第六話:限界と暴力
第六話:限界と暴力
地べたに掘られた古い囲炉裏の隅へ、ぽたりと落ちた燻り魚の脂が、ぱちり、と乾いた弾ける音を立てて灰の中で爆ぜた。
生まれた僅かな火花が一瞬だけ薄暗い灰の上を跳ね、次の瞬間には、赤黒く燻る炭火の奥深くへと呆気なく吸い込まれて消え去っていく。
煤けた低い天井に向かって這い上がった細い煙は、何十年もの長い年月の間に幾重にも積み重なった黒い煤の層へ絡みつきながら、風通しの悪い狭いあばら屋の内部を、ゆっくりと円を描くように漂い巡っていた。
焦げ付いた魚の脂の重苦しい香り、干し魚の強い塩気、濡れて腐りかけた湿った藁のにおい、そして、そこに生々しく混ざり合う濃厚な血の気配。
それら全てが入り混じった屋内の臭いは、決して不快感を払拭できるような心地よい性質のものではなかった。
しかしながら、この容赦なき酷寒の尾張の冬にあっては、その息の詰まるような強烈な生活臭の中にこそ、確かな人間の生の証明と気配が存在していたのである。
煙が細々と立ち上り、何かしらの火の温もりが感じられる家というものは、そこに暮らす人々が未だ冷たい骸となって果てておらず、生きているということの、何より確かな証拠であった。
日吉は、灰の中に差した火箸を握り直しながら、囲炉裏の向こう側の薄暗い空間へと静かに視線を向けた。
父親の弥右衛門は、すす気む土壁にその頑強な背中を大きく預けたまま、痛む身体を無理に支えるようにして、静かに胡坐をかいていた。
その太い左腕には、幾重にも洗った古い布が固く巻きつけられていたが、その布の隙間からは、止まらぬ赤黒い血がじわりと滲み出し、赤黒い斑点を作って広がっている。
昨夜のうちに、日吉が貴重な蜂蜜をたっぷりと傷口に塗り込んで施した応急の処置は、確かに傷口の一時的な塞ぎには一定の役目を果たしていたようであった。
しかしながら、父親の身体を内側から蝕んでいる激しい熱までは、未だに引く気配すら見せてはいなかった。
浅黒い額に絶え間なく浮かび上がる、冷たい脂汗。
喉の奥から漏れる、獣のような荒い呼吸の音。 そして、時折自らの意思とは無関係に、ピクリと小さく痙攣するように震える指先。
その病状の推移は、決して楽観視できるものではないことを、日吉の脳裏にある前世の高度な知識が、冷静に、かつ非情に告げていた。
抗生物質もなければ、清潔な消毒液も存在しないこの野蛮な中世において、人は負った傷そのものの痛みによって命を落とすのではない。
真に恐るべきは、傷口が塞がったその後に訪れる、目に見えぬ黴や、雑菌による肉体の侵蝕、すなわち化膿という名の緩やかな腐敗に他ならなかった。
泥まみれの爪や刃物から入り込んだ不浄のものが、血流に乗って全身へと巡り、高熱を呼び起こして、最後には人間の生命活動を内側から静かに、かつ確実に破壊し尽くしていくのだ。
「……日吉、お前は一体何をそんな不気味な顔をして、人のことを見つめていやがるのだ」
弥右衛門が、自らの痛みを悟られまいとするかのように、鼻の奥でフンと大きく荒々しい音を鳴らして日吉を睨みつけた。
「別に、何でもないよ。ただ火の様子を見ていただけだ」
「嘘をつけ。まるでもうすぐこの俺が、冷たい仏にでもなるかのような不吉な顔をしておるではないか」
「父ちゃんの顔色が、昨夜よりも明らかに悪くなっているから心配しているんだ」
「ふん、これしきのかすり傷で、この俺が呆気なく死んでたまるものか」
そう言って弥右衛門は、自らの強がりを示すように、籠の中から残りの焼き魚を一つ乱暴に掴み取ると、それを頭から豪快に噛み砕いてみせた。
バキ、ボリ、と魚の硬い骨が鋭く割れていく生々しい音が、狭い室内に不気味なほどの存在感をもって響き渡る。
