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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第七話:血の序曲

第七話:血の序曲


 夜半の川面というものは、まるで巨大な飢えた野獣の暗い臓腑の内部そのものであるかのように、底の知れぬ深い漆黒を湛えて澱んでいた。

 凍てつく冬の水音は、重く湿った沈黙を引きずるようにして低く、かつ鈍く響き、泥だらけの岸辺の冷たい石にぶつかるたび、夜の凍えきった空気に更なる不吉な湿気をもたらしていく。

 水際を渡る鋭利な風は、まるで研ぎ澄まされた錆び刀を剥き出しにしたかのようであり、ただ頬をかすめて吹き抜けるだけで、肉体の中に辛うじて残されていた僅かな皮膚の熱を、瞬時に毟り取っていく。

 しかしながら、その凍てつく風の音の隙間に、明らかに自然の営みとは異なる、他者の不穏な気配を含んだ異物のような摩擦音が、静かに混ざり合い始めていた。


 ざっ。  ざ、ざっ――。


 水分を含んで重くなった雪混じりの凍土を、力任せに踏み抜く、複数の人間による重苦しい足音であった。

 それは、獲物を執拗に追い詰める野生の獣が、近づく際に立てるような、一切の遠慮も戸惑いもない不気味な歩き方であった。

 こちらにその殺気に満ちた気配を悟られたところで全く構わない、もし逃げ出す度胸があるならば今すぐに逃げてみろと、暗闇の向こうから傲慢に嘲笑いかけているかのような、不遜極まりない足取りに他ならなかった。


 日吉は、自らの小さな歩みを静かに止め、冷たい闇の向こう側へとゆっくりと振り返った。

 その細い右手には、麻紐と獣の脂で厳重に補強された、短く硬い革巻きの木の棒が、吸い付くようにしてしっかりと握りしめられていた。

 ただの大人たちの目から見れば、それは貧しい子供がそこらの道端で拾って弄んでいる、他愛のない玩具の棍棒にしか見えぬ粗末な代物であった。

 しかしながら、その内部には、熱を加えて驚異的なしなりを持たせた強固な青竹が通されており、さらに外側を濡れた獣の革によって幾重にもきつく締め上げ、その先端の内部には、川底から拾い集めた鉛のように重く硬い黒石が、隙間なく埋め込まれているのである。

 子供の脆弱な筋力であっても、ひとたびこれを振り抜けば、石の自重による遠心力が瞬時に先端へと走り、打撃の破壊力を恐るべき速度で増幅させることができる。

 細い腕であっても、打撃の衝撃を拡散させることなく、相手の骨の特定の箇所へ、針の先のように鋭く集中させることが可能となるのだ。

 ここで狙うべき箇所は、大人の男たちが鍛え上げることのできる、屈強な筋肉の防壁などでは決してなかった。

 骨と骨が複雑に噛み合う関節の隙間、肉の奥に深く隠された経絡の急所、あるいは、人間の直立を支える耳の裏の三半規管。

 人間という生物が、どれほど過酷な戦場で肉体を鍛え抜こうとも、その構造上、決して物理的に守り抜くことのできない、絶対的な脆弱の急所だけを、容赦なく狙い撃つのである。

 前世におけるあの合理的で科学的な医療の知識を、この戦乱の泥と血にまみれた土壌の中で、最凶の殺傷の武器として形にした結果が、この手の中の奇妙な防衛具であった。


「兄上」


 すぐ背後の、濃い川霧の立ち込める暗闇から、気配を殺した小竹の、冷ややかな囁きが耳元に届いた。


「敵の数は、三人です」


 その声の響きには、同年代の子供が有するはずの恐怖や恐怖の震えは微塵もなく、ただ冷徹な現実の数だけを正確に計算しているかのようであった。


「全員が、迷うことなく私たちをここで殺し、泥の中に埋め去るつもりで足を進めていますよ」


 小竹は、ただ眼前に迫る最悪の因果を、数えるようにして淡々と告げていた。

 やがて、白く濁った川霧の向こう側から、闇を切り裂くようにして、村の男たちの醜い姿が静かに浮かび上がってきた。

 先頭に立っていたのは、あの村の炭焼きの一族を取り仕切っている、強欲で名高い元締めであった。

 その後ろには、まるで冬眠を目前に控えた狂暴な熊を思わせる、凄まじい体格を誇る大男と、かつて他の小競り合いで鼻筋を無残に叩き潰された、鋭い眼光を持つ痩せ男が、影のように付き従っている。

