第八話:浄穢の儀
第八話:浄穢の儀
川堤において赤黒い生血が激しく流れてからというもの、中村の周囲を漂う重苦しい空気は、まるで寒冷な冬空のどん底へと沈み込んだ重い鉛の塊のように、その性質を著しく変貌させていた。
村を行き交う農民たちの誰もが、用もないのに我が家の粗末なあばら屋を遠巻きに眺め、不自然なほどの沈黙を保ちながら通り過ぎていく。
以前までであれば、取るに足らない貧乏小作の憐れむべき一家として、哀れみ半分、侮蔑半分で適当にあしらわれていたはずの視線が、今となっては全く異なる色合いを帯びていた。
彼ら村人たちは、この僅か数日間の出来事を通じて、明確に知ってしまったのである。
弥右衛門の愚かな長男であるはずの日吉という幼子は、ただ地べたで妙な知恵を弄びながら喜んでいるような、生温かい餓鬼などではないという冷酷な事実を。
自らの生存の領域を脅かされ、極限まで追い詰められれば、一切の躊躇なく、牙を剥いて他者の肉体を食い破る存在であることを、彼らは身を以て思い知らされたのだ。
しかも、その日吉の剥き出した牙というものは、そこらの荒くれ者のような単なる力任せの粗暴な暴力などでは決してなかった。
骨の強固な噛み合わせを的確に断ち、人間の直立を支える絶妙な感覚を奪い去り、目に見えぬ恐怖そのものを直接脳髄へと叩き込む種類の、極めて合理的で冷徹な暴力であった。
あの凄惨な川堤の闇の中で、炭焼きの一族を仕切る元締めたちが無残に泥の中に這いつくばらされた夜の顛末は、誰が広めるともなく、僅か数日と経たぬうちに村の境界線を越えて隅々まで伝播していた。
無論、夜霧が深く立ち込める中で実際に何が起きたのか、その一部始終を正確に目撃した者などはほとんど存在せず、実際に日吉と刃を交えて敗れ去った当事者の男たちも、自らの恥辱を隠すために固く口を噤んでいた。
しかしながら、人間という愚かな生き物は、自らの知らない不気味な出来事であればあるほど、その空白を自らの想像力によって勝手に誇張し、尾ひれをつけて語り広めていく生き物なのであった。
曰く、あの弥右衛門の倅は、神仏の罰を恐れぬ本物の鬼子である。
曰く、裏山に潜む邪悪な妖狐に取り憑かれた、狐憑きの化け物である。
曰く、かつての凄惨な戦場で無念の死を遂げた、極悪非道な落ち武者の悪霊がその小さな肉体に乗り移っている。
村人たちは、囲炉裏の灰の周りや、共同の井戸端において、互いに顔を寄せ合いながら、そのような根も葉もない噂話を一様に囁き合っていた。
だが、その囁かれる荒唐無稽な噂のどれもが、根底の心理においては全く同一の、防衛的な意味合いを有していることを、日吉は見抜いていた。
――決して、あの家に関わるな。
――不用意に、あの餓鬼を敵に回すような真似だけはするな。
それは、法も秩序も満足に機能していないこの過酷な乱世において、無力な子供が自らの命を守り抜くために、何よりも有益で強固な「目に見えぬ盾」となる評価であった。
もっとも、そのような周囲の急激な変化など、今の彼にとっては些細な問題であり、どうでもよい事柄にすぎなかった。
日吉にとっての真に深刻な問題は、外の噂などではなく、自らの暮らす家屋の内部にこそ、不気味に横たわっていたからである。
父親の弥右衛門の左腕に負ったあの生傷の具合が、日を追うごとに、目に見えて悪化の一途をたどっていた。
囲炉裏の僅かな赤光がゆらゆらと揺れるたび、左腕に幾重にも巻きつけられた薄汚れた布の隙間から、赤黒く、そして異様なまでに腫れ上がった生肉が、ちらちらと視界をかすめる。
傷口は、触れるまでもなく明らかに異常な熱を帯びており、周囲の皮膚は張れ裂けんばかりにパンパンに緊張していた。