隣に座っていた姉のともが、その音に思わず身体を強張らせ、自らの細い肩を震わせた。
弥右衛門は、そんな娘の怯えるような様子を見て、自らの痛みを吹き飛ばすかのように、わざと大声で快活に笑い声を上げてみせた。
「安心するが良い、とも。この俺の頑丈な歯は、これしきの小魚の骨程度で折れるほど、柔にはできておらんわ」
「父ちゃん、私はそんなことを心配しているんじゃないよ……」
「ならば一体何を心配することがあるというのだ。ここで皆で雁首を揃えて、おめおめと涙を流せば、この腕の傷がたちまち綺麗に治るとでもいうのか」
ともは、父親のその頑なな態度に、それ以上何も言えなくなって、小さく口を閉ざしてうつむいた。
母親のなかが、心配と諦めの入り混じった顔をしながら、沸かしたばかりの温かい白湯を入れた粗末な器を、静かに夫の前へと差し出した。
「強がるのも大概にしてくださいよ、あなた。そんなことで、傷が早く良くなるわけではないのですから」
「強がってなどおらんわ。ただ、身体を動かして気合いを入れておるだけだ」
「口では何とでも言えますが、さっきからその大きな身体が、熱のあまり小刻みに震えているではありませんか」
「これは、ただ外から吹き込む風が冷たくて、少しばかり寒いだけだ」
「温かい囲炉裏の火の真ん前に座っていながら、寒いなどと、よくもまあそんな白々しい嘘が言えたものですね」
母親の、呆れ果てた、だが深い慈しみに満ちたその小言を聞いて、弥右衛門は流石に返す言葉を失ったのか、気まずそうに視線をそらし、それ以上何も言わずに黙り込んだ。
日吉は、その家族のいつもの日常と変わらぬ、素朴で泥臭いやり取りを眺めながら、心の中でほんの僅かだけ、張り詰めていた緊張の糸を弛めることができた。
このように互いに憎まれ口を叩き合い、言い合えている間は、未だ人間の生命の火は、完全には消え去ってはいない。
真に生命が危機に瀕し、死の淵へと片足を踏み入れたとき、人間は声を発することすら叶わなくなり、ただ物言わぬ抜け殻のようになっていくことを、日吉は十分に知っていたからだ。
小竹が、手にした古びた火箸を用いて、囲炉裏の灰を静かに弄びながら、低い、だが確かな響きを持った声でぽつりと語りかけてきた。
「父上」
「何だ、小竹」
「昨夜、村長の屋敷の奥で一体どのような恐ろしいことが起きたのか、包み隠さずに詳しく私たちに聞かせてはくれませんか」
囲炉裏の赤い火の光が、小竹の未だぷっくりとした幼い横顔を、静かに照らし出していた。 生を受けて未だ五歳にも満たない幼子の顔立ちである。
しかしながら、その双眸の奥底に宿る光だけは、この世のあらゆる悲惨を見届けてきたかのように、不気味なほどに静まり返り、澄み切っていた。
日吉は、隣に座るその弟の姿を、深い感銘とともに静かに見つめ返した。
小竹は、一見すれば普段と変わらぬ冷徹な態度を崩していないように見えたが、昨夜からその挙動の端々には、隠しきれぬ明らかな落ち着きのなさが漂っていた。
父親が熱のあまり苦しそうに重い息を吐き出すたびに、小竹の視線は吸い寄せられるようにしてそちらへと向けられ、母親が傷口の布を新しく取り替えるたびに、その小さな口元が固く強張る。
彼は、自らの胸の内に生じた「父親を失うかもしれない」という激しい恐怖を、ただ高度な理屈と理性の蓋によって、必死に押し殺して隠しているだけにすぎなかったのだ。
本当は、他の誰よりも、怖くて仕方がないはずであった。
「……別段、お前たちに聞かせるほどの、大層な話などではないわ」
弥右衛門は、忌々しそうにそう吐き捨てると、自らの大きな頭を無造作に振った。
