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豊臣兄弟、最底辺から始める天下奪取 ――現代営業の知略で、戦国の理不尽を喰い破る――  作者: チャプタさん


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第五話:冬の蜜と血の毒

第五話:冬の蜜と血の毒


 尾張の国に立ち込める冬の夜というものは、日々の蓄えを持たぬ最も貧しき者たちの家から順番に、その冷酷な指先を伸ばして命を毟り取っていく非情なものであった。

 夕暮れ時、西の空を僅かに彩っていた最後の残光が消え去る頃には、世界そのものがまるで深い奈落の底に沈み込んでいくかのように、濃密な闇に完全に支配されてしまう。

 山々の稜線は墨汁を流し込んだような完全な漆黒へと姿を変え、その上空には、冷え切った硝子の破片を散りばめたような星々が、鋭利に瞬きながら地表を見下ろしている。

 吹きつける狂暴な北風は、我が家の粗末な板壁のそこかしこに生じた隙間を容赦なく潜り抜け、囲炉裏の片隅で細々と灯っていた僅かな火の粉を、今にも吹き消さんばかりに激しく揺らし続けていた。

 火が、あまりにも弱い。  それを維持するための肝心の薪が、決定的に不足しているからであった。

 村の中で、共有地である入会地からの薪の伐り出しに対する管理が厳格化されて以降、自分たちのような余所者同然の貧しい家が、勝手に山へ立ち入ることは事実上不可能に近くなっていた。

 もしも夜間に不自然なほどに赤々と煙を立ち上げ、温もりを貪るような真似をすれば、それだけでたちまちのうちに貪欲な周囲の目が向けられ、密告や処罰の対象となりかねない。

 ゆえに、この凍えるような夜であっても、自らの火を細く長く、息を潜めるようにして保ち続けねばならず、それは耐え難い苦痛を伴う生活を強いるものであった。

 囲炉裏の灰の周りに、日吉、小竹、そして母親のなかと姉のともが、互いの体温を分け合うようにして、肩をきつく寄せ合って縮こまっていた。

 残り火の微かな熱を、家族全員で必死に奪い合うようにして凌がねばならぬ、長く辛い冬の夜であった。


 日吉は、囲炉裏の僅かな赤光に照らされた、自らの泥に汚れた掌をじっと見つめ続けていた。

 寒風によってあちこちがぱっくりとひび割れた乾いた皮膚、霜焼けによって紫色に赤黒く腫れ上がった手の指、そして日々泥土を掘り返し続けたために黒く煤汚れた爪先。

 この戦乱の時代の冬というものは、そこに生きる農民たちの肉体を、何らの容赦もなく、確実に、一歩ずつ蝕んで破壊していく恐るべき存在であった。

 前世のあの恵まれた近代的な日本において、暖房の効いた快適な部屋の中で「寒い」と口にしていたあの日々が、今となってはまるでお伽話の中のぬるい冗談のように思えてならない。

 ここには、肉体を保護するための温かい肌着も、外気を遮断する頑丈な壁も、ましてや清潔な衣服などどこを探しても見当たらず、夜が来ればただうずくまって寒さに耐えるしかなかった。

 朝、目を覚ましたその瞬間に、隣で眠っていた家族の誰かが、すでに息を引き取って冷たい土の塊へと戻っていたとしても、それを怪しむ者など誰一人として存在しない過酷な世界。

