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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第九話:古石の炉

第九話:古石の炉


 数日間にわたって稼働し続けた蒸し小屋の重い板戸を静かに開け放った瞬間、肺の奥深くにまで容赦なく突き刺さってきた凍てつく朝の冷気に、日吉は思わず喉の奥で小さく息を詰まらせた。

 昨夜のうちにあれほど濃密に室内に満ち溢れていた白く熱い湯気は、夜間の急激な冷却によって完全にその姿を消し去り、ただ冷たい滴となって煤けた壁面を濡らすのみであった。

 口から吐き出す自らの息だけが、白い塊となって薄暗い空気の中にぽっかりと浮かび上がり、そのまま所在なげに朝の冷気の中をゆっくりと流れて消えていく。

 未だ夜が明け切らぬ、東の地平が漆黒の闇と同化しているような寒冷な時間帯であり、周囲の集落全体が、まるで氷の中に閉じ込められたかのような不気味な静寂に支配されている。

 遥か彼方の畦道から、痩せ衰えた野犬が一度だけ寂しげに吠える声が聞こえてきたが、それ以降は何の音もしなくなり、沈黙がより一層その深みを増していく。

 踏み出した自らの足の下で、凍りついた土の上に形成されていた霜柱が、ぱきり、ぱきりと、ガラスの破片が壊れるような繊細で硬い音を立てて砕け散った。

 その僅かな破壊音だけが、静寂に満ちた夜明け前の空間に妙に大きく響き渡り、耳障りに響く。

 日吉は、寒さに震える自らの肩を小さく竦め、感覚を失いかけていた両手の指先に白く温かい息を吹きかけて温めながら、荒らされた土間の床の上へと視線を落とした。


 そこには、無惨にも崩れ落ちて原形を留めていない、昨日まで誇らしくそびえ立っていたはずの泥の竈の残骸が転がっていた。

 少しでも家族の煮炊きを楽にするために、冷たい川原へと何度も足を運び、苦労して拾い集めてきた平たい川石。

 粘り気のある野土を丹念に練り上げ、幾度も乾燥を繰り返しながら強固に固めて作り上げた泥の壁面。

 そして、発生した熱と煙が最も効率的に一箇所へ集中するように、気流の流れを頭脳の中で緻密に設計し、何度も形状を修正しながら積み上げたつもりであったその炉が、僅か数日の稼働の果てに、無残にも自壊してしまっていた。

 泥の壁面には、熱の膨張に耐えきれずに生じたと思われる無数の細かな亀裂が縦横に走り、炉の芯に据えられていた重要な石たちは、内側から激しく裂け、崩れ落ちた隙間から煤の混ざった黒い灰が虚しく床の上にこぼれ落ちている。

 昨夜、家族全員で温かい粥を囲み、冷え切った肉体をどうにか凌がせてくれたあの瞬間までは、確かにこの竈は完璧にその機能を発揮して稼働し続けていた。

 しかしながら、この未開で劣悪な素材しか手に入らぬ環境にあっては、自らが知恵を絞って築き上げたつもりの技術も、早くも物理的な限界を迎えてしまったのだ。

 薪を燃やすたびに壁の隙間から濃い煙が漏れ出し、肝心の熱効率は大幅に低下し、それを取り戻そうとして貴重な薪だけが、以前の倍以上の異様な速度で消費されていく。

 それは、言い訳の余地などどこを探しても残されていない、明白な「失敗」の姿そのものであった。

 認めようとしても認めがたい、自らの見通しの甘さがもたらした挫折の光景が、泥にまみれて眼前に無残に広がっている。


(……やはり、自らの持つ知恵だけに溺れて、現実の難しさを完全に見くびっていたようだな)


 日吉の胸の奥深くには、冷たい泥水の中に鉄屑が沈んでいくかのような、ひどく苦く重苦しい後悔の念が、じわじわと沈殿していった。

 火の回る気流の性質を整えれば、熱効率が飛躍的に向上し、少ない薪で強い温もりを得ることができる。

 空気の取り込み口を緻密に絞り込めば、炉内の火力を爆発的に高めることができる。

 そのような合理的な物理の理屈であれば、前世における高度な教育を受けた自らの頭脳の中に、完璧な知識として完全に整理されて収められていた。

 しかしながら、ただ頭の中で知識として理解していることと、それをこの過酷な現実の土壌の上で、思い通りに形にすることとの間には、奈落のような深い深淵が横たわっていたのだ。