「庄助の親父をはじめとする、村の主立の連中が数人、あらかじめ示し合わせて屋敷に集まっていた。ただそれだけのことよ」
「やはり、兄上の作ったあの竈の技術が目的だったのですね」
「ああ、そうだ」
父親は、食べ終えた魚の硬い骨を、囲炉裏の灰の中へと乱暴に放り投げた。
「日吉が考え出したあの泥竈の仕組みを、奴らはひどく気味悪がり、同時に激しく警戒しておったのだ」
「薪をほとんど消費しないからですか」
「それもあるだろうな」
弥右衛門は、自らの傷の痛みに耐えるように、喉の奥で低く唸り声を漏らした。
「特に、裏山で炭を焼いて生計を立てている炭焼きの連中からすれば、日吉の竈は、自らの一族の商いを根本から脅かしかねない、目の上のたんこぶのような存在に映ったのだろう。これまで十束の薪を消費していた家が、日吉の竈を真似ることで、わずか半分の薪で冬を越せるようになってみろ。彼らの売る薪や炭の価値は暴落し、商いは成り立たなくなる。そりゃあ、彼らにしてみれば面白かろうはずがないわな」
日吉は、その父親の的確な指摘を、無言のまま深く頷きながら聞いていた。
これこそが、かつて前世における高度な経済社会においても、幾度となく繰り返されてきた「既得権益の衝突」という、醜くも不変の構造そのものであった。
人間という生き物は、どれほど社会全体にとって有益で、素晴らしい改善案が提示されたとしても、自らの現在の権益や立場が少しでも脅かされると分かった瞬間、それを全力で叩き潰そうと躍起になる。
その新しい技術が合理的であるか、あるいは多くの人々を救うものであるかなどという高尚な理由は、彼らの自私自利の欲望の前には、全く何の意味も持たないのだ。
「だが、それほどの有益な技術であるなら、普通はそれを自らの手で真似て、取り込もうとする方向に動くのが道理ではないのか」
日吉が素朴な疑問を口にすると、父親は鼻の奥で小馬鹿にするようにせせら笑った。
「普通、な」
囲炉裏の火が、風に煽られてゆらゆらと大きく揺れた。
「日吉。お前は頭の回転が早すぎるがゆえに、かえって人間の持つ愚かな本性というものを、まだ何も理解できておらんのだ」
「……どういう意味だよ、父ちゃん」
「お前は、『本当に役に立つものであれば、誰しもがそれを素直に受け入れ、欲しがるはずだ』と信じ込んでいる。だが、現実はそうではないのだ。人間というものはな、日頃から自分よりも遥かに身分が低く、取るに足らない貧乏人だと見下していた相手が、自らの預かり知らぬ新しいやり方で得をし始めると、ただその事実だけで、腸が煮えくり返るほどに腹が立つ生き物なのだよ」
その冷徹極まりない指摘を突きつけられ、日吉は二の句が継げなくなって、静かに口を閉ざした。
前世におけるあの息の詰まるような職場環境において、自分が良かれと思って提案した業務改善案が、古い上司たちのプライドを傷つけ、執拗な嫌がらせの標的にされたあの日々の記憶が、生々しく蘇ってきたからだ。
正しいこと、合理的な主張を述べた人間こそが、その場の感情的な反発によって激しく嫌われ、排除されていく不条理。
だが、前世の近代社会においては、どれほど激しい衝突が起きたとしても、せいぜい組織内での冷遇や陰口といった、精神的な嫌がらせで終わるのが関の山であった。
しかしながら、この法も人道も存在しない戦国の乱世においては、その衝突の結末として、いとも呆気なく、赤黒い血が大地へと流れ落ちることになるのだ。
「奴らは最初、日吉の竈を指して、長年守られてきた山の神への冒涜だの、人心を惑わす邪悪な妖術だのと、もっともらしい理屈を並べ立てて非難しておったわ」
弥右衛門は、吐き捨てるように冷たい笑いを浮かべた。