 三人とも、その両手には、野良仕事や薪割りで使い古された、鉄製の鋭い斧をぎゅっと握りしめていた。

 その刃先には、乾いた樹液や泥が不快にこびりついており、その隙間には、赤黒い澱みのような古い染みが不気味に残されている。

 それは決して木の樹液などが残した色ではなく、これまでにこの村の不条理な小競り合いの中で、他者の肉体を切り裂いて浴びてきた、人間の生血が凝固して張り付いた痕跡に他ならなかった。

 安物のどぶろくの饐えた臭いを含んだ男たちの荒い息遣いが、凍てつく冬の北風に乗って、日吉の鼻腔を嫌悪とともに刺激する。


「よう、貧乏農家の小猿の餓鬼め」


 元締めは、自らの優位を確信したように、足元の冷たい雪の上へと激しく唾を吐き捨てた。


「この数日の間、我が物顔で随分と小賢しく好き勝手な真似をしてくれたではないか」


 男が斧の太い柄を握り直すたび、その硬い指の関節が、ミシミシと不吉な音を立てて鳴り響く。


「誰も見たことのないような妙な竈などを村中に広めやがって。あのような余計なものが各家に普及してみろ、冬の間に誰も俺たちの炭を買わなくなってしまうではないか。そうなれば、俺たち一族は、この冬の間に飢えて死に絶えるしかなくなるのだよ」


 冷たい月明かりが、雲の隙間から一瞬だけ顔を覗かせ、男たちが手にした斧の鋭い刃先を、鈍く不気味に照らし出した。

 その金属の冷酷な光を目にした瞬間、日吉の脳裏の奥底で、かつて大切に守り続けていた「ある一線」が、音もなく、かつ静かに切り替わったのを自覚した。

 誠意を持って話し合えば、いつかは分かり合える。  合理的な理屈を並べて説明すれば、相手も納得し、説得できる。

 自らの行いが正しく、有益なものであれば、社会はそれを受け入れてくれる。

 前世における、あの温室のような平穏な近代社会において、至極当然の常識として信じ込んでいた甘い感覚のすべてが、今や遥か彼方のお伽話のように、ひどく非現実的なものとして感じられた。

 この暴力が唯一の法である戦国という時代においては、そのような高尚な道理など、何の意味も持たない。

 物事が正しいか、あるいは間違っているかなどということではなく、目の前の存在が、自らにとって物理的に「恐怖であるか、あるいは従わせるべき弱者であるか」、突き詰めれば、それだけの極めて単純な二者択一の掟に支配されているのだ。

 力を持つ強者が口にする言葉こそが、この地における唯一の絶対的な「理」となる。

 昼間のうちに行われた村長の屋敷での小競り合いにおいて、父親の弥右衛門が血だらけにされて帰ってきたその瞬間に、日吉はその残酷な真理を、身を以て理解していたはずであった。

 村の支配者たちは、日吉が生み出した新しい知恵を、神仏への冒涜などとして恐れているのでは決してない。

 その知恵が普及することによって、これまでに築き上げてきた自らの特権的な地位や、村内における絶対的な支配の構図が、根底から崩れ去ることを、何よりも激しく恐れているのだ。