 拾ってきた石が、一体どれほどの熱の負荷にまで耐え抜くことができるのか。

 どの土地から掘り出してきた土が熱によって強固に焼き締まり、どの土が乾燥によって脆く割れてしまうのか。

 それらの、自然が有する複雑極まりない素材の「癖」に対する実質的な見極めを、自分はまるで分かってはいなかったのだ。

 かつて暮らしていたあの豊かで洗練された前世の社会において、自分の周囲に溢れていた事物は、すべて最初から完璧に均質に整えられた工業の成果物ばかりであった。

 徹底的に精製された鉄、均一な強度を保つように設計された耐火の煉瓦、そして、何の不純物も混ざっていない均質なセメント。

 しかしながら、この荒廃した不条理な戦国の農村においては、そのような恵まれた人工の資材など、どこを探しても手に入るはずがなかった。

 拾い集める石一つを取っても、熱を加えれば爆発的に破裂するハズレの石が混ざっており、地べたから掘り出してきた粘土にも、それぞれ異なる粘りや縮みの癖が存在している。

 ただ頭でっかちな理屈を捏ねるだけでは、自然の生み出した強固な素材を、自らの思い通りに従わせることなど、到底不可能なのだ。


 日吉は、床の上に転がっていた、割れた石の破片を一つ、自らの泥だらけの手で拾い上げた。

 川石の表面は黒く煤けて焼け焦げており、その中央から見事なまでに真っ二つに裂けてしまっていた。

 その鋭い断面に指先を這わせてみると、ざらついた粗悪な砂利のような感触が、指の皮膚を通じて直接伝わってくる。

 石の内部に閉じ込められていた微小な水分が、急激な熱の負荷によって沸騰して膨張し、その内圧に石の強度が耐えきれず、自ら中から破裂してしまったのだ。

 川原に転がっている石であるならば、どれを用いても同様に熱を蓄えることができるだろうと、どこかで甘く考えていた自らの無知が、たまらなく情けなかった。

 前世の知識があるつもりで、傲慢にも周囲を見下していた自分が、実際には足元に転がっているただの一つの石の本質すら理解していなかったという冷酷な現実に、恥辱の念がこみ上げる。


「日吉」


 不意に、背後の薄暗い土口から、地を這うような低くかすれた父親の声が飛んできた。

 日吉が素早く振り返ると、そこには、古びた鍬を自らの頑強な右肩に担いだ、父親の弥右衛門が佇んでいた。

 男が吐き出す息は白く濃く、その髭や肩の布地の上には、朝の冷気がもたらした白い霜が、まるで粉を振ったかのように冷たく降り積もっている。

 左腕には未だ、以前の激しい刃物沙汰によって負った深い裂傷を保護するための布が、幾重にも巻かれていた。

 その布の隙間からは、傷口が未だ完全には塞がっておらず、内部で鈍く不気味な熱を帯びて腫れ上がっているのが、遠目からでもはっきりと見て取れた。

 しかしながら、父親はそんな肉体の激しい痛みを微塵も感じさせていないかのように、ただ平然とした仁王立ちの姿勢を崩そうとはしなかった。

 自らの痛みを家族の前で暴露するような、弱々しい表情などは一切見せることなく、ただ静かに佇んでいる。


「崩れたその泥竈の残骸を、いつまでもそこにそのままの姿で放置しておくのではないぞ。朝の冷気で泥が完全に凍りついて固まってしまえば、後から取り除くのが余計に面倒な作業になるだけだ」