それと同時に、室内の生活臭に混ざって、腐った魚の脂をさらに煮詰めたかのような、鼻を突く薄い膿の酸っぱい臭いが、不快に漂い始めていた。
日吉の脳裏に宿る、あの衛生観念の行き届いた前世における感染症の生々しい記憶が、嫌でも最悪の結末を想起させ、彼を絶えず脅かし続けていた。
抗生物質もなければ、効果的な消毒用の薬剤も存在せず、傷口を縫い合わせるための精緻な医療技術も、目に見えぬ黴を防ぐための衛生の観念すらも、何一つとして成熟していないこの時代。
人々は、鋭利な刃物によって負ったその場の大怪我による失血だけで命を落とすのではなく、その後に傷口の奥深くへと忍び込んだ腐敗の魔の手によって、いとも呆気なく、そして悲惨に死に至るのだ。
そして、その肉体の腐敗というものは、ある日突然、何の予兆もなく、人間の体温と体力を爆発的に奪い去りながら、全身の組織を内側から喰い荒らし始める。
激しい悪寒。
脳を沸騰させるかのような高熱。
自らの意思を失った全身の痙攣。
見えぬ敵と戦うかのような錯乱の叫び。
そして最後には、自らの内臓を火であぶられるかのような苦痛に身を悶えさせながら、息を引き取っていく。
前世の豊かな知識があるからこそ、その死への坂道がどれほど残酷で、どれほど容易に引き返せぬものであるかが、日吉には痛いほどに分かってしまうのだ。
しかしながら、今の彼の手元には、傷口を直接洗浄するための清潔な道具も、高熱を抑えるための薬も、何一つとして存在しない。
この極限状態において、彼が自らの家族の命を救うために取りうる手段というものは、極めて限定的なものに絞られていた。
熱を加え、清潔を維持し、湿気を取り除いて完全に乾燥させる。
突き詰めれば、ただそれだけのこと。
だからこそ、この貧しい我が家においては、数日に一度の割合で行われる、裏庭の粗末な「蒸し風呂」を稼働させる日が、そのまま父親の命を繋ぎ止めるための、神聖にして凄まじい防衛の戦いとなっていたのである。
未だ夜も明け切らぬ、東の空が深い藍色の闇に沈み込んでいる、極寒の時間帯。
地面には、まるで鋭利な硝子の破片を散りばめたかのような、白く凍りついた強固な霜が一面に降り積もっていた。
口から吐き出す息は濃く白く濁って夜気の中に広がり、露出した指先は、冷気のために完全に感覚を失って石のように冷たくなっていた。
あばら屋の裏手に設けられた、泥と茅葺きで急造された小さな蒸し小屋の内部では、すでに父親の弥右衛門が、片腕の痛みを堪えながら、自ら火を起こして熱を湛えさせていた。
狭い小屋の中央には、川底から拾い集めてきた大量の平たい川石が積み上げられており、その芯に向けて、薪の激しい赤火がじわじわと熱を流し込み、石自体が赤熱し始めていた。
「日吉、そこへ座って、石の芯までしっかりと熱が喰い込んでいるかどうか、自らの目で注意深く見極めろ」
弥右衛門の、熱のために掠れた低い声が、狭い小屋の中に重苦しく響き渡った。
「ただ表面だけを赤く焦がしたところで、何の意味もない。石の骨の芯まで完全に火を喰わせなければ、水をかけた瞬間に、冷たい、ただの死んだ熱の煙になってしまうのだ」
「分かっているよ、父ちゃん」
日吉は、手にした古びた火箸を用いて、積み上げられた石の隙間を慎重に突き、その焼け具合を注意深く確認した。
石の表面は赤く輝いていたが、彼が求めている、芯まで完全に熱を蓄えた石の色彩は、このような軽い赤色ではなく、もっと鈍く、どこか重厚な、大地の底の溶岩を思わせる重たい赤色であった。
極限まで熱を内側に抱え込んだ石というものは、もはや単なる無機質な鉱物の塊などではなく、自ら熱を放出し続ける、巨大な「熱の臓器」そのものへと昇華されるのだ。
限られた少ない薪の消費だけで、長時間にわたって持続的に、人体を包み込む濃厚な蒸気を発生させるためには、石にその限界までの熱を徹底的に蓄えさせる必要があった。