「実にお笑いぐさな話だ。結局のところ奴らは、自らの知恵の及ばない新しいやり方が、ただただ怖くて仕方がなかっただけにすぎんのだ」
「それで、言葉が通じずに、いきなり掴み合いの殴り合いになったのか」
「ああ。殴り合い程度の、他愛ない喧嘩で済んでおれば、まだ良かったのだがな」
父親の瞳の奥に、不気味な暗い光が宿った。
「向こうの連中は、最初から話し合いなどする気はなく、我が家を村全体の見せしめにする腹積もりだったのだ」
ともが、その言葉に不吉な予感を覚え、びくりと自らの小さな身体を震わせた。 母親のなかも、針を動かす手をぴたりと止め、夫の顔を見つめていた。
「あの庄助の親父が、偉そうにこう宣いやがった。『どこからともなく流れ込んできた余所者の餓鬼どもが、村の伝統を無視して勝手な知恵を広めれば、村の秩序が根底から乱れる』とな」
「余所者だって……? 俺たちだって、この村に生まれて、泥にまみれて同じように田畑を耕してきた同じ村の人間じゃないか!」
「そんなものは、力を持たぬ貧乏人の勝手な言い分にすぎんわ。この過酷な時代においてはな、どれほど長くその土地に暮らしていようとも、自らを守る力を持たぬ弱者は、いつまで経っても本物の村の人間としては扱われんのだよ」
父親の、諦念に満ちたその言葉を聞いた瞬間、隣にいた小竹の小さな両手が、自らの着物の裾を、白くなるほどにぎゅっと力強く握りしめた。
日吉は、その弟の微細な変化に即座に気づいた。
小竹は、自らの存在や、家族がこの共同体から排除され、居場所を失うかもしれないという話に対して、常に異常なほどの過敏さを示していた。
かつて、この土地に流れ着くまでの間に、彼らがどのような凄惨な排斥の経験を経てきたのか、幼い彼らの記憶の底には、言葉に言い表せぬほどの深い傷跡が刻まれているに違いなかった。
だからこそ小竹は、再び居場所を奪われる恐怖から逃れるために、人一倍先回りして、牙を研ぎ、敵を完全に排除しようとするのだ。
家族を失いたくないという、あまりにも切実な防衛の執念が、彼を冷徹な策士へと駆り立てていた。
「わしは奴らに向かって、大声で言い返してやったのだ。日吉の考え出したこの竈の知恵は、村の多くの人々を極寒の冬から救うために、間違いなく役に立つものだと。これがあれば、凍え死ぬ家を劇的に減らすことができるはずだと」
「……それで、庄助の親父たちは何と言ったんだ」
「奴らはただ、鼻で冷たく笑いやがった。『それほどまでに素晴らしい技術であるならば、まずその作り方の全てを、お前たち貧乏人の家から、村を支配する俺たちへ無償で差し出すのが、当然の義務だ』とな」
室内の空気が、凍りついたかのように重苦しく静まり返った。 日吉は、胸の中で全てを静かに納得した。 そうか。
庄助の親父たち主立の連中は、最初から日吉の知恵を「秩序の敵」として排除したかったわけではなかったのだ。
彼らは、その驚異的な暖房と保存の技術を、自らの支配権を強化するための道具として、喉から手が出るほどに欲していたのだ。
ただし、それを対等な取引や知恵への敬意によって手に入れるのではなく、自らの圧倒的な身分差と暴力を背景にして、ただ「無償の服従の証」として、力ずくで掠め取ろうとしたのである。
「お前は、その要求を拒絶したのだな」
「当たり前だ、何を今更そんな馬鹿げたことを聞く」
弥右衛門は、自らの傷の痛みを忘れたかのように、即座に肯定した。
「あの竈も、燻り魚の保存法も、お前たちがこの地獄のような厳しい冬を何とかして生き延びるために、知恵を絞って編み出した、我が家の唯一の神聖な命綱ではないか。そのような大切な家族の宝を、ただ力で脅されたからとて、奴らのような横暴な犬畜生の前に大人しく明け渡すなど、この俺の誇りが絶対に許さんわ」