「……分かっているよ、父ちゃん」


 日吉は、自らの不甲斐なさを噛み締めながら、短い返事を返し、割れた石の破片を、床に敷かれた粗末な筵の上へと乱暴に放り投げた。

 ずっしりとした石の自重が、僅か八歳に満たない子供の脆弱な肉体に対して、容赦のない不可をかけ、腕の筋肉がすぐに乳酸のために痺れて麻痺していく。

 かじかんだ手のひらの皮膚は、荒縄で縛り上げるたびに激しく擦り切れ、寒さのために感覚が著しく鈍くなっていた。

 ひび割れた指先を僅かに動かすだけでも、剃刀で皮膚を切り裂かれるかのような鋭い激痛が走り、痛みに顔を歪めそうになる。

 弥右衛門は、そんな日吉の不器用な作業の様子を、冷たい視線で一瞥しただけであったが、やがて黙って自らの肩から鍬を降ろすと、凍てついた土に向かってそれを力強く振り下ろした。


 ドゴッ、と凍土に鉄の刃が深く食い込む、重く硬い音が響き渡る。

 男は、左腕の大怪我を庇っているとは到底思えぬほどに、一切の無駄を排除した流麗な動作で、次々と鍬を叩き込み、凍りついた土を削り取っていった。

 日吉は、その父親の逞しい背中の動きを見つめながら、自らの中に宿る、言いようのない深い敗北感を、静かに噛み締めざるを得なかった。

 前世の洗練された物理の理屈を、完璧な形で保持しているのは、間違いなく自分の方であった。

 気流の流れも、熱効率の数値も、理屈だけで語るならば、自分の方が遥かに優れているはずなのだ。

 しかしながら、この泥まみれの世界を「生き延びる」という極限の生存競争の一点において、自分は未だに、目の前で鍬を振るうこの不器用な父親の足元にすら、遠く及ばないのだと思い知らされた。

 父親は、学などどこを探しても持ち合わせてはおらず、文字の一文字すら読むことも書くことも叶わない。

 しかしながら、何十年もの間、この過酷な尾張の泥の中で、自らの手で実際に火を扱い、土の性質を読み取り、激しい冬の牙を幾度も越えてきたという、身体に染み付いた圧倒的な「生きた知恵」を有していたのである。


「兄上。その一度割れてしまった石は、もう二度と火を蓄える竈の材料としては使えませんよ」


 いつの間にか、背後に足音もなく忍び寄っていた小竹が、静かな、冷ややかな声をかけてきた。

 生を受けて未だ五歳にも満たない幼い弟は、床の上に転がっている割れた川石の、鋭利に裂けた断面を、じっと凝視し続けていた。

 その目つきは、普通の幼児が有するような無邪気なものではなく、まるで、獲物の骨を執拗に観察し、弱点を見極めようとする野生の獣のそれと同様の、恐るべき冷徹さを帯びていた。


「石の芯の骨格から、完全に見事に裂けてしまっています。このように、一度強い熱の負荷によって内部から破壊されてしまった石というものは、次に火を入れたときには、より小さな熱であっても、さらに容易に砕け散ってしまいます」


 小竹は、自らの細い指先で、割れた石の表面を軽く小突いた。  コン、という、水分を失った骨が響くかのような、乾いた不快な音が周囲に響く。


「これでは、火の熱を蓄えて温もりを長持ちさせるどころか、熱の内圧によって再び破裂を起こし、周囲に危険な石の破片を撒き散らす凶器へと変わるだけです」


「……言われなくとも、それくらいのことは分かっているよ」


「いいえ。兄上は、ただ頭の中で半分しか理解していませんよ」


 弟の指摘は、一切の容赦なく、日吉のプライドを的確に突き刺してきた。  しかしながら、小竹の言葉は、そこで終わることはなかった。


「兄上は、高尚な物理の『理』ばかりを見て、自らの頭の中で満足しています。しかし、父上は、目の前にある『石』そのものを、自らの肉体の感覚で見ておいでなのです」


 日吉は、返す言葉を完全に失い、ただ静かに口を閉ざした。


「火というものは、兄上が頭の中に描いているような、都合の良い綺麗な理屈通りには、決して動いてはくれません。土にも石にも、それぞれ生き物と同じように、言うことを聞かない頑固な『癖』が存在しているのですから」