これは、前世のいかなる本に書かれていた知識などではなく、日吉がこの厳しい尾張の地へやってきてから、何度も失敗を繰り返し、体力を削られながら身を以て覚えてきた、泥臭い経験の結晶であった。
最初は、熱の急激な変化に耐えきれずに川石が激しく破裂し、顔に傷を負った。
次には、火力が決定的に足りず、ただの生温かい不快な湿気しか発生させることができなかった。
しかし今では、父親の弥右衛門も、石が放つ僅かな赤色の変化を見るだけで、それがどれほどの時間、上質な蒸気を維持できるか、正確に判断できるようになっていた。
赤々と燃え盛る火の前に凛として立つ、父親の背中は、子供の日吉の目から見れば、相変わらず圧倒されるほどに巨大な存在感を有していた。
しかしながら、その広い背中が刻む呼吸の波は、明らかに平時よりも浅く、激しく荒れ狂っていた。
怪我を負った左腕を意識して庇っているようには見せない頑なな佇まいを崩してはいなかったが、実際には、激痛を逃がすために、無意識のうちに左の肩が僅かに下に傾いてしまっている。
男は、自らの内に生じた耐え難い肉体の苦痛を、家族の前で必死に隠し通そうとしていたのだ。
自分が家長であり、この貧しい家族の最大の「盾」であるという、揺るぎない自負があるからこそ。
もしも自分がここで倒れ込み、無力な姿を晒してしまえば、残された家族の暮らしは、その瞬間に周囲の獣たちによって完全に蹂躙されて終わることを、誰よりも深く理解しているからこその、必死の強がりであった。
その痛々しい父親の背中を見つめていると、日吉の胸の奥底には、鉛を流し込まれたかのような、重苦しい感情が湧き上がってくるのを禁じ得なかった。
前世における、あのどこか希薄で、冷淡な関係であった自らの実の父親とは、その性質において明らかに異なる存在であった。
しかしながら、目の前で脂汗を流しながら立つこの粗暴な男は、間違いなく自らの命を削りながら、この泥の底のような我が家を、命がけで支え続けている本物の父親であった。
「兄上」
背後の狭い戸口から、小竹が音もなく滑り込むようにして、静かに声をかけてきた。
「小屋の床に敷き詰めるための、新しい乾いた藁の入れ替え作業、全て無事に終えております。僅かでも湿気を含んで腐りかけていた古い藁は、万病の元となりますので、全て外へと放り出して処分いたしました」
日吉が振り返ると、小竹は、自らの衣服を泥で汚しながら、黙々と乾いた良質な藁を選別する作業を淡々と進めていた。
湿気を含んだ藁は、閉ざされた小屋の中でたちまちのうちに不浄な腐敗を呼び込み、無数の虫を呼び寄せる温床となってしまう。
不衛生な環境は、弱り切った人間の傷口へと容易に病を誘い込み、命を落とす原因となるのだ。
それは、およそ五歳に満たない幼子の担うべき仕事などでは決してなかった。
しかしながら小竹は、その口から一片の不満や泣き言をもらすことなく、自らの小さな指先を器用に動かし、黙々と、確実に自らの役割を全うしていた。
その淡々とした横顔は、不気味なほどに静まり返っており、同年代の子供が有するはずの、落ち着きのなさや無駄な動きは微塵も存在しなかった。
それはまるで、これから始まるであろう生死を賭けた戦いに備え、静かに、かつ確実に戦支度を整えている、老獪な軍師の佇まいそのものであった。
「蒸し小屋の上部に設けた、余分な蒸気を逃がすための換気の隙間も、僅かに広げて調整しておきました。あまりに熱が籠もりすぎて空気の通りが悪くなれば、父上の痛む傷口を不必要にあぶることになり、かえって身体に障りますからね」
「……小竹、お前は本当に、生を受けてまだ数年の子供なのか」
「兄上こそ、私のことをそのように評する資格は、どこを探してもお持ちではないと思いますよ」