その父親の、荒々しくも揺るぎない言葉を聞いた瞬間、日吉の胸の奥底では、それまでに感じたことのないような、熱く、そして激しい感情の残り火が、赤々と燃え上がるのを確かに感じた。
この父親は、考えるよりも先に拳が飛ぶような、不器用で粗暴な男にすぎないかもしれない。
しかしながら、自らの命よりも大切な家族と、その子供たちが生み出した「価値」を守り抜くためであれば、いかなる強大な敵の脅威に対しても、一歩も引かずに命を賭して立ち向かうことのできる、本物の漢であったのだ。
「それで、完全に話し合いの場が壊れ、掴み合いの乱闘に発展したのだな」
「ああ、そうだ。最初は言葉の応酬だけだったが、酒が回って興奮してくると、奴らはだんだんと言い訳を並べるのも面倒になったらしい。挙句の果てには、『貧乏人の餓鬼の浅知恵ごとき、力ずくで奪ってしまえば済むことだ』などと、本音を剥き出しにしやがった」
弥右衛門の細められた瞳の奥に、昨夜の命がけの死闘の最中に宿っていたであろう、凄まじい殺気と闘志が再び蘇ってきた。
「気がついた時には、もうお互いに拳を握りしめて掴み合っていた。立ち塞がった奴のうち一人は、囲炉裏の真っ赤な灰の中へと豪快に突っ込ませてやった。もう一人は、屋敷の太い大黒柱へとその大頭を力任せに打ち付けて、気絶させてやったわ」
ともは、そのあまりにも生々しい暴力の描写に、再び顔面を青ざめさせ、自らの小さな手をぎゅっと握りしめた。
しかし、弥右衛門の表情からは、先ほどまでの豪快な笑顔は完全に消え去っていた。
「だが、最後の一人が、懐からギラリと光る短刀を抜いたのだ」
その低く重い声には、死線をくぐり抜けてきた者だけが有する、独特の冷徹な重みが伴っていた。
「ありゃあ、偶発的な喧嘩などではなく、最初からこの俺を亡き者にするために、隙を窺って刃を用意していたに違いない」
父親は、幾重にも巻かれた左腕の布に、静かに視線を落とした。
「もし、あの瞬間に咄嗟に左腕を差し出して刃を受け流していなければ、今頃は、この俺の腹は一文字に深く裂き破られ、臓腑が床の上にぶち撒かれていたことだろう」
母親のなかの顔が、その最悪の結末を想像したのか、悲痛に激しく歪み、ともは溢れ出そうになる悲鳴を遮るように、自らの口元を両手できつく押さえた。
小竹だけは、その場に端座したまま、一言の言葉も発することなく、ただじっと床の一点を見つめ続けていた。
だが、その小さく華奢な肩は、寒さとは明らかに異なる理由によって、かすかに、そして小刻みに震え続けていたのだ。
日吉は、その弟の様子を気遣い、そっと穏やかな声で話しかけた。
「小竹」
「……何ですか、兄上」
「少しばかり、身体が寒いのか」
「違います」
小竹は、弾かれたように即座に否定してみせた。 しかしながら、その口から漏れ出た声は、いつもとは異なり、著しく掠れて頼りない響きを帯びていた。
「私は……」
小竹は、自らの顔をさらに下へと俯かせ、消え入るような声で語り継いだ。
「父上が、全身を赤黒い血と泥で濡らし、今にも崩れ落ちそうな姿で帰ってこられたあの瞬間……本当に、このまま死んでしまうのではないかと、怖くて仕方がなかったのです」
その瞬間、姉のともは信じられないものを見たかのように、驚愕して両目を見開いた。
母親のなかもうろたえたように、いつもは冷徹そのものであったこの次男の顔を、凝視していた。
小竹自身も、自らの胸の奥に厳重に仕舞い込んでいたはずの本音が、不用意に口から漏れ出てしまったことにようやく気づいたようで、ひどく慌てた様子でふいと顔をそむけた。
「ち、違います!