 それこそが、この時代の底辺に生きる者たちが、日々背負わねばならぬ動かし難い現実であった。

 だがそれと同時に、日吉の胸の奥底には、前世とは明らかに異なる、自らの力で生存を掴み取っているという奇妙な手応えもまた、確実に芽生え始めていた。

 自分は確かに生きている。

 そして、この冷酷極まりない冬の牙を、自らの知識と工夫によって、昨日よりも、そして去年の冬よりも、遥かに上手く越え始めているという実感があった。

 少ない薪であっても熱を逃がさずに煮炊きを完了できる泥の改良竈、海から得た貴重な塩を用いて食物の腐敗を防ぐ保存の知恵、そして煙の発生を極限まで抑える工夫。

 それらは、決して歴史の表舞台に名が残るような派手な技術などではなかったが、貧しい家族の生存の確率を、一割、二割と確実に向上させていく確かな力であった。

 この過酷な戦国の農村においては、そのわずか数割の生存率の差こそが、そのまま生と死を隔てる決定的な境界線となるのである。


「父上、少しばかり帰りが遅すぎますね」


 小竹が、手元で細い藁を編む単調な作業を休めることなく、ぽつりと静かな声を漏らした。

 その小さな手先は、一寸の乱れもなく、信じられぬほどに正確な動きで、実用的な太さの縄を淡々と綯い続けていた。

 日吉は、ちらりと隣に座る弟の横顔を盗み見た。  小竹の凹凸の少ない端正な横顔は、囲炉裏から立ち上る僅かな火に照らされ、半分だけが不気味に赤く染まっていた。

 以前の自分であれば、感情を一切交えずに物事を冷徹に見据えるこの弟を、まるで温もりを持たぬ生き人形か何かのように見なして、不気味に思っていたかもしれない。

 しかしながら、この過酷な日々をともに乗り越える中で、日吉には弟の秘められた精神の構造が、少しずつではあるが、理解できるようになってきていた。

 この弟は、他者に対して無感情なのでは決してない。

 ただ、自らの胸の内に生じた激しい恐怖や、不安、あるいは怒りといった感情を、どのように外へ表現してよいのか、その術を最初から知らぬだけなのだ。

 内側から湧き上がる一切の激情を、一度自らの胸の奥深くにある強固な箱の中へと押し込め、それらを冷徹な頭脳で完全に理屈に整理し直してからでなければ、言葉として外へ発することができない。

 だからこそ、周囲の者からは、まるで凍りついた鉄のように冷たく見えてしまうのであった。

 だが、その無表情な視線の奥底には、自らの唯一の拠り所であるこの貧しい「家族」に対する、常軌を逸したほどに強い執着と愛情が、確かに隠されていることを、日吉は見抜いていた。


「村長の屋敷までは、子供の足であっても、それほど遠い距離ではないはずなのだがな」


 日吉は、少しでも火を長持ちさせるために、細く割った枝を灰の中に丁寧にくべながら答えた。


「もしかすると……何やら厄介な揉め事でも起きておるのかもしれん」


 その何気ない一言を聞いた瞬間、隣で静かに縮こまっていた姉のともの細い肩が、恐怖のために小さく不自然に揺れた。

 母親のなかもまた、無言のまま針を動かし続けていたが、継ぎ接ぎだらけの布を握りしめるその指先は、小刻みに、そして微かに震えていた。

 彼女たちこの時代を生きる女たちは、自らの経験から、深く理解していたのだ。

 夜の闇が完全に降りて久しいというのに、村の交渉の場へ出かけたきり帰ってこない男の存在が、一体どれほど恐ろしい意味を有しているかを。

 この荒廃した閉鎖的な村社会においては、何の痕跡も残さずに、一つの命が呆気なく消え去ってしまうことなど、決して珍しい出来事ではなかった。

 凍てついた用水路の深みへ足を踏み外した、凍てついた夜の山林で滑り落ちて頭を打った、あるいは、他人の家の備えを盗み出そうとした盗人と間違えられて殴り殺された。

 男を闇に葬り去るための都合の良い言い訳など、力を持つ者たちの手にかかれば、いくらでも後から作り出すことができる。

 そして、そのようにして消え去った貧しい小作農の不審な死に対して、わざわざ危険を冒してまで真相を追及しようとするような物好きな者など、この地には誰一人として存在しないのだ。


 囲炉裏の僅かな火の粉の上で、昼間に燻しておいた小魚の脂が、ぷつりと音を立てて小さく爆ぜた。

 それと同時に、香ばしい煙の匂いが、室内の冷たい空気の中へと静かに漂い広がっていく。

 日吉が設計したあの改良竈のおかげで、最近の彼らは、他人に気づかれぬ程度の極めて少量の薪を消費するだけで、川で捕らえた貴重な魚を乾燥させ、保存食へと加工することが可能になっていた。