小竹は、自らの手を休めることなく、一切の表情を変えずに平然と言い返してきた。
日吉は、その的確すぎる弟の物言いに、思わず口元に苦笑を浮かべるしかなかった。
まさにその時、蒸し小屋の重い板戸が静かに開き、母親のなかと姉のともが、冷たい夜気を浴びながら中へと入ってきた。
二人とも、その両手には、家じゅうから集めてきたと思われる、ありとあらゆる布類の山を、溢れんばかりに高く抱え込んでいた。
家族全員の古い着物、夜を凌ぐための粗末な布団、寝床に敷くための帯や紐。
それらの布類を、この蒸し小屋の猛烈な熱気と蒸気の中に晒すことで、目に見えぬ虫や、病を運ぶ虱、蚤の類を、熱の力によって根こそぎ退治するためであった。
この不衛生極まりない時代にあっては、ただの「不潔」という事象が、そのまま人々の死と直接的に結びついている。
身体にたかる蚤や虱は、単に肌を痒くさせる不快な害虫などではなく、時には恐るべき斑疹チフスや熱病を媒介し、免疫の落ちた人間の命をいとも容易く奪い去る、恐るべき死の使者であったのだ。
だからこそ、定期的にすべてを洗い流し、火であぶり、猛烈な熱気で蒸し上げる。
それは、単に身体の汚れを落とすための娯楽などではなく、この理不尽な世界で一日でも長く生き延びるために、必要不可欠な闘争の儀式であった。
「よし、準備は全て整ったな。これより、浄化を始めるぞ」
弥右衛門が、熱に浮かされながらも、自らの大きな右手で、水を入れた木製の柄杓を力強く持ち上げた。
次の瞬間。
極限まで赤熱し、大地の熱を湛えた川石の山に向かって、冷たい水が一気に叩きつけられた。
轟ッ――!!!
狭い小屋の内部に、まるで大砲が破裂したかのような、凄まじい大音響が鳴り響いた。
水が激しく気化し、一瞬にして濃厚な白い蒸気が、爆発的な勢いをもって四方八方へと噴き出していく。
目の前の視界は、瞬時に真っ白な霧によって完全に遮られ、他者の姿を視認することすら不可能となった。
それと同時に、猛烈な熱気の波が、まるで生き物のように日吉たちの剥き出しの肌へと一斉に噛みついてきた。
鼻腔の奥を鋭く焼くような、濃厚な湿気。
肺腑を直接焦がすかのような、圧倒的な熱。
しかしながら、この肉体に苦痛を強いるほどの暴力的な熱気こそが、今彼らにとって、何よりも必要な救いの力であったのだ。
姉のともが、蒸気の中で必死に目を細めながら、持ち込んだ布類を素早く広げ、母親のなかがそれらを手際よく木製の棒へと掛けていく。
熱い蒸気が繊維の奥深くにまで瞬時に浸透し、そこに潜んでいたであろう目に見えぬ無数の汚れや、害虫の卵を、容赦なく叩き潰して死滅させていく。
そして父親の弥右衛門は、その白い蒸気の渦の中で、無言のまま、自らの左腕に固く巻きつけられていた布を、ゆっくりと剥がし落とした。
それを見た母親のなかが、思わず小さく息を呑んだ。
日吉もまた、その凄惨極まりない傷口の状態に、一瞬だけ視線を逸らしそうになるのを、自らの意志で必死に堪えた。
酷い状態であった。
刃物によって裂かれた傷口の縁は、不気味な暗紫色から、徐々に黒ずみ始めており、周囲の肉は激しく腫れ上がって熱を放っている。
しかしながら、幸いなことに、肉全体が腐り落ちて完全に崩壊する、最悪の「壊疽」の段階にまでは、未だ至ってはいなかった。
まだ、十分に間に合う。
この熱の力をもって不浄を焼き払えば、必ず父親の身体は快方に向かうはずだと、今はただ、自らの知識を強く信じ抜くしかなかった。
弥右衛門は、立ち込める猛烈な蒸気の吹き出し口に向けて、自らの傷ついた左腕を、無防備に真っ直ぐと晒し続けた。
傷口に直接、激しい熱を当てる。
普通の人間であれば、その激痛のあまりその場でのたうち回り、絶叫を上げるであろう過酷な行為であった。
