静かな熱
その日の霧は、朝から異常だった。
この日だけで、既に四ヶ所目の霧へ向かっていた。
朝の時点で、もう身体は限界に近かった。
立ち上がった瞬間、視界が揺れる。
吐き気もある、息が切れる。
「……行かなきゃ」
そう呟いて、リアはまた馬車へ乗った。
自分ができる事をやらずに、作物が枯れ、人々が苦しむのは嫌だった。
だが、最後の霧を消し終えた瞬間だった。
白い霧がほどけると同時に、リアの身体も崩れ落ちた。
「リア様!」
騎士の声が響く。
意識が遠くなる、身体が重い、寒いのか熱いのかも分からない。
帰りたい、王宮でもいい、慣れない部屋でもいい、誰にも話しかけられず静かに眠りたかった。
何日経ったのか
何週間か
何ヶ月か
霧を消し続ける毎日に、どれくらいの日々が経ったのか分からなくなっていた。
護衛騎士たちによってリアは馬車へ運ばれる。
王宮へ戻る頃には、ほとんど意識がなかった。
柔らかな寝台に寝かせられ、医師が静かに診察を終える。
「極度の疲労です、しばらく安静に」
「栄養のあるものを摂らせ、決して無理をさせないように」
侍女たちが緊張した顔で頷く。
その報告は、すぐにレイへ届いた。
報告を聞いた瞬間、執務室に居たレイの手が止まる。
「……倒れた?」
側近たちが息を呑む。
レイは途中だった書類を閉じ、立ち上がった。
アルヴェインが慌てて声をかける。
「殿下、会議は――」
「後にしろ」
短く言い切り、そのまま迷いなく部屋を出た。
リアの部屋前へ行くと、ちょうど医師が出てきたところだった。
レイは即座に医師に問う。
「状態は?」
医師は慎重に答える。
「命に別状はありません」
「ですが、限界を超えて力を使い続けています」
「これ以上は危険です」
レイの視線が、床に落ちる。
(無理をするなと言っておきながら、私は何をしている…)
守りたいと思いながらも、彼女を霧の中へ送り続けるしかない。
レイは無言のまま部屋へ入ると、リアは眠っていた。
顔色は白く呼吸も浅い。
細い指先には、微かに霧のような物がまとわりついている。
(壊れそうだ)
最初に見た時から、ずっとそうだった。
触れれば消えてしまいそうで、守らなければと思った。
なのに今、彼女を壊しかけているのは自分達だ。
そして、何も言わず部屋を出た。
今は、戻らなければならない。
王太子として、国を動かす側としてやるべきことがあった。
その夜、レイは再びリアの部屋を訪れていた。
アルヴェインを部屋の外で待機させ、静かに扉を開けた。
小さな物音と人の気配がし、リアは瞼をゆっくり開いた。
暗闇の中からぼんやりと近づく影を見つめる。
「……殿下……?」
かすれた声に、レイはすぐに指を口元へ当てた。
「静かに」
リアは小さく頷く。
ベッド脇へ腰を下ろしたレイは、静かに問いかけた。
「大丈夫か?」
リアは、また小さく頷く。
本当は全然大丈夫ではない。
だが、心配をかけたくなかった。
その様子を見て、レイはわずかに眉を寄せる。
そして、そっとリアの頭を優しく撫でた。
リアは目を見開く。
暗闇の中、月明かりに照らされたレイの顔はいつもの冷たい王太子ではなかった。
柔らかく、静かで、どこか苦しそうに見える。
その表情に、リアは思わず見惚れてしまう。
レイは小さく息を吐いた。
「……また会いに来る」
それだけ告げて部屋を出た。
部屋の外には、アルヴェインではなく別の人影が立っていた。
ルシナスだった。
壁へ軽く寄りかかりながら、面白そうに片眉を上げる。
「へぇ……夜這いですか? 殿下」
レイは一瞬だけ視線を向け否定する。
「違う」
そのまま通り過ぎるレイの背中を、ルシナスは細めた目で見送った。
そして小さく笑う。
「……随分、大事そうにするじゃないか」
その声は、夜の王宮へ静かに溶けていった。