 しかしながら、その生き延びるための素晴らしい「匂い」そのものが、今や彼らにとって最大の脅威へと変貌しつつあった。

 誰もが極限の飢えに喘いでいる貧しい村にあって、他人の家から漂ってくる美味そうな食物の香りは、それだけで周囲の者たちの理性を失わせる、暴力的なまでの刺激となるのだ。

 庄助をはじめとする、村の力自慢の男たちの自分たちに向ける視線は、ここ数日間で明らかに異様なものへと変化してきていた。

 以前であれば、ただの取るに足らない貧乏人の餓鬼を、蔑み、嘲笑うかのような冷ややかな視線にすぎなかった。

 しかし今は違う。

 それは、「自分たちが飢えに怯えているというのに、何やら怪しげな知恵を用いて、自分たちを差し置いて先に生き延びようとしている不届き者を見る目」であった。

 その大衆の持つ歪んだ嫉妬と防衛本能が、どれほど凄惨な暴力を引き起こす引き金となるか、日吉は前世の過酷な歴史や、自らの社会経験を通じて、嫌というほど目にしてきた。

 人間という生き物は、自らよりも遥かに下等だと思っていた格下の存在が、自らの頭上を飛び越えて先へと進むことを、決して感情的に許すことができない生き物なのだ。


 まさに、その嫌な予感が現実のものとなったかのように、静寂を破って、我が家の粗末な板戸が激しい音を立てて外側から乱暴に押し開けられた。

 凍てついた夜風が、轟音とともに室内に一気に吹き込み、それと同時に、鉄錆のような濃厚な生々しい血の臭いが、狭い空間へと一瞬にして流れ込んできた。


「あなた!!」


 母親のなかの、耳を突く激しい悲鳴が、室内に響き渡った。

 土間の薄暗い入り口に辛うじて立ち尽くしていた父親の弥右衛門は、その全身を凍りついた雪と、赤黒い泥、そして自らのものと思われる大量の血によって凄惨に汚していた。

 左腕の継ぎ接ぎだらけの着物の袖は鋭利な刃物によって切り裂かれ、その傷口から滲み出た赤黒い血が、ぽたり、ぽたりと、土間の冷たい床の上へと冷酷な音を立てて滴り落ちていた。

 姉のともは、恐怖のあまり顔面をさっと青ざめさせ、言葉を失って立ち尽くした。

 なかが取り乱しながら駆け寄り、今にも崩れ落ちそうになる夫の大きな身体を、必死になってその細い腕で支えようと足掻く。


「父ちゃん! 一体どうしたんだい、この大怪我は!」


「騒ぐな……大騒ぎするほどの怪我ではない。これしきのことで、死にやあせん」


 弥右衛門は、強がって痛みを堪えるように不敵な笑みを浮かべて見せたが、その浅黒い額には、耐え難い激痛を示す冷たい脂汗が、びっしりと浮かび上がっていた。

 日吉は、その凄惨な状況を前にしても、不思議なほどに頭が冷たく冴え渡るのを感じ、即座に大声で指示を飛ばした。


「小竹、すぐに灰をどけて火を強くしろ! とも姉は急いで竈から温かい湯を持ってくるんだ! 母ちゃん、早く奥の棚から一番清潔な布を探して持ってきてくれ!」


 それは、自らの頭で考えるよりも早く、肉体が反射的に下した決断であった。

 前世における過酷な応急手当の知識や、危機管理の経験が、日吉の脳内で瞬時に組み合わさり、最も効果的な手順を導き出していく。

 まずは直ちに出血を止め、傷口を清浄な湯で洗い流し、目に見えぬ破傷風や化膿の発生を完璧に防がねばならない。

 医療技術が全く存在しないこの未開の時代において、傷を負うことそのものよりも、その後の傷口の腐敗や感染によって、命を落とす農民の数が圧倒的に多いことを、日吉は十分に知っていた。