 その、幼児の口から発せられたとは到底思えぬ、達観極まりない指摘を受け、日吉は口元に小さく、自嘲の笑みを漏らすほかなかった。  確かに、小竹の言う通りであった。

 自らは、常に頭の中の「あるべき理屈」から物事に入り、現実をそれに強引に当てはめようとしていた。

 しかし、父親の弥右衛門は、何十年にもわたる過酷な「経験」から入り、目の前の素材の本質を、身体の感覚を以て直接的に把握していたのだ。

 その決定的な差が、今、この泥竈の無残な自壊という、動かし難い結果となって目の前に転がっている。


「ならば、ここから一体どうすれば良いというのだ」


 日吉は、自嘲気味に自らの頭を振り、崩れた泥の残骸を見つめ直した。


「また、あの冷たい川原へと何度も足を運んで、さらに別の種類の石を探し出しては、一つずつ試すしかないというのか」


「そのような時間のかかる無駄な真似を繰り返していれば、試している間に、我が家の貴重な薪はすべて底を尽き、冬を越す前に凍え死んでしまいます」


「なら、他にどのような解決の方法があるというのだ」


 日吉が、自らの不甲斐なさに苛立ち、吐き捨てるようにそう言った、まさにその瞬間のことであった。

 ふと、自らの視線の端に、裏庭にひっそりと佇む、あの蒸し小屋の茅葺きの屋根が映り込んだ。

 地べたを掘り下げて作られた、あの半地下の素朴な蒸し小屋。

 昨夜のうちに、家族全員で猛烈な熱気と蒸気を浴び、凍えきっていた自らの肉体を芯から温めて救ってくれた、あの浄化の儀式の場所。

 そして。  その蒸し小屋の炉の奥深くに、何十個も積み重ねられていた、あの不気味に黒く焼け焦げた、大量の川石の姿。

 日吉の思考が、その瞬間にぴたりと停止し、頭の中でバラバラに散らばっていた全てのピースが、一本の太い線となって劇的に繋がり、結びついていくのを感じた。


 あの、蒸し小屋の石だ。

 あれらは、何年、いや、何十年もの長い年月の間、あの小屋の内部で幾度となく猛烈な火によって赤熱させられ、その直後に冷たい水を容赦なく叩きつけられ、激しい温度変化に晒され続けてきた石たちなのだ。

 そのような、過酷極まりない熱の負荷と急激な冷却の繰り返しに、何代にもわたって耐え抜いてきた、生き残りの石。  つまり。

 あれらの石は、何十年もの年月をかけた、自然による厳格な「選別の儀式」を、すでに完璧に終えているのだ。

 熱を加えてすぐに爆発的に破裂するような、強度の足りないハズレの石は、とっくの昔に木っ端微塵に砕け散って灰の中に処分されており、残された、本当に強固で火を蓄えることのできる選りすぐりの「本物の石」だけが、あそこに静かに積まれているのだ。


(……なぜ、これほどまでに単純で、身近な答えに、今の今まで気づくことができなかったのだ……)


 日吉は、自らの視野の狭さに深く絶望し、思わず自らの泥だらけの額を片手できつく押さえた。

 答えは、最初から自分たちのすぐ目と鼻の先、生活のすぐ隣に、何の隠し立てもなく転がっていたのだ。

 自分は、前世の都合の良い高度な「知識」ばかりを頼りにして、周囲を見下し、この過酷な中村の土地で、先人たちが何代にもわたって積み重ねてきた、尊い「経験の蓄積」の価値を、どこかで完全に軽んじていたのだ。


「父ちゃん」


 日吉は、意を決して顔を上げ、鍬を振るう父親の広い背中に向かって、力強い声で呼びかけた。


「裏の蒸し小屋の奥に積まれている、あの黒く焼けた古い石を、いくつか我が家の竈の芯として使わせてもらうぞ」


 その言葉が、日吉の口から発せられたまさにその瞬間であった。

 鍬を振るっていた弥右衛門の太い肩が、ぴたりと動きを止め、男はゆっくりと振り返りながら、その口元に、僅かな、だが確信に満ちた獰猛な笑みを浮かべてみせた。


「ふん、ようやくその程度の単純な答えに、自らの力で気づくことができたか」


 それは、最初から息子が失敗し、遠回りし、苦悩の果てにその答えに辿り着くことを、完璧に予期していた者の顔であった。

 文字すら読めぬこの不器用な父親は、日吉が失敗を経験しなければ、本当の意味での「素材の本質」を理解することはできないと知っていたからこそ、敢えて最初の失敗を黙って見過ごし、泳がせておいたのだ。