しかしながら、父親は頑なに自らの奥歯を噛み締めたまま、眉一つ動かすことなく、ただ静かにその熱を受け止め、自らの不浄を焼き払い続けていた。
「この程度の傷、決して腐らせてなるものか」
男の喉の奥から、低く、魂を震わせるような重苦しい決意の声が漏れ出た。
「この俺の身体は、これしきの泥の熱ごときで、まだ折れるほどヤワにはできてはおらんわ」
その言葉の中に込められた、凄まじい生の執念の前に、狭い小屋の中にいた家族の誰もが、言葉を失って静かに押し黙った。
弥右衛門は、単に家族の前で格好をつけて強がっているのでは決してなかった。
彼は、本気で自らの肉体に向けて、絶対にここで倒れるな、絶対にここで屈するなと、命がけの命令を宣告し続けているのだ。
その男の生きるための凄まじい覚悟の前に、日吉はただただ、深い畏敬の念を抱くほかなかった。
「日吉、お前もいつまでもそこに突っ立っておらんで、早くここへ入って身体を温めろ」
父親に促され、日吉は深く頷き、蒸気の最も濃密に立ち込める床の上へと、静かに自らの身体を横たえた。
猛烈な、呼吸することすら困難なほどの熱気であった。
皮膚がじりじりと焼けるように熱く痛み、激しい汗が、額から、背中から、胸元から、まるで滝のように絶え間なく噴き出してくる。
しかしながら、その過酷な熱に身を晒すうちに、これまでの凍えるような日々の中で、肉体の奥底、骨の隙間にまで深く澱み、溜まり続けていた暗い冷えが、内側から強引に溶かされ、解き放たれていくのが、肌で感じられた。
汗とともに、自らの肉体を蝕んでいた不快な疲労や、精神的な凝り固まりが、一滴ずつ体外へと流れ落ち、洗い流されていく。
これは、単なる肉体の癒やしなどでは決してなかった。
きたるべき過酷な戦いに備え、自らの錆びついた肉体という名の武器を、熱の力によって徹底的に研ぎ澄まし、調整するための、神聖な「整備」に他ならなかった。
隣に座っていた小竹が、自らの小さな手首に指を当て、静かに自らの脈の波を測っていた。
「熱によって、血液の巡る速度が、平時とは明らかに異なる速さに変わっていますね」
「お前には、そのようなことまで感覚で理解できるのか」
「ええ。身体の全体の動きが劇的に軽くなり、頭脳の霧も晴れて、冴え渡っていくのが分かります。やはり、兄上の説く『熱の理屈』は、この乱世を生き抜くために、何よりも正しい知恵なのですね」
そう言いながら、小竹は、立ち上る蒸気の流れる規則正しい方向を、極めて真剣な表情で見つめ続けていた。
その瞳は、まるでこれから挑むであろう、広大な戦場における風の向きや、敵の陣形の推移を、冷徹に見極めようとするかのような、不気味なほどの知性を湛えていた。
「人間という生き物は、本当に、脆くて壊れやすい存在ですね」
小竹が、白い蒸気の向こう側を見つめたまま、ぽつりと静かな声を漏らした。
「ほんの僅かな汚れによって容易に病に侵され、ほんの僅かな冷気によって、いとも呆気なく冷たい骸へと変わってしまう。だからこそ、私たちは、自らの手で自らの肉体を、常に整え、律し続けなければならないのですね」
その声の響きには、五歳に満たない子供特有の甘えや、迷いの色は一切存在しなかった。
日吉は、その弟の卓越した言葉を聞いた瞬間、自らの背筋に、一筋の冷たい衝撃が走るのを確かに感じた。
この小竹という弟は、おそらく、生まれながらにして、この狂った乱世を生き抜くための、最も完璧な資質を、その魂の深淵に最初から備えている存在なのだ。
決して環境に壊されることなく、決して道徳に迷うことなく、冷徹に、かつ確実に生き残るための側にある人間。
彼らは、これから始まるであろう歴史の荒波の中で、一体どのような存在へと成長し、どのような恐るべき手腕を発揮していくのだろうか。