私はただ、我が家の最大の働き手である父上がこのまま倒れてしまっては、今後の薪集めや田畑の耕作に著しい支障をきたし、私たちの生存確率が低下するから心配しただけで……」
「お前は、本当にどこまでも不器用で、可愛げのない弟だな」
日吉は、そのあまりにも必死な取り繕いを見て、思わず胸の奥が温かくなり、快活な苦笑を漏らした。
小竹は、自らの本心を見透かされたのがひどく悔しかったのか、自らの顔を真っ赤に染め上げながら、日吉をきつく睨みつけてきた。
「兄上は、そうやって他人の真面目な心配を、すぐに面白がって茶化す悪い癖があります!」
「茶化してなどいないよ。ただ、お前のその不器用な本心が、あまりにも素直で嬉しかっただけだ」
「完全に茶化しています!」
「いや、していない」
「絶対にしています!」
思わず大声を上げて感情を露わにした小竹は、はっと我に返ったように、自らの口を両手で慌てて塞ぎ、再び気まずそうにうつむいた。
その、あまりにも年齢相応な可愛らしい子供としての反応を見て、姉のともが堪えきれなくなったように、ぷっと小さく吹き出した。
母親のなかも、涙を浮かべながらも、愛おしそうにこの不器用な次男の様子を見つめ、肩を震わせて微笑んでいた。
弥右衛門までもが、痛む身体を揺らしながら、満足そうに低く笑い声を漏らした。
「何だ。いつもは大人びた小難しいことばかりを宣う小賢しい餓鬼だと思っていたが、中身はちゃんと、まだまだ他愛のない幼子ではないか」
「父上まで、そのようなことをおっしゃるのですか!」
小竹は完全に拗ねてしまい、ぷいと囲炉裏の方へ背を向け、うずくまってしまった。
しかしながら、その衣服の隙間から覗く細い耳の裏が、囲炉裏のいかなる熾火よりも赤々と赤面しているのを、日吉は微笑ましく見つめていた。
日吉は、その弟の温かい背中を見つめながら、自らの胸の内で静かに、深い安堵の息を吐き出した。 良かった。
この弟は、この過酷な乱世の不条理によって、その豊かな感性を完全に磨り潰されてしまったわけではなかった。
彼は、未だにちゃんと、家族を愛し、失うことを恐れることのできる、血の通った優しい子供であり続けてくれているのだ。
囲炉裏の火が、風に揺られて不気味に大きく影を揺らした。
その暗い赤色の光を見つめながら、日吉は自らの頭脳をフル回転させ、今後の生き残りへの算段を冷徹に組み立てていた。
ただ役に立つ知恵を示すだけでは、この乱世においては決して十分ではない。 父親の言う通りなのだ。
合理的な理屈や道理は、人間の持つ醜い欲望やプライドを納得させるどころか、時には逆に、激しい恐怖と嫉妬、そして排除の暴力を生み出す引き金となってしまう。
誰もが極限の生活線の上で生きているこの閉鎖的な農村においては、特にその傾向が顕著であった。
ならば、自分たちのような無力な弱者が、持てる知恵を奪われることなく生き残るために必要なものは、一体何なのだろうか。
それは、暴力によって脅されても、決して潰されることのない、強固な「集団の仕組み」の構築であった。
一人の傑出した腕力に頼るのではなく、前世の近代社会において洗練されていた、役割を細かく分担する「分業」、全体の利益を適切に配分する「管理」、そして他者が自分たちの存在なしには一日たりとも暮らせなくなるような「技術的依存」の仕組み。
村人たち全員を、自らが生み出した新しい経済の流れの中に巻き込み、誰もがそこから抜け出せなくなるような強固なネットワークを築き上げること。