 日吉は父親の腕に手を添え、裂けた衣服の隙間から、その痛々しい傷口の状態を素早く、かつ細かく観察した。

 傷口は骨に達するほどに深かったが、幸いなことに、腕を動かすための重要な筋までは切断されていないようであった。

 これならば、適切な処置さえ施せば、十分にその腕の自由を取り戻し、助かる可能性が残されている。


「村長の屋敷での話し合いだったはずだ。なぜ、これほどの刃物沙汰に発展したのだ」


 日吉が、奥歯を噛み締めながら、低く重い声で父親に問いかけた。  弥右衛門は土壁に背中を預け、苦しそうに荒い吐息を何度も漏らしながら、その場に力なく座り込んだ。


「形式の上では、ただの話し合いだったさ……。少なくとも、奴らが本性を現すまではな」


 男の口元が、自嘲と怒りによって、醜く歪められた。


「最後までは、穏やかな話し合いだったのだ」


 弥右衛門は、痛みに耐えながら、村長の屋敷の奥で行われた、恐るべき交渉の顛末を、ぽつりぽつりと切れ切れに語り始めた。

 そこには、村の炭焼きを生業とする実力者たちや、あの庄助の父親が、あらかじめ示し合わせたかのように居並んでいたという。

 彼らは日吉の父親を取り囲み、日吉が考案したあの特別な形の泥竈の設計図と、魚を長持ちさせるための燻製技術、そして貴重な塩をどのように用いているのか、その秘密の全てを、今すぐ村全体のために無償で差し出せと、居丈高に要求してきたのだ。

 それは、対等な相談などではなく、始めから弱者からすべてを搾り取ることを前提とした、傲慢な強要に他ならなかった。


「お前は、その要求を拒絶したのか」


「ああ、当然だ」


 弥右衛門は、痛々しく顔を歪めながらも、我が子たちを真っ直ぐに見つめ、誇らしげに胸を張った。


「あの竈も、燻り魚のやり方も、お前たちがこの厳しい冬を生き延びるために、必死の思いで編み出した我が家の唯一の命綱ではないか。そのような貴重な知恵を、ただ力で脅されたからとて、奴らのような横暴な連中に簡単に手渡すことなど、できるはずがなかろう」


 その言葉を聞いた瞬間、日吉の胸の奥深くで、それまでに感じたことのないような、熱く、そして激しい感情の波が沸き起こるのを強く感じた。

 この不器用で粗暴な父親は、決して単なる愚かな百姓などではなかった。

 どれほど他者より弱く、貧しく、常に傷だらけの境遇に置かれていようとも、自らの家族が持つ大切な「価値」を守るために、自らの命を賭してまで意地を通すことのできる、本物の男であったのだ。