 炭焼きは、冬の間に薪や炭を高値で売りつけることで、他者の命の生殺与奪の権利を握って生きている。

 庄屋の連中は、その流通と分配の絶対的な主導権を握ることで、村全体の富を独占して生きている。

 そこへ突然、これまでの半分の薪だけで十分に冬を越すことのできる、画期的な改良竈が突如として出現したのだ。

 しかもそれを作り出したのが、村の中でも最も身分が低く、奴隷のように見下していた、貧乏小作農の卑しい倅であった。

 彼らにしてみれば、そのような不条理な技術の台頭を、面白く思えるはずが万に一つもない。

 だからこそ、彼らは自らの支配を維持するために、その芽を初期のうちに徹底的に摘み取り、叩き潰しに来たのだ。

 道理や話し合いによってではなく、最も原始的で、最も確実な「物理的な暴力」を用いて。

 ならば、こちらもまた、彼らが唯一理解することのできる、その「暴力」の言語をもって、彼らの頭脳に直接、生存の境界線を刻み込んでやるほか、生き残る道は残されていなかった。


「来るぞ、小竹。一瞬の猶予も挟むな」


 日吉がその言葉を口にし、重心を低く落とした、まさにその一瞬の刹那のことであった。


「小猿の餓鬼ども、ここで冷たい泥に還りやがれッ!!」


 先頭の元締めが、獣のような絶叫を上げながら、その場から一気に躍り出た。  両手で高く掲げられた重い木割り斧が、頭上から一文字に、容赦なく振り下ろされる。

 大気を引き裂く、ごう、という重苦しい風切り音が、日吉の鼓膜を激しく震わせた。

 その一撃の破壊力は、もしもまともに子供の華奢な肉体で受け止めてしまえば、頭蓋骨ごと一瞬で圧し潰され、即死を免れぬほどの凄まじい威力を秘めていた。

 しかしながら、その攻撃の軌道は、破壊力に比例して、あまりにも直線的で、大振り極まりないものであった。

 自重のある重い鉄製の武器というものは、ひとたびその運動を開始してしまえば、慣性の法則に従って、その軌道を途中で強引に変更することは、人間の筋力をもってしても極めて困難となる。

 日吉は、降り積もった雪を自らの小さな足並みで鋭く蹴り上げた。

 だが、攻撃から逃れるために後ろや横へと退避するのではなく、逆に、死の刃が迫り来るその真正面に向かって、自らの身体を滑り込ませるようにして一歩踏み込んだ。

 斧の鉄刃が、日吉の鼻先をわずか数分の距離で冷酷にかすめ抜けていく。  金属が発する、焼けるような冷たい風圧が、日吉の頬の皮膚を激しく打ち据えた。

 そのまま、元締めの大きな懐の中へと完璧に潜り込み、日吉は自らの右手に握られた、あの獣革巻きの木の棒を、男の右肘の内側の窪みへ向けて、渾身の力を込めて正確に突き刺した。

 狙うのは、鍛え上げられた外側の筋肉ではなく、関節の隙間の、肉の奥に深く走る、太い経絡の急所である。

 どれほど頑強な大男であっても、物理的に守り防ぐことのできない、人体の構造上の弱点そのものであった。


 ゴッ――!!


 鈍く湿った、骨と革が激しく激突する嫌な衝撃音が、暗闇の中に響き渡った。


「が、はぁぁぁぁッ!? 腕が、腕が動かんッ!?」


 元締めは、自らの右腕に走った、まるで雷を直接流し込まれたかのような激しい麻痺と激痛に、一瞬にして絶叫を上げ、その場に崩れ落ちかけた。

 指先の感覚を完全に失ったその手から、強固に握られていたはずの斧が呆気なく零れ落ち、雪の上へと鈍い音を立てて転がっていった。

 しかし、その勝利の余韻に浸る間もなく、背後に控えていたあの熊のような大男が、獣のような低い咆哮を上げながら、日吉に向かって狂暴に突っ込んできた。

 男は自らの手にした武器を振るうことすら億劫であるかのように、ただ自らの圧倒的な体重と質量を武器にして、日吉の小さな身体を押し潰すことだけを狙っていた。

 わずか八歳に満たない貧しい子供など、ただ上から圧し潰し、雪の中に踏みつけて骨を砕いてしまえば、それだけで容易に片付けることができると、高を括っているに違いなかった。