それこそが、物理的な武器を持たぬ日吉たちが、自らの命を守り抜き、この村社会を実質的に掌握するための、唯一の生存戦略に他ならなかった。
まさにその時であった。
土壁に背を預けていた弥右衛門が、突然、肺の奥から絞り出すような激しく重苦しい咳を何度も繰り返した。
その凄まじい衝撃によって、左腕に巻かれていた古い布の隙間から、それまで以上に濃厚な赤黒い生血が、じわりと滲み出て床の上に広がっていく。
母親のなかが、悲痛な悲鳴を上げて夫の身体を抱きしめた。
「あなた! しっかりしてください、あなた!」
「……騒ぐな、大したことは……」
しかしながら、その返答の声には、先ほどまでの頑強な張りが完全に失われており、蚊の鳴くような、ひどく頼りない響きしか伴っていなかった。
父親の身体は、すでに猛烈な熱のために激しく小刻みに震えており、その全身からは、肉体が内側から腐敗していく不吉な熱気が立ち上っていた。
日吉は素早く父親の額に手を触れたが、その皮膚からは、まるで燃え盛る石を直接触っているかのような、異常極まりない熱量が伝わってきた。
傷口から入り込んだ不浄の黴が、血液を伝って全身へと巡り、父親の生命活動を根本から破壊しようとしている、破傷風や敗血症という名の、死への秒読みが始まっている熱であった。
まずい。 本当に、事態は一刻の猶予も許されない極限の状態に瀕している。
このまま何の手も打たずに放置すれば、父親は数日のうちに、高熱の悶絶の果てに命を落としてしまうだろう。
そして、もしもこの家を支える最大の「牙」であり「盾」であった弥右衛門という頑強な戦力が失われたと知れば。
村の庄助やその親父たちは、今度こそ何の躊躇もなく、この無防備になったあばら屋へと雪崩を打って押し寄せ、自分たちの持つ技術と命を、力ずくで根こそぎ奪い去るに違いなかった。
日吉は、その破滅の未来を想起しながらも、静かに立ち上がり、自らの瞳の奥に確固たる決意の火を灯した。
「小竹」
「……はい、兄上」
「明日、村の子供たちを、人目のつかないあの土手の窪地へと集めろ」
小竹は驚いたように振り返り、兄の顔をじっと見つめた。
「いよいよ、例の新しい仕組みを始めるのですか」
「ああ、そうだ。これ以上、奴らに好き勝手に奪われ、血を流されるままにしているわけにはいかない」
「兄上……怖くはないのですか」
小竹は少しだけ言葉を濁し、不安げに、だが微かな期待を込めて尋ねた。 日吉はそれに対して言葉を返すことはせず、ただ口元に不敵な笑みを浮かべてみせた。
怖くないはずがなかった。
自らの肉体は、未だにわずか八歳に満たない、力も身分も、後ろ盾すらも一切持たぬ、取るに足らない小作農の子供にすぎないのだ。
しかしながら。
「怖いからこそ、今ここで動くのだ」
日吉の声は、不思議なほどに静かで、かつ揺るぎない重みを帯びていた。
「ここで俺たちが恐怖に怯えて立ち止まれば、父ちゃんが死んだ後、俺たちは奴らに生きたまま美味しく喰い散らかされて終わるだけだ。生き残るためには、泥を啜ってでも、奴らの頭上へと這い上がってやるしかないのだよ」
小竹はしばらくの間、兄のその圧倒的な覚悟の前に圧倒されるように黙り込んでいたが、やがて、その小さな顔にいつもの冷徹な仮面を取り戻し、力強く頷いた。
「……分かりました、兄上。すべては、兄上の算段の通りに」