 小竹は、兄の指示通りに黙々と灰を散らし、竈から燃え盛る火種を移して囲炉裏の火を大きく育てていた。

 その赤々と燃え上がる炎の横顔を見つめながら、日吉はふと、これまで気づかなかったある重大な異変に気づいた。

 藁縄を綯う小竹の小さな両手が、本当に僅かではあるが、細かく震えていたのだ。

 いつもであれば、どのような窮地にあっても氷のように冷静沈着であったはずのその指先が、目に見えて動揺している。

 日吉は、その瞬間、この弟が有する「本質的な弱さ」を、初めて明確に理解した。  小竹は、決して冷酷な鉄の人形などではなかった。

 彼は、自らの唯一の心の支えである父親が、もしかするとこのまま死んでしまうのではないかという、身を裂くような激しい恐怖に、その小さな胸を支配されていたのだ。

 ただ、その激しい感情をどのように表に出してよいか分からず、いつものように理性の仮面を必死に被り直して、耐えていただけなのであった。


「小竹、迅速に火を起こし、温かい湯を用意してくれて、本当にありがとうな」


 日吉がそっと手を重ねて声をかけると、小竹は一瞬だけ驚いたように両目を丸く見開いた。

 それから、自らの感情を見透かされたのが気恥ずかしかったのか、ふいと不自然に顔を背けて、火の方を見つめ直した。


「別に……当たり前のことをしたまでです。父上にこのまま死なれては、我が家の貴重な働き手が失われて困りますから」


 口から発せられたのは、相変わらずぶっきらぼうで冷たい理屈の言葉であった。

 しかしながら、その細い首元から耳の裏にかけて、囲炉裏のいかなる炎よりも赤く、恥ずかしそうに染まっているのを、日吉は見逃さなかった。

 日吉は、その弟の不器用な愛らしさに、思わず胸の奥が温かくなり、小さく笑い声を漏らした。  小竹はむっとした表情を浮かべ、兄を睨み返してきた。


「何がそんなにおかしいのです、兄上」


「いや。お前も、どれほど口では小賢しい理屈を捏ねようとも、やっぱり案外、ちゃんと可愛い我が弟なのだなと思ってさ」


「……兄上は、時折本当に、余計なことばかりを申されます」


 その二人の微笑ましいやり取りを見て、先ほどまで恐怖に強張っていたともの顔が緩み、思わずクスクスと吹き出した。

 土間の中に張り詰めていた、あの暗く重苦しい破滅的な殺気が、その一瞬の笑い声によって、氷が解けるかのように和らいでいく。

 母親のなかもまた、涙を浮かべながら、小さく、だが安堵したように微笑みを浮かべた。

 弥右衛門は、自らの傷の痛みに苦笑を交えながら、我が子たちの様子を静かに眺めていた。


「このような、今にも殺されんとする非常時にあって、平然と笑い合える家族など、この尾張中を探しても他にはおるまいな」


「ここで笑わなければ、この過酷な泥の底のような暮らしを、一体どうやって乗り越えろというのだ」


 日吉は、ともが運んできた温かい湯に布を浸し、父親の裂けた傷口を、丁寧に、かつ慎重に洗い流しながら答えた。

 お湯が傷口に触れるたび、赤黒い血が再び滲み出し、弥右衛門は歯を食いしばって全身の筋肉を硬直させた。

 汚れを取り除き終えた後、日吉は母親の方へと力強い視線を向けた。


「母ちゃん、家の一番奥に隠してある、あの貴重な『蜂蜜』を持ってきてくれ」


 なかの動きが、その想定外の指示を聞いて、驚きのためにぴたりと静止した。

 それは、昨年の秋に山中で奇跡的に採取し、家族の誰かが冬の重い病に侵された時の最後の命綱として、壺の底に厳重に保管しておいた、極めて貴重な蜂蜜であった。


「そんな貴重なものを、今ここで使ってしまって良いのかい……!」


「惜しんでいる場合じゃない。父ちゃんのこの深い傷口が、冬の黴や泥によって腐って落ちてしまうことに比べれば、蜂蜜の壺など、安いものだ。早く持ってきてくれ!」


 日吉は、差し出された貴重な蜂蜜を自らの指先にたっぷりと掬い取ると、それを父親の赤く裂けた生傷の奥深くへと、躊躇することなく丁寧に塗り込んでいった。

 甘酸っぱい豊かな蜂蜜の芳香が、土間を支配していた生臭い血の臭いと複雑に混ざり合い、これまでに嗅いだことのないような、生命の気配を感じさせる不思議な匂いとなって、室内を包み込んでいく。

 それはまるで、目の前に迫り来ていた「死」の誘惑を、人間の生への執拗な渇望と知恵によって、力ずくで覆い隠そうとするかのような、厳かな儀式でもあった。

 弥右衛門は、傷口に塗られた蜂蜜の刺激に、低く、かつ驚いたような呻き声を漏らした。


「傷口に、随分と染みるか」


「いや……染みはするが、妙な感覚だ」


「何が、妙なのだ」


「これまで戦場で受けてきた数々の傷に比べて、なんだか……とても温かく、身体の奥に力が戻ってくるような気がするのだ」


 その父親の素朴な言葉を聞いた瞬間、なかの目から堪えきれなくなった涙がポロポロと溢れ出し、彼女は笑いながら夫の手をきつく握り締めた。

 日吉は、その光景を眺めながら、自らの胸の奥が締め付けられるような、哀しい痛みを覚えていた。

 この戦国の世を生きる人々は、本当に、驚くほど呆気なく、そして簡単に命を落としてしまう。

 だからこそ、このような日吉がもたらした、ほんの僅かな前世の知恵や、手当ての温もり一つによって、まるで地獄の中で蜘蛛の糸を掴んだかのように、救われ、深く感謝してしまうのだ。