「兄上、そのままで!」


 背後から、小竹の鋭い、静かな声が響いた。  その声を合図にするかのように、暗闇の奥から、凄まじい速度で一塊の物体が飛来した。

 それは小竹が、あらかじめ川岸で拾い集めておいた、自らの拳ほどの大きさの、重く角張った黒石であった。

 その投石は、大男が日吉に激突しようとするその直前、寸分の狂いもなく、男の眉間のちょうど中央へと、激しい音を立てて直撃した。


 ゴンッ――。


 乾いた、不快極まりない硬い音が闇に響く。


「ぬ、ぐおっっ!?」


 大男は、不意に視界を赤黒い鮮血に遮られ、その巨体を僅かに揺らしながら、突進の軌道を大きく乱してよろめいた。

 その眉間から一瞬にして激しい衝撃が走り、男の意識に、致命的な一瞬の「空白」が生じた。

 日吉にとって、その僅かな隙の発生だけで、勝利を決定づけるには十分すぎる時間であった。

 日吉は自らの姿勢を、大地の泥に溶け込むかのように低く落とし、男の直立を支えている足首の細い関節、そして膝の裏の靭帯を狙って、手の中の木の棒を電光石火の速度で連続して叩き込んだ。

 狙うべきは、人間の身体を支えるための、物理的な柱の噛み合わせだけである。


 ゴッ。  ゴギッ。


 人間の関節が、不自然な方向へと強引にへし折られる際の、鈍く、かつ背筋の凍るような不快な感触が、日吉の掌を通じて直接伝わってきた。


「ぎゃあああああああッっ!? 足が、俺の足の骨がぁぁぁっっ!!」


 大男の強固な膝の関節が、内側から完全に破壊され、あり得ない方向へと不自然に曲がった。

 その巨体は支えを失い、まるで切り倒された大木のように、泥だらけの雪の上へと無残に崩れ落ちていった。

 日吉は、男が再び起き上がるのを防ぐため、倒れ込みながら苦悶の喘ぎを漏らすその首元の喉仏に向かって、自らの小さな右膝を、容赦なく体重を乗せて落とし込んだ。

 肺の中の空気が、力ずくで一気に押し潰されるような、ヒュッという不快な音が静寂の中に響く。

 大男は白目を剥き、全身を泥だらけにしながら、しばらくの間小刻みに痙攣を繰り返した後、そのまま完全に意識を失って沈黙した。

 命を奪うことまではしなかったが、これほどの致命的な関節の破壊を被った以上、この男が再び自らの足で立ち上がり、他者に暴力を振るうことは、二度と叶わないであろう。


 三人目の、鼻筋の潰れた痩せ男は、自らの仲間の無惨な没落を目の当たりにして、自らの歩みを完全に止め、その場に棒立ちになっていた。

 その細い瞳は、信じられないほどの驚愕と、底知れぬ恐怖のために激しく左右に揺れ動いていた。

 目の前に立っている、わずか八歳に満たないはずのこの子供が、決して自らのような力任せの暴力で片付けることのできる、生温かい存在ではないことを、ようやくその愚かな脳髄で理解し始めた顔であった。


「ば、化け物め……! お前は、本当に人間なのか……っ!?」


 男は、自らの恐怖を吹き飛ばすかのように、狂ったように叫び声を上げながら、自らの斧を滅茶苦茶に振り回して突っ込んできた。

 ここで引き下がり、弱さを見せて逃げ帰れば、村の掟によって、今度は自らの一族が完全に食い潰され、没落することを知っているからこそ、恐怖を力ずくで飲み込んで、前へ進むほかなかったのだ。