やがて、限界まで肉体を熱し抜いた後、彼らは蒸し小屋の重い板戸を開け、外の冷え切った大気の中へと一歩を踏み出した。
凍てつく夜風が、熱せられた皮膚へと刃のように鋭く突き刺さり、一瞬にして全身の毛穴がキュッと強固に引き締められる。
そこへ向けて、井戸から汲み上げたばかりの、氷のように冷たい水を、頭から豪快に浴びる。
心臓が一瞬だけ完全に停止するかのような、凄まじい衝撃が全身を貫いた。
しかしながら、次の瞬間には、身体の奥深くから、爆発的な勢いをもって、温かい生血が全身の隅々へと激しく循環し始めるのが感じられた。
極限の熱と、極限の冷気。
生と、死。
その、生と死を分かつ危うい境界線を、自らの身体を以て何度も跨ぎ越すことによって、人間の肉体は、過酷な自然に適応し、少しずつ、だが確実に強固なものへと鍛え上げられていくのだ。
この時代に生きる名もなき農民たちは、このような素朴で、かつ凄まじい知恵と執念を用いて、厳しい冬の牙を何代にもわたって乗り越えてきたのであった。
母屋へと戻る頃には、冷え切っていた家族全員の顔に、健康的で美しい赤みが、確実に戻ってきていた。
囲炉裏の火が、彼らの帰りを歓迎するかのように、温かく優しく部屋を照らし出している。
姉のともが、自らの濡れた長い黒髪を、指先で優しくほどきながら、日吉の方へと微笑みかけた。
「日吉、少しばかり、私のこの髪を結い直してはくれないかい」
「ああ、お易い御用だよ、とも姉」
日吉は、手渡された木製の粗末な木櫛を自らの手に取り、姉のとものすぐ後ろへと腰を下ろした。
そして、姉の長い美しい黒髪を、一本ずつ丁寧に櫛で梳いていく。
火の光に照らされたその長い髪は、まるで漆黒の絹糸のようであり、光の角度によって、不気味なほどに美しく、赤みを帯びて輝いていた。
前世におけるあの合理的で無機質な社会にあって、ただ冷酷な売上目標の数字を追いかけ、設計図を引き続けていた自らの指先が、今、この戦乱の混沌のただなかにあって、自らの大切な家族の髪を、優しく結っている。
しかしながら、日吉はその単調で素朴な作業を行っている時間が、不思議と嫌いではなかった。
乱れた髪を綺麗に整えること。
破れた衣服の汚れを落とし、綺麗に直すこと。
そのような、日々の極めてささやかな生活の「秩序」を自らの手で維持することこそが、この狂った不条理な時代にあって、人間が自らの尊厳と正気を保ち続けるための、何より重要な心の防壁となるのだ。
「日吉は、本当に何をやらせても器用で、羨ましいねぇ」
「とも姉が、少しばかり不器用すぎるだけだよ。もう少し、自分の髪くらい綺麗に結べるようにならないと、将来が思いやられるよ」
「まあ、随分とひどい言い草だね。せっかく褒めてあげたというのに」
姉のともの、心からの無邪気な笑い声を聞いていると、日吉の胸の奥を支配していた、あの暗く重苦しい生存の不安が、僅かだけ軽くなるのを感じられた。
しかしながら、自らの視線を僅かに横へと向けたその瞬間、そのひとときの温かさは、無残にも現実の冷酷な重みによって、一瞬にして引き戻されてしまうこととなった。
父親の弥右衛門が、囲炉裏の脇で、激しい苦痛に耐えるように、肩を大きく上下させながら荒い呼吸を繰り返していたのだ。
熱であった。
先ほどの蒸し風呂の圧倒的な熱気によって、一時的に誤魔化されていたはずの、あの恐るべき腐敗の熱が、再び、じわじわと父親の肉体を支配し、戻り始めていたのである。
それでも、父親は一切の泣き言や喘ぎの声を漏らすことはせず、ただ黙って、燃え盛る火を睨みつけるようにして見つめ続けていた。
その、死の淵にあっても決して折れることのない、強固な男の覚悟の姿が、日吉の目には、妙に痛々しく、そして怖くて仕方がなかった。
