めてそう呼ばれ、戸惑いを隠せなかった。
自分は普通の人間だと思っていたのに、いつの間にか特別な存在を見るような眼差しを向けられている。
自分が自分でなくなるような不安にかられた。
周囲はすでに“救世主”として扱いはじめている。
その言葉が、少しずつ現実味を帯びていた。
その夜、レイのもとへ一枚の報告書が届けられた。
南西農地で霧の減衰を確認、北側の街でも被害は軽減しており、継続的に効果ありと書かれていた。
アルヴェインが静かに言う。
「もはや局地的な制御ではありません」
「“環境そのものへの干渉”です」
レイは書類から目を離さない。
「問題は?」
短く問う。
アルヴェインは、一息置いて答えた。
「持続性です、彼女への負担は明らかに増えています」
レイは、複雑そうな表情を浮かべながら聞く。
「他に代替案は見つからないか?」
アルヴェインは、惜しむように答えた。
「まだ見つかってはいません」
扉の外で報告を聞いていたレティシアは、そのまま中へ入りながら声をかけた。
「平民の少女に、ご執心ですのね」
冗談のつもりで言ったのに、レイは否定しなかった。
その沈黙が、逆に答えだった。
感情を切り捨てることを当然としてきた王子が、ほんのわずかに“人間らしい顔”を見せていた。
幼い頃から共に育ち、許婚として“妃”になるための教育を受けてきた。
恋愛とは違っても、それなりに慕っていたはずだった。
それなのに今、その意味を失いかけている。
レティシアはその変化に気づき、わずかに目を見開いた。
「アルヴェイン様、殿下は…」
思わず声をかける。
「何か」
アルヴェインは一瞬だけ顔を上げた。
「いえ…何でもありませんわ」
レティシアは言葉を飲み込んだ。
言えば、何かが確定してしまう気がした。
でも本当は分かっていた、レイはあの子に惹かれている。
もう“元の形”には戻れない。
その頃、王宮の中庭でルシナスはガゼボの柱にもたれながら遠くを見ていた。
「頑張っているらしいね、お前あのあと会ったか?」
隣でレオニスが、落ち着いた声で聞いた。
僅かに沈黙が流れる。
ルシナスは薄く笑いながら答える。
「まぁね、何回か会ったよ」
「気に入っているようだね」
レオニスは、微かに笑いながら言う。
弟が特別な想いを抱いていることに気づいていた。
ルシナスは何も言わなかった。
あの時助けてくれた少女が、今は“王国の中心”になりつつある。
不思議な感覚だった。
リアのいる部屋の窓の外では、霧がわずかに揺れる。
霧は確実に“彼女”を見ていた。