 しかしながら、その恐怖に支配された男の動きは、日吉の目から見れば、あまりにも乱雑で、隙だらけの代物であった。

 肩には不必要な力が入り、視線はどこを狙うべきかも定まらず、泳いでいる。

 日吉は、一歩も後ろへ下がることなく、逆に自らの側からその死の嵐の渦中へと深く踏み込んだ。

 男の斧の刃が、日吉の左肩の衣服を浅くかすめ抜け、麻の布地を引き裂いた。

 皮膚が小さく裂け、焼けるような鋭い痛みが走ったが、それは日吉の歩みを止めるほどの致命的な傷ではなかった。

 そのまま、男の顎のすぐ下、最も無防備な急所へと向けて、手の中の革巻きの棒を、下方から突き上げるようにして一気に叩き込んだ。


 バギッ――!!


 男の顎の骨が、鈍い音を立てて砕け散り、口内から数本の白い歯が、鮮血とともに暗闇の中へと激しく飛び散った。

 男の頭部が、衝撃のために大きく後ろへと跳ね上がり、その双眸から完全に焦点を失わせる。

 日吉は、休むことなく、男の肋骨のちょうど真ん中の鳩尾に向けて、横薙ぎの一撃を鋭く叩き込んだ。

 肺の空気をすべて奪い去り、さらに、よろめいた男の右耳のすぐ後ろの急所に向けて、手の中の棒を力任せに打ち下ろした。

 平衡感覚を完全に破壊された痩せ男の肉体は、もはや直立を維持する力を失い、そのまま前触れもなく崩れ落ち、泥だらけの雪の中に顔面から深く沈み込んでいった。


 周囲は、一瞬にして、深い、静寂の奥底へと引き戻された。

 聞こえてくるのは、川面を渡る冷たい冬の風の音と、足元に転がっている男たちの、痛々しい呻き声だけであった。


「ひっ、ひぃっ……!」


 先ほどまで傲慢な態度を崩さなかった、あの炭焼きの元締めが、自らの右腕をきつく押さえたまま、ガタガタと全身を激しく震わせながら、後退りしていた。

 その顔からは完全に血の気が失せており、まるで死神の姿を目の当たりにしたかのような、絶望に満ちた怯えが浮かんでいた。

 わずか数息前まで、自らが無力な子供を一方的に狩る側の強者であると確信していた男の表情では、もはやどこを探しても見当たらなかった。


「……来いよ」


 日吉は、冷徹な響きを伴った声で、短く語りかけた。

 自らの右手に握られた革巻きの棒の先端からは、男たちの生血が、ぽたり、ぽたりと、白い雪の上へと冷酷に滴り落ちていた。


「もし、まだこれ以上俺たちの知恵を力ずくで奪うつもりがあるならば、次は、お前のその両足を叩き潰して、二度と歩くことのできない身体にしてやるぞ」


 元締めは、その脅迫の前に完全に自らの闘志を喪失し、悲鳴を上げながら、雪に足を取られて尻餅をつきかけた。

 そして、地に転がっている自らの仲間を顧みることもなく、そのまま背中を向け、一目散に闇の向こうへと、見っともなく逃げ去っていった。


「お、覚えていやがれ! この恨み、決してただでは済まさんからな!!」


 その、弱者が最後に放つ、情けない怒鳴り声だけが、凍てつく冬の夜風に乗って、虚しく消え去っていった。  日吉は、深く、長く、体内の濁った熱い息を吐き出した。

 肺腑の奥底が、酷使のために焼けるように熱く痛み、激しく脈打つ心臓の音が、耳の奥で太鼓のように鳴り響いている。

 手の中の木の棒を握りしめる指先が、抑えきれぬ微かな振動を伴って、小刻みに震えていた。

 怖かったのだ。  本当は、死ぬほどに怖くて仕方がなかった。

 ほんの一寸の足運びの狂い、あるいは一瞬の判断の迷いがあったならば、今頃この泥の上に倒れ伏し、物言わぬ死体となっていたのは、自分たちの側であったに違いない。

 前世のあの退屈なサラリーマン生活においては、到底経験することのなかった、生と死が極限の薄氷一枚で隣り合わせになっているという、凄まじい「生存の距離」を、日吉は今、自らの肉体を以て深く体感していた。