この男は、本当に、自らの命が完全に燃え尽きて力尽きるその最期の瞬間まで、決して弱音を吐くことなく、ただ立ち続け、家を守ろうとするのだろう。
その凄まじい覚悟の気配が、男の広い背中から、静かに染み出していた。
「日吉」
弥右衛門が、熱に浮かされながらも、低い、重厚な声で語りかけてきた。
「お前のその手、櫛を握ったまま、随分と小刻みに震えているぞ」
日吉は、父親に指摘されて初めて、自らの指先を見つめ直した。
確かに、櫛を握る自らの手が、意図しない微かな振動を伴って、静かに震え続けていた。
それは、迫り来る最悪の破滅に対する、本能的な「恐怖」によるものなのか。
あるいは、これまでに経験したことのない極限の戦いに挑むことへの、「緊張」によるものなのか。
それとも……。
「……これは、ただの武者震いだよ、父ちゃん」
日吉は、木櫛を静かに床に置くと、自らの両手を力強く、きつく握り締めてみせた。
「俺は、ただ……このせっかく手に入れた、大切な我が家を、奴らのような理不尽な連中に、絶対に潰させたくないだけだ」
囲炉裏の火が、パチパチと音を立てて大きく爆ぜ、赤い火の粉が暗闇の中へと美しく舞い散った。
瀕死の窮地にあっても闘志を失わぬ、父親の強固な背中。
暗闇の中で静かに、かつ冷徹に牙を研ぎ続ける、小竹の冷たい双眸。
家族のために一睡もせずに尽くす、母親の疲れ果てた横顔。
そして、暗闇の中で可憐に咲く花のように、優しく微笑む姉のともの姿。
それら家族の存在のすべてが、今、日吉の胸の奥深くに、刺すような鋭い痛みとともに、深く刻み込まれていた。
何としてでも、この大切な生活を守り抜きたい。
その、生への執念に満ちた泥臭い感情だけは、かつての前世のいかなる取引においても得られなかった、本物の真実であった。
前世におけるあの希薄な暮らしの中にあっては、誰かのために自らの爪を立て、命を賭してまで牙を剥くなどという真似は、ただの一度として行わなかった。
しかし、今は全く異なる。
もしも、自分たちのこのささやかな幸せを、力ずくで踏みにじり、奪い去ろうとする者が現れるのであれば。
それが、この村を支配する庄屋であろうとも、あるいは、世界を恐怖で統べるいかなる強大な権力者であろうとも、すべての知恵と毒を用いて、徹底的に噛み砕いてやるまでだ。
その、冷徹極まりない決意の重みが、熱を帯びた鋭い鉄の塊のように、日吉の腹の底へと、静かに、そして強固に沈殿していくのを感じていた。
外の世界では、冬の嵐が、まるで獣の咆哮のような不気味な音を立てて吹き荒れていた。
冬の夜はどこまでも深く、冷酷であったが、その暗闇のすぐ向こう側では、正月の祭りの席で行われるあの「棒試合」に向けた、村の男たちの醜い悪意が、確実に、そして急速にその実を育てつつあった。
伝統という名の理不尽な掟。
力を持つ者だけがすべてを支配する、村の力の序列。
そして、暴力だけが勝者を決定する、残酷な生存のルール。
それら避けては通れぬ過酷な現実が、もう目と鼻の先、目前の暗闇にまで確実に迫り来ていた。
しかしながら、日吉の心には、もはや一片の怯えや、躊躇の曇りなどは存在しなかった。
自分たちは今、この過酷な試練を通じて、確かに、変わり始めているのだ。
ただの合理的な知恵だけでもなく、ただの力任せの暴力だけでもなく、この戦乱の世を生き抜くために必要なすべての武器を、自らの血と、熱のうねりの中で、完璧に鍛え直し始めていた。
そして、その長い嵐の先に待ち受けているものは、きっと――。
この白く凍りついた尾張の雪景色を、自分たちの放った火と、他者の流す生血によって、鮮やかに赤く染め上げる、新たなる戦いの始まりに他ならないのであった。