「石というものにも、人間と同じように、一見しただけでは分からぬ当たり外れというものが存在するのだ」


 弥右衛門は、鍬を自らの右肩へと再び担ぎ直しながら、静かに、重厚な声で語った。


「何度も何度も、猛烈な火によって赤々と焼かれ、その直後に冷たい水を浴びせられても、決して砕けることなく、その形を保ち続けた本物の古石だけが、本当に火の熱を体の芯に抱え込み、長時間の温もりをもたらすことができるのだよ」


 それは、書物の中に記されたいかなる高尚な学問の言葉よりも、何十年もの間、泥にまみれて火と向き合い続けてきた、一人の百姓としての重い重みと、深い説得力を伴って日吉の胸を貫いた。


 それからの再構築の作業というものは、驚くほどの速さと無駄のない連動を以て、迅速に進められていった。

 父親の弥右衛門が、鍬を用いて土間の地面を緻密に削り取り、日吉が裏の川辺から粘り気のある最良の粘土を必死に運び込み、小竹が、蒸し小屋の奥から、最もよく焼き締まった形状の古石を、一つずつ厳選して手渡していく。

 持ち出してきた古石のどれもが、何百回もの熱の儀式を経て、表面が不気味な黒褐色に変色し、無数の細かな傷が刻み込まれていた。

 しかしながら、その石の骨格は驚異的な硬度を保っており、決して砕け散る気配すら見せない、過酷な選別を生き延びた本物の石であった。

 弥右衛門は、その石を自らの太い指先で弄びながら、一切の迷いを見せることなく、土間の炉の土台へと、神業のような的確さで次々と据え置いていった。

 どこへこの重い古石を配置すれば、気流の流れが最もスムーズに回るのか。

 どこへ僅かな隙間を作ってやれば、下部からの空気が淀みなく炉内へと吸い込まれていくのか。

 男は、それらの高度な調整を、設計図を引くこともなく、ただ自らの指先の皮膚感覚と、積み重ねてきた長年の直感だけで、完璧にやってのけていた。


「そこ、土を詰めすぎだ。それでは、空気の通り道が完全に塞がれて、火が窒息してしまうぞ」


「これで、どうだ。少し隙間を広げてみたが」


「うむ、まだ広いな。ほんの僅か、土を盛って気流の出口を絞り込んでみろ」


 父親の指示は常に短く、無駄がなかったが、そのどれもが、人体の経絡を突くかのように的確極まりないものであった。

 日吉が、言われた通りに僅かな泥を盛って気流の隙間を調整した、まさにその瞬間であった。


 炉の奥底から、ごう、ごう、という、昨日までの失敗作とは明らかに異なる、大地の底から響くかのような、重厚で太い燃焼の唸り声が返ってきた。

 日吉は、思わず胸の中でハッと息を呑んだ。

 理屈であれば、空気の流体力学として、頭脳の中で完璧に理解していたつもりであった。

 しかしながら、実際にその火の性質が、僅かな泥の調整一つによって、劇的にその姿を変える瞬間を目の当たりにすると、それはまるで、目に見えぬ神仏の息吹を直接体感したかのような、言葉に言い表せぬ深い畏敬の念を覚えざるを得なかった。

 父親は、この凄まじい物理の真理を、高度な文字や公式などを用いることなく、ただ自らの肉体が火傷を負い、幾度も失敗を重ねてきた、その血の滲むような日々の積み重ねだけで、完璧に体得していたのだ。

 戦乱の農村に生きる百姓というものは、ただ地べたを掘り返して畑を耕すだけの、無力な奴隷のような存在では決してなかった。

 自らの住まう家屋を自らの手で直し、道具を修繕し、縄を綯い、時には鍛冶屋まがいのことまでこなし、生きるために必要な万物の仕組みを、全て自らの手で作り上げていく、万能の生存能力を持った「職人」たちの群れであったのだ。

