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世界は、何事もなかったように静寂に包まれる。
少女は霧の中へ消えるように去って行った。
霧が少しずつ元に戻ると同時に、痛みも戻って来た。
ルシナスの身体は限界だった。
頬には痣が残り、腕には切り傷、呼吸のたびに鈍い痛みが走る。
それでも意識だけは妙に鮮明だった。
「……ここにいていいよ」
少女の小さな声が耳に残る。
彼女はもういない。
名前も知らない少女は、霧の奥に溶けるように消えた。
だが、触れられたその温度だけが残っている。
霧を裂くように足音が響く。
「いたぞ!」
騎士たちの声がする。
その中心にいたのは、黒髪の少年
レイ・セルヴァリス
まだ十一歳
だが既に、“王になる者”として完成され始めていた。
白い紋章を持つ騎士たちが周囲を制圧する。
スラムの男たちは抵抗もできず退いた。
ルシナスに視線を向けると、レイは感情を出さずに声をかけた。
「生きているな?」
昔から変わらない。
レイはいつだって、“秩序”そのものだった。
その直後、駆け寄ってくる荒い足音が響いた。
「ルシナス!!」
霧を振り払うように現れたのは、もう一人の少年だった。
レオニス・ヴァルクレイン
双子の兄
普段は感情を大きく見せない兄が、今は明らかに顔色を変えていた。
ルシナスの姿を見た瞬間、レオニスの表情が崩れる。
「……っ」
何かを言おうとして、言葉にならない。
次の瞬間、レオニスはルシナスを抱き締めた。
強く、失うのを恐れるように。
「馬鹿……何をしている……!」
声が震えていた。
ルシナスは目を見開く。
兄は優秀で完璧だった。
両親や王宮の誰もがレオニスを見る。
だから自分は、誰からも見られていないのだと。
比較されるだけの存在なのだと。
けれど違った、レオニスの腕は震えていた。
本当に怖かったのだ。
その事実が、ルシナスの胸に静かに落ちる。
(……ああ)
(兄上は)
(本当の俺を見てくれていたんだ)
胸の奥が痛かった。
さっきまでの傷よりずっと…
レオニスはようやく少し身体を離し、傷だらけの弟を確認する。
「歩けるか」
平静を取り繕った声に、ルシナスは少し笑う。
「……なんとか」
そのやり取りをレイは静かに見ていた。
だが、その視線は柔らかかった。
霧の奥には、誰もいない。
名も知らない少女は消えた。
ただ、ルシナスの中にだけ残っている。
自分を助けた、霧の中の小さな存在。
顔も曖昧にしか覚えていない
名前も知らない
それでも確かに、あの時そこにいた。
ルシナスは霧の向こうを見るがもう姿はない。
(また会いたい)
その感情だけが、静かに残り続けている。
ルシナスは霧の中に消えた少女の姿が、いつまでも頭から離れなかった。
レイは馬車に乗る二人の様子を眺めながら、ルシナスを見つけた時の霧に違和感を抱いていた。
あのとき、自分たちを導くように薄くなった霧に──