日吉は、その弟の健気な姿にそっと近づき、その小さな頭を、優しく何度も撫でてやった。 小竹は一瞬だけ、心地よさそうにその細い両目を細めた。
それは、紛れもない、ただの五歳の幼い子供としての素朴な顔立ちであった。
翌朝。
尾張の空は、厚く重苦しい灰色の雲に一面が覆われており、庄内川の冷たい水面を舐めるようにして吹き抜ける冬の風が、人間の骨の真髄まで凍らせるかのように鋭く冷たかった。
父親の弥右衛門の容態はさらに悪化しており、すでに意識を失ったまま、うわ言のようにかつての戦場の名を呟き、時折見えない槍を払うかのように、傷ついた腕を虚しく動かし続けていた。
母親となかは一晩中一睡もせずに枕元での看病を続け、姉のともは、少しでも熱を下げるために何度も冷たい水を桶で運び続けていた。
日吉は、意を決して一人、外の冷たい大気の中へと一歩を踏み出した。
村人たちの自分たちに向ける視線は、昨日とは明らかに異なり、より露骨で陰湿なものへと変化していた。
物陰から、こちらを品定めするようにしてニヤニヤと窺う庄助の手下の若い男たち。 ひそひそと声を潜めて、我が家の没落を噂し合う女たちの醜い顔。
彼らはすでに、この家の最大の大黒柱である弥右衛門が、主立の男たちとの死闘の果てに大怪我を負い、高熱で瀕死の窮地にあるという事実を、完璧に察知しているのだ。
野生の狼の群れが、手負いの獲物が弱り果てて倒れるその瞬間を、固唾を呑んで周囲を取り囲みながら待ち受けているかのような、陰湿極まりない沈黙が村を支配していた。
だが、日吉は彼らの悪意の前に怯むつもりなど、毛頭持ち合わせてはいなかった。
「小竹、作戦を開始する。子供たちを集めてこい」
「はい、兄上。餌としては、あの燻り魚の味を用いますか」
「ああ、そうだ。自らの手で働いた分だけ、その見返りとして美味いものを腹いっぱい食べさせる。それが、新しい仕組みの第一歩だ」
小竹は深く頷き、自らの細い足を動かして、一目散に雪の積もった道を駆け出していった。
しかしながら、その足元が未だ凍りついた雪に不慣れであったためか、途中で盛大に足を滑らせ、その場に不器用に転びかけてしまった。
「うわっ!」
慌てて体勢を立て直そうと必死に踏ん張ったものの、結局のところ、泥だらけの雪の上に尻餅をつく形となってしまった。
日吉は、その弟の相変わらずの不器用な姿を見て、思わず大声を上げて吹き出してしまった。
「何を笑っているのですか、兄上!」
「いや、いつもはどんな賢者よりも大人びた理屈を宣うお前でも、雪の上では呆気なく転んでしまうのだなと思ってさ」
「これは、この雪の積もり方が悪いのです! 私の足並みが乱れたわけではありません!」
顔を真っ赤に染め上げながら必死になって怒鳴るその姿は、紛れもない、ただの五歳の幼い子供としての素朴な姿そのものであった。
日吉は、泥を払いながら立ち上がる弟の姿を見つめながら、自らの胸の奥で、かつてないほどの凄まじい「生への執念」を、静かに燃え上がらせていた。
この幼い弟の笑顔を、決して乱世の理不尽に奪わせてなるものか。 瀕死の窮地にある父親も。 必死に家族を支える母親も。 優しい姉のともも。
自分の大切な家族の全てを、この手で完璧に守り抜いて見せる。 そのためであれば。
どんな非情な知恵を用いようとも、他者を陥れる毒を調合しようとも、この狂った時代の理不尽そのものを利用して、泥の底から奈落を這い上がってやるのだと、彼は改めて心に誓うのであった。