 前世の、分業化され、他者に依存しきった温室の社会の中で暮らしていた自らの精神には、その野生のたくましさ、生きることに対する本当の重みが、決定的に欠落していたのだと、日吉は深く自覚せざるを得なかった。


 作業を開始してから、およそ一刻ほどの短い時間で、新しい竈は土間の床の上に、確固たる佇まいを見せて完成した。

 黒光りする、何度も火に焼かれた強固な古石を炉の芯に据えた、最初の不格好な失敗作とは比較にもならぬほどの、重厚な美しさを湛えた炉であった。

 日吉は、炉の最下部によく乾燥させた細枝を差し込み、手元の火打石を打ち合わせて、小さな赤い火種を静かに落とし込んだ。


 次の瞬間。


 新しく生まれ変わった炉の奥深くで、炎がまるで狂暴な肉食獣のように、ごうごうと激しい唸り声を上げて暴れ立ち、瞬時に細木を包み込んでいった。

 熱が、どこを探しても外部へと漏れ出ることなく、炉の内部で完璧に対流し、吸い込まれた冷たい空気が一気に燃焼を促して、真紅の炎が美しい渦を巻いて吹き上がっていく。

 わずか数本の細い枯れ枝しか焚べていないとは、到底信じ難いほどの、圧倒的で、凄まじい熱量が、一瞬にして土間全体を温めていく。

 あまりの熱気の凄まじさに、日吉は思わずたじろぎ、一歩後ろへと身を引き下がった。


「……すげえな、本当に……」


 日吉の口元から、嘘偽りのない、純粋な驚嘆の囁きが自然と漏れ出た。

 これほどの圧倒的な熱効率を保つ竈があるならば、この先、どれほど過酷な冬の嵐が吹き荒れようとも、最小限の薪の消費だけで、家族の煮炊きを完璧に維持し続けることができる。

 温かい粥をすぐに炊き上げ、凍土のように冷え切った土間全体を力強く温め、家族の肉体を病の恐怖から守り抜くことができるのだ。

 ただそれだけの単純な道具の完成が、この厳しい乱世にあっては、家族全員の生存の確率を、何倍にも跳ね上げる絶対的な武器となるのだ。


「兄上」


 小竹が、燃え盛る炎の美しいゆらぎを、その暗い瞳に映し出したまま、静かな声で語りかけてきた。


「明日、間違いなく、村の庄屋の使いが我が家に姿を現します」


「ああ、分かっているよ。あの血生臭い川堤の騒ぎの後だ、奴らが黙って見過ごすはずがない」


「彼らは、この新しく完成した竈の技術と、燻り魚の保存法を、村全体の秩序を保つという名目で、我が家から力ずくで差し出せと強要してくるでしょうね」


 当然の、避けられぬ未来の予測であった。

 この閉鎖的な農村社会にあって、他者より突出して優れた余剰の富や、便利な仕組みを生み出す道具は、必ずや、その土地を支配する権力者たちの貪欲な目の標的となる。

 強者が弱者から、その成果を無償で毟り取ることこそが、この時代の絶対的な平穏のシステムであったのだ。


「それで、兄上はどうされますか」


 小竹は、日吉の顔をじっと見つめ、その出方を試すようにして問いかけてきた。


「向こうの主立の連中を、魅力的な利益の『利』によって懐柔して釣るおつもりですか。それとも、逆らう者を容赦なく排除する、目に見えぬ『恐怖』の力を用いてねじ伏せるおつもりですか」