 彼はしゃがみ込み、積もった冷たい雪の中に自らの血濡れた手を深く突っ込み、こびりついた赤黒い血を、力任せに擦り落とした。

 汚れなき白い雪が、自らの暴力の証明として、赤く染まって溶けていく。

 不快極まりない、鉄の錆びたような血の臭いだけが、いつまでも鼻の奥に、不気味に残り続けていた。


 小竹が、音もなく足を進めて日吉のすぐ隣へと近づき、その泥だらけの姿を見つめた。  その双眸は、どこまでも澄み渡り、静かな光を宿していた。


「兄上は、本当に、随分と変わられましたね」


「……そう見えるか」


「はい。以前の兄上は、どれほどこの乱世を憎みながらも、心のどこかで、人を信じ、分かり合おうとするための、生温かい未練のようなものを抱いておられました」


 日吉は、自嘲気味の笑みを浮かべるだけで、その問いかけに対して返す言葉を持ち合わせてはいなかった。  小竹は静かに言葉を続けた。


「しかしながら、今の兄上は、この弱肉強食の過酷な時代の本当の理屈を、自らの魂で深く理解し、それに適応し始めておられます。その姿を見て、私は今、とても深い安堵を覚えているのですよ」


 その弟の声音に含まれていたのは、自らの兄が暴力の泥沼へと片足を踏み入れたことに対する、不気味なまでの安堵の響きであった。

 まるで、これでようやく、兄が自らと同じ、残酷な現実の世界の住人になってくれたと、確信したかのような響きを帯びていた。


 二人は、男たちの呻き声が響く川辺を後にして、自らの貧しい我が家へと静かに戻った。

 粗末な板戸を押し開けて中に入ると、囲炉裏の僅かな残り火が、風に揺られて弱々しく赤く輝いていた。

 煤汚れた、狭いあばら屋。  だが、そこだけは、外の冷酷な闇の世界に比べて、確かに暖かく、人間らしい安らぎに満ちていた。

 しかしそれと同時に、家の中には、昨夜から続く、濃厚な血の臭いと蜂蜜の甘い香りが、胸を悪くさせるような澱んだ空気となって漂っていた。


「日吉! 小竹! 無事だったのかい!」


 母親のなかが、血相を変えて二人の元へと駆け寄ってきた。  その瞳には、子供たちの無事を心から案じる涙が、いっぱいに溜まっていた。

 姉のとももまた、日吉の裂けた着物の隙間から覗く、血の滲んだ浅い肩の傷口を目にして、顔をさっと青ざめさせ、自らの口元を覆った。


「大丈夫だよ、母ちゃん、とも姉。ただの掠り傷だ。何ということはない」


 日吉は、努めて安心させるような笑顔を作りながら、その場に力なく座り込んだ。  なかの冷たい、だが深い温もりに満ちた指先が、傷口を気遣うようにしてそっと触れる。

 他者の血を流したばかりの冷え切った肉体にとって、その母親の素朴な温もりは、胸の奥深くに沁みるような、えも言われぬ愛おしさをもたらした。


 横たわっていた父親の弥右衛門が、熱の苦しみから僅かに意識を取り戻し、低く呻き声を漏らしながら問いかけた。


「……日吉、外で何があったのだ。誰かと刃を交えてきたのではないだろうな」


「川辺で、あの炭焼きの一族の元締めたちが、待ち伏せをして俺たちの命を狙ってきました」


 弥右衛門の細められた瞳の奥に、一瞬にして、父親としての凄まじい怒りと闘志の火が宿った。


「やはり、あの卑劣な連中め……! すでに手を出してきおったか」


 小竹が、静かに一歩前へと進み出て、感情を排した声で言った。


「今回の全ての争いのもとは、兄上の作ったあの竈の存在に他なりません。主立の連中は、自らの利権を守るために、我が家を村から排除しようとしているのです」