 応急の処置をすべて終える頃には、外を吹き抜ける冬の嵐はさらにその狂暴さを増し、板壁をぎしぎしと激しい音を立てて軋ませていた。

 空からは、凍りついた白い雪片が激しく舞い散り、夜の深い闇の中へと吸い込まれるようにして消え去っていく。

 小竹は、再び静まり返った囲炉裏の火をじっと凝視しながら、押し殺したような低い声でぽつりと語りかけてきた。


「兄上」


「何だ、小竹」


「次に彼らが襲いかかってきた時のために、私たちにはどうしても、『毒』が必要となります」


 その物騒な言葉を聞いたともが、再び不安げに顔を曇らせたが、小竹は一切構うことなく、その冷徹な理屈を整然と語り続けた。


「村の貪欲な男どもは、兄上が生み出したその優れた竈と技術を、無償で手に入る極上の『蜜』だと思い込んで、力ずくで奪い取ろうと企んでいます。ならば、その蜜を不用意に奪って口にした者が、二度と立ち上がれぬほどの激しい痛みに襲われるのだと、彼らの愚かな身体に直接覚え込ませる必要があります」


「……具体的には、一体どのような罠を仕掛けるつもりだ」


「彼らに、あの竈の形を、敢えてそのまま真似させて盗ませるのです」


 小竹の切れ上がった瞳には、一切の慈悲の色は存在しなかった。


「彼らがどれほど必死になって形だけを模倣したとしても、決して上手くいかないように、竈の肝心な設計の部分、空気を取り込む隙間の割合や、熱を逃がすための排気の角度を、僅かに、かつ意図的に狂わせた不完全な竈の技術だけを、彼らの前に落としてやるのです。そうすれば、彼らが築いた竈は、火が通らないどころか、室内に猛烈な逆流の煙を立ち上げ、彼らの家を台無しにして失敗に終わるでしょう。失敗を繰り返した彼らは、結局のところ、正しき知恵を持つ兄上に対して、平伏して頭を下げ、縋るしかなくなるのです」


 日吉は無言のまま、我が弟の底知れない知略の深さに、ただ圧倒されるばかりであった。

 それは、力による直接的な対決を避けながら、相手の側の無知と欲望を利用して、自らへの絶対的な「依存」を作り出すという、極めて高度で非情な技術的支配の戦術であった。


「だが、そのような不完全な技術を教えたとなれば、向こうの男たちがこちらの企みに気づき、逆恨みをしてさらに激しい暴力を振るってくる恐れはないのか」


「その危険は、当然ございます」


 小竹は、一切の猶予を挟むことなく、即座に肯定した。


「しかしながら、私たちがこのまま何もせず、ただ大人しく彼らの言いなりになって技術を全て明け渡したとしても、彼らはいずれ用済みとなった私たちを、邪魔な存在として排除するでしょう。ならば、最初から『この家は、簡単には喰い殺すことのできない、恐ろしい牙を隠し持っているのだ』と、彼らの脳髄に深く恐怖を刻み込んでおいた方が、生存の可能性は遥かに高まります」