 日吉は、少しの間、深く目を閉じ、自らの胸の中で燃え盛るあの「野心の火」の温度を確かめるように思案した。

 炉の奥底では、新しく生まれた本物の炎が、力強く、激しく唸り続けている。

 それは、周囲の闇を力強く押し返し、命を繋ぎ止めるための、生きている火の姿そのものであった。


「……どちらか一方だけでは、決して十分ではない。利と、恐れ、その両方を同時に用いて、奴らを手玉に取るまでだ」


 利益を与えるだけでは、相手は調子に乗って自分たちを舐め腐り、やがてはすべてを奪い尽くそうとするだろう。

 しかしながら、ただ恐怖で脅しつけるだけでは、相手は自らの保身のために狂暴になり、力ずくで自分たちを排除しに来ることは火を見るより明らかであった。

 だからこそ、相手に対して、従うことで得られる巨大な「実利」を目の前にぶら下げて誘惑しながら、同時に、「もしもこの一線を超えて俺たちに牙を剥けば、一族もろとも破滅に陥る」という、冷酷な恐怖の境界線を、その脳髄に深く刻み込んでやる必要があったのだ。

 そうして、生殺与奪の主導権を、常に自分たちの側で握り続ける。

 それこそが、前世のあの生き馬の目を抜くような過酷な交渉の場で、日吉が長年にわたって磨き上げてきた、商いにおける絶対的な不敗の戦術であった。

 日吉は、燃え盛る竈の炎を見つめながら、自らの内側に、かつてないほどの凄まじい生存への執念が、完全に定着したことを自覚した。

 自分は、ただこの過酷な乱世の不条理を前に、おめおめと首を差し出すだけの、凡庸な弱者として果てるつもりは毛頭ない。

 家族を凍えさせたくない。  大切な人々を、飢えの苦しみによって失いたくない。  まずは、この過酷極まりない冬を、家族全員で確実に越えてみせる。

 その、生への乾いた執念こそが、今の日吉を突き動かす唯一無二の絶対的な原動力であった。


 その時、鍬を置いて傍らに座り込んでいた弥右衛門が、無造作な動作で、泥のついた冷たい川貝の殻を、日吉の胸元へと押し付けてきた。


「ほれ、これをごねごねと弄ってばかりおらんで、早く口に放り込んで食え」


「……父ちゃん、これは父ちゃんの大事な食い扶持じゃないか」


「いいから、お前が食え。お前のような細い身体の餓鬼は、少しでも美味いものを口にして、肉をつけ、血を肥やさねば、すぐにこの寒さで倒れてしまうのだからな」


 差し出された冷たい川貝の殻の奥からは、父親が先ほどまで鍬を握りしめていた、あの太く荒れた手のひらの、素朴で温かい熱が、確かに残されていた。

 その、不器用極まりない父親の温もりを感じた瞬間、日吉の胸の奥底には、言葉に言い表せぬほどの、えも言われぬ愛おしさと熱い感情が、静かに込み上げてくるのを感じた。

 小竹が、頭脳の中で整然と組み立てる冷徹な「理」の言葉は、確かに生き残るために最も正しい真理であることに違いはなかった。

 しかしながら、人間という、愚かで、かつ愛おしい生き物を、最期の最期で突き動かし、立ち上がらせるものというものは、結局のところ、このような日々の極めてささやかな「手の熱」や、泥にまみれながらも家族を生かそうと必死に足掻く、不器用な生の執念そのものなのかもしれない。


 遠くの集落の中心から、夜明けを告げる古い寺の鐘の音が、ゴォン、ゴォンと、低く重い響きを伴って、凍りついた村の隅々へと静かに伝播していった。

 長かった尾張の夜が、ようやく明け、新たな一日の光が世界を白く照らし出し始める。

 日吉は力強く立ち上がり、新しく完成した竈の炉内へと、自らの手で太い薪を、躊躇なく力強く放り込んだ。

 轟、と、新しく生まれ変わった古石の炉が、日吉の覚悟に応えるかのように、一段と激しい真紅の炎を吹き上げ、力強く闇を押し返し始める。

 それは未だ、この広大な乱世にあっては、極めて小さな、取るに足らない微小な火種にすぎないものであった。

 しかしながら、この新しく生まれ変わった火は、確かに昨日までのただ死を待つだけのものではない。

 不条理な死を力強く遠ざけ、大切な家族の命の絆を温かく繋ぎ止め、この冷酷な泥の底の中にあって、それでも明日を生き延びるための、彼らだけの「本物の生存の火」に他ならないのであった。

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