 弥右衛門は、自らの痛む左腕をきつく押さえながら、無念そうに膝を強く叩いた。


「わしは今日、庄屋の家の奥において、村の主立の連中を前にして、日吉の竈の知恵を村全体に広めるべきだと、必死になって道理を説いたのだ。これがあれば、極寒の冬を無事に越せる家が劇的に増えるはずだと」


 父親は、悔しさに顔を歪めながら続けた。


「しかしながら、奴らはただ鼻でせせら笑うばかりであった。貧乏百姓の倅の浅知恵など、村の長年守られてきた神聖な掟を乱す、邪悪な毒にすぎんとな。そうして、最後には『そのような知恵があるならば、まずそれを服従の証として、俺たちへ無償で差し出せ』と力ずくで脅してきたのだ」


 日吉は、その一連の顛末を聞きながら、自らの拳をきつく握り締めた。

 それは、合理性などではなく、ただ自らの既得権益を守りたいという感情的な「保身」によって駆動された、村社会の醜い防衛反応そのものであった。

 彼らは変化を嫌い、変化によって自らの特権的な地位が失われることを、何よりも激しく恐れているのだ。


「それで、父ちゃんは黙って引き下がらなかったんだな」


「当たり前だ。日吉の知恵は、奴らの腐りきった頭脳よりも、遥かに多くの人々を救うことのできる、本物の神仏の加護だと言い返してやったわ。そうして、奴らとの間で激しい掴み合いの乱闘になり、正月の祭りの席において、すべてを『棒試合』によって決定することに持ち越されたのだ」


 室内の空気が、その言葉を聞いて、一瞬にして凍りついたかのように、冷たく張り詰めたものへと変貌していった。  小竹が、静かにその因果を呟いた。


「正月の祭りで、村全体の権利と力関係を決定するのですか」


「そうだ。この村においてはな、祭りの席で行われる棒試合の強さこそが、そのまま家々の戦における有用性を示す基準となり、村の力の序列を決定する、神聖にして絶対的なルールなのだ。もしわしが負ければ……日吉の知恵は全て庄屋の所有物となり、わしら家族はこの村から叩き出され、終わる」


 日吉は、囲炉裏の揺らめく火をじっと凝視しながら、自らの胸の奥底で、凄まじい覚悟の火が、青々と燃え上がるのを感じていた。

 川辺での三人との戦いは、これから始まる本当の生存競争の、ほんの前触れにすぎなかったのだ。

 本番は、正月の棒試合。  もしもここで父親が負けてしまえば、家族全員が、この冷酷な乱世の底へと引きずり落とされ、跡形もなく食い潰されて終わる。

 ただ役に立つ知恵があるだけでは、この世界を生き残ることは叶わない。

 道理や理屈だけでは、他者の剥き出しの欲望を防ぎきることはできないのだ。

 必要なものは、自らを脅かそうとする全ての敵に対して、容赦なく噛みつき返し、その喉元を食い破ることのできる、本物の「牙」に他ならなかった。

 かつて前世において、徹底的に忌避し、遠ざけていたはずの「暴力の掟」を、日吉は今、自らの生存のための唯一の盾として、自らの魂の深淵へと、静かに、そして強固に迎え入れようとしていた。

 戦国の乱世というものは、人がただ単に獣へと退化していく野生の時代などでは決してない。

 獣になりきることすらできず、中途半端な理性や道徳にしがみついて立ち止まっている脆弱な者から順番に、容赦なく肉体を食い散らかされ、消え去っていく、最も厳格で、非情な選択の時代なのだということを、日吉は深く、その骨の髄まで理解するに至るのであった。

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