 囲炉裏の僅かな残り火が、パチパチと音を立てて小さく揺れた。

 その赤い光の中で、小竹はそれまで保っていた大人のような冷徹な表情を不意に崩し、本当に小さな、小さな声でぽつりと呟いた。


「……私は、父上があのように、血を流して傷だらけになって帰ってくる姿をみるのが、本当に……嫌だったのです」


 その言葉の響きは、それまで彼が語ってきたどのような高度な智略の言葉よりも、生々しく、そしてどこまでも幼い、等身大の弟としての本音そのものであった。

 日吉は大きく目を見開き、自らの中にあったすべての警戒心を一瞬にして霧散させた。

 小竹自身も、自らがそのような子供じみた弱音を漏らしてしまったことに驚いたのか、きまり悪そうに自らの顔を両手で覆い隠そうとしていた。


「だからこそ、もう二度と、私の大切な家族があのような理不尽な目にあわぬように、先手を打ってすべてを支配したいのです」


 日吉は静かに、深く呼吸を整え、自らの胸の奥底で深く納得した。  そうか。  この弟は、決して冷酷な心の持ち主などではなかったのだ。

 むしろ、他の誰よりも、この貧しくも温かい「家族」という存在に激しく執着し、失うことの恐怖を誰よりも深く知っているからこそ、その極限の防衛本能が、彼にこのような早熟な知性を尖らせていたのだ。

 これ以上の損失を出したくないからこそ、相手の悪意を誰よりも早く読み取り、先手を打って排除しようとする。

 その凄まじい防衛の執念の現れこそが、彼の持つ異様な賢さの正体であった。


 外の世界では、雪の勢いはさらに激しさを増し、万物を静寂の奥底へと閉じ込めようと荒れ狂っていた。

 日吉は、父親の血によって汚れた自らの両手を、温かい湯桶の中で静かに洗い流した。

 赤黒い血の色が、湯の中にゆっくりと溶けて消えていき、元通りの小さな子供の手が現れる。

 その光景を見つめながら、日吉は心の中で静かに、かつ強固に誓いを立てていた。

 前世のあの社会にあっても、人は常に不条理な欲望に狂い、弱者を踏みにじっていた。

 ただ正しいこと、ただ優しいことだけでは、決して自らの大切なものを守り抜くことはできなかった。

 この乱世という世界は、その人間社会が有する本質的な不条理さが、何の隠し立てもなく、剥き出しの牙となって眼前に転がっているだけにすぎない。  ならば。

 この地獄を生き抜くために必要な武器であるならば、それがどれほど泥にまみれた「知恵」であろうとも、あるいは他者を陥れる「毒」であろうとも、すべての手段を容赦なく使い尽くしてやるまでだ。


 日吉は、囲炉裏の僅かな赤光をじっと見つめ続けた。  それは、いつ吹き消されてもおかしくない、極めて小さな弱い炎にすぎなかった。

 しかしながら、その小さな炎は、確かに我が家を包み込む過酷な闇を、力強く押し返し、温もりをもたらし続けている。

 今の自分たちの存在も、全く同様であった。  未だに小さく、弱く、泥にまみれた存在にすぎないが、その生への渇望の火だけは、決して消えてはいない。


 父親の弥右衛門が、薬の効能と疲労のために、深く安らかな眠りへと落ちていった頃、小竹は静かに歩み寄り、日吉のすぐ隣へと腰を下ろした。


「兄上」


「何だ、小竹」


「父上は、このまま無事に生き延びてくださいますよね」


 日吉は少しだけ口元に穏やかな笑みを浮かべ、弟の頭を撫でながら力強く答えた。


「死なせるわけがないだろう。俺たちの知恵を、舐めるなよ」


 その力強い言葉を聞いた小竹は、ようやく心からの安堵を得たかのように、小さく、だが嬉しそうに頷いた。

 そして、日吉の細い肩に向かって、そっと自らの小さな身体を、頼るようにして預けてきた。

 五歳に満たない弟の体温は、驚くほどに細く、そして軽かった。

 しかしながら、その小さな温もりを感じるだけで、日吉の胸の奥底には、どんな強大な武力にも屈せぬほどの、凄まじい生への決意の火が、赤々と灯り続けるのであった。

 冬の夜は深く、そして冷酷であったが、我が家の囲炉裏の火は、決して消えることなく、その闇を照らし続けていた。